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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)ー1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)  落合莞爾

  ― すべての謎の鍵は「呉達閣と丹波衆の関係」にある
 
 
 ★皇統の「草」に任じられた丹波衆、アヤタチの血筋
 

 前月号で、周恩来の京都逗留が、一般に信じられている大正七年の秋ではなく、六年の秋であったことを明かした。その証拠となるべき事項と、反対に矛盾する事項を並べて検討して見る。

 まず、大正六年九月上旬に神戸港で周恩来を迎えたのは、旧友・呉達閣であった。これはウイルソンしか書いていないから、恐らく昭和五十五年六月にウイルソンが台北で会った達閣から直接聞いたものであろう。達閣が神戸港に迎えに行ったのは自身が京都にいたからで、当時東京にいたのなら、わざわざ神戸まで出迎えに行く筈はない。反論としては、大正六年春に一高特別予科に入った達閣が、秋に京都に住んでいる筈がない、と言うであろう。再反論すれば、そこには特殊な事情があったのである。

 大正六年十月、祖母ギンヅルに同行して京都に逝った周蔵は、修学院に住む渡辺ウメノから、結核に罹った孫・渡辺政雄の看護を依頼された。ウメノは周蔵が三年前にギンヅルの指示で、芥子栽培の秘伝書を貰いに行った相手である。参謀総長・上原勇作の命令で芥子栽培の研究をしていた周蔵は、栽培上幾つかの疑問に直面していたので、これを好機に、ウメノに教示を乞うた。するとウメノは、「それなら政雄の友人の呉達閣に聞くが良い、達閣は玄範の友人でもある」と教えられた、と伝わる。

 その足で(周蔵が政雄を)尋ねた下宿に呉達閣は居た。周蔵より五日だけ若く二十三歳であった。創価大の中国人研究者の調査で、呉達閣(瀚濤)が八年春に住んでいた下宿の所在は左京区吉田阿達町と分かったが、六年秋の下宿も多分同じであろう。「佃煮や干物などを扱う店を花街の方に出してをるらしい」という主人の素性は、恐らく渡辺政雄らと同じ族種の丹波衆で、後述する達閣と丹波衆との特別な関係から、ここが達閣の定宿となったものと思われる。

 下北半島の医師三代目・槇玄範は、丹波穴太の上田吉松が津軽藩主の息女に産ませた子・鬼一郎で初代玄範の養子になり、異父弟・上田鬼三郎は出口ナオの婿養子に入り出口鬼三郎となった。その玄範が、来日したばかりの民国留学生・呉達閣の友人とは、何を意味するのか。呉達閣も実は丹波衆でアヤタチの血筋という以外にない。

 仄聞する処、明治維新後のわが皇室外交を総攬したのは堀川御所の京都皇統で、大陸有事に備えて配下の丹波衆に清国入りを命じ、清国各所にいわゆる「草の根」を張らせた。その一例が、大本開祖・出口ナヲの次男・出口清吉で、明治二十八年の台湾平定中に戦死を装って姿を消すが、五年後の北清事変の最中に軍事探偵・王文泰として軍功を挙げたことが『京都日の出新聞』に報じられたという。北清事変後、満洲に渡って緑林の頭目となった清吉は、弟分の張作霖を親日に誘導したのである。

 丹波衆が皇統の「草」に任じたのは、「何でも食い何処でも寝られる。死むだと思うな、必ず生きてをる」と評される体質と能力を買われたのである。大正八年秋、「手の者」を求める周蔵に布施一が紹介したのは、上田吉松が越後国柏崎荒浜の倭人女性に産ませた辺見こと牧口某であった。布施は辺見をサンカァと呼び族種の特質を上のように解説したのである。
 

 ★厳しく封印された周恩来の京都滞在時期とある所業 
 
  
 ウメノが孫の政雄を預けた家は、「何より変わってをるは、下宿も離れの間借も支那人が多いとのこと」であったが、中国人が固まって住むのは、何よりも食事の問題である。支那人専用の下宿は、賄いを中華風にするのが必要条件である。珍味屋を営むという大家は中華食材の入手に不自由なく、賄い人も中華料理の心得があり、支那人下宿の条件を満たしていたのであろう。

