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●疑史(第63回)
 ●疑史(第63回) 甘粕正彦と石原莞爾  評論家 落合莞爾
 


 周蔵も予て、そのことを疑問に思っていた。「閣下ハ何故 ソノ方策ヲ 採ラレタノデアラフカ。田中義一ヲ ウルサイト思フ余りニシテハ 計ガナサレナカッタ ト思ユル」。

 張作霖始末には、上原も秘かに関わっていることを、周蔵は当初から勘づいていた。閣下はなぜ、従来の方針を変えて張作霖を切り捨てたのか。シベリア出兵の失敗は参謀総長・上原勇作と次長だった福田雅太郎の責任に帰せられ始めると、田中義一が宇垣一成と組んで、眼上の瘤の上原元帥を押さえ込もうとした。具体的には田中・宇垣が陸軍の人事権を掌握し、上原派と角逐した。典型的な例は、大正十三年一月七日の陸相人事で、当時は陸相の後任候補は、陸相(田中義一)参謀総長(河合操)・教育総監(大庭二郎)の陸軍三長官が合議で選び、元帥の形式的了承を得て、首相に推薦する慣例になっていた。

 三長官会議では福田雅太郎、尾野実信、宇垣一成の順に推薦する事を決定し、田中はそれを以て上原元帥の了承を取付けたが、清浦首相に提出する際に名簿の順序を逆にして、宇垣を陸相にしてしまう。この策謀に上原は激怒したのは当然である。こうして陸相に就いた宇垣は、ここぞとばかり数多くの上原派将軍を追放した。大正十四年五月には、福田雅太郎、尾野実信、石光真臣、貴志彌次郎らを予備役に編入し、上原の手足をもぎ取った。上原が田中・宇垣を憎むのは当然だが、田中を煩いと思う余り、裏からけしかけて従来の満洲政策を変改させ、張作霖を殺らせるように運んで田中の失敗を誘ったというのならば、閣下にしては余りにも浅はかだ、と周蔵は思う。

 四年七月二十四日に首相を辞した田中は、九月二十九日に急逝するが、死因については、今でも自殺などが取り沙汰されている。周蔵はここで上原関与説を記している。
 「田中ガ失脚ニナッテモ マダ飽キ足ラズ、○○ヲ抱キ込ムマデニシタノカ。中野