 周蔵はその下宿に泊まることになったのか、一室で「別紙記載」を書いた。「これを書いてをると、≪日記を点けるは良い事なり。自分もさふしやふかと思ふ≫と、他人の物のぞき込んで声をかけたる人物がをる。孫息子(政雄)と大分懇意であるらしい支那人の居候なる人物、周と云うらしい。名乗らる」。政雄と大分懇意であるらしい支那人とは無論呉達閣のことで、その「居候なる人物」の周恩来を周蔵は「人品卑しからず」と評している。

 九月に来日した周恩来は、その後どうしていたのか。ウイルソンは、「神戸港で旧友の呉達閣の出迎えを受け、直ぐに東京に向かった。東京ではまず神田の東亞予備校に入学した。親切な婦人の世話で、他の中国人学生二人と一緒に、日本人の大工の家の二階に下宿することとなった。牛込の山吹館という映画館の近くで、学校にも近かった」と言う。

 ハン・スーイン(『長兄』)も、「東京に着くと南開中学の同窓生たちが(中略)彼は、大工の家の二階に、ほかの二人の留学生と一緒に(中略)その小さな家は牛込区にあり」と、簡略化こそすれ、ウイルソンとの間にとくに矛盾はない。

 その後に出た矢吹晋編「周恩来『十九歳の東京日記』」が、「九月、天津港から日本に船出し、横浜港に着いた。日本ではまず早稲田に住み(張瑞峰と同室)、ついで神田の≪日本人の旅館≫に下宿し云々」というが、その根拠は六年十二月二十二日付の周から友人宛の手紙に、「早稲田の張瑞峰(字:蓬仙)の下宿から日本人旅館(玉津館)に移った」とあるからである。創価大の研究者は来日直後の周の居所を猿楽町辺りと見ているが、居候した友人の下宿であろう。早稲田と牛込山吹町の下宿の異同はよく分からないが、「大工の家の二階」に該当すると思われるのが、周蔵の知人の請負師・藤根大庭が所有していた三軒続きの棟割長屋である。藤根配下の三人の叩き大工が住み、女房たちが二階を下宿にしていた。その一人で運送屋も兼ねていた八代(矢代か)の下宿人が周恩來であった。佐伯祐三のアトリエを建てた八代の角刈りの面影は佐伯祐三作『Y氏像』として今に残る。南開からの留学生を世話していたという「親切な婦人」は、おそらくメソジストで、キリスト教の繫がりから、クリスチャンの八代の下宿を紹介したものと思う。

 ウイルソン説でもハン・スーイン説でも、周は七年の秋に達閣夫妻に京都に招かれ、そのまま八年春の帰国まで京都に長逗留したことになる。周の最初の京都滞在は、実は、(両人の言う大正七年ではなく)六年の秋であったのだが、そこで丹波衆の看護婦と同棲したことは、達閣にとって後々まで重大な秘密であるから、ウイルソンに詳しく語らず、誤解するに任せたのであろう。勿論、周恩来、王希天以外の南開の同学たちにもそのことを厳秘にしたのは当然のことである。

 周恩来日記によれば、七年秋の周は、連日のごとく南開同学と間で書信を往復しており、文通相手には京都の呉達閣の名もあるが、維新號事件の後「支那料理屋の二階でゴロゴロしてをった」王希天を始めとする在京組が多いから、周は東京にいたと見るしかない。留日日記の日本版を編集した矢吹晋が、「しかし、実像は知れぬ」と嘆じたのは、二冊の伝記が言う京都逗留説との矛盾に悩んだからであろう。

 この期間の周の行動記録がないのを怪しんだ矢吹は、「『東京日記』の大のテーマは、その空白を読むことかも知れない」と示唆したのは流石であるが、惜しいかな、呉滌愆が京都に移った達閣の別名とは知らなかった。知っていれば、周が七年秋に京都の達閣宅に居候していたなぞ有り得ないと覚り、延いては伝記の誤謬を正し得たであろう。
 
 
    続く。 


 
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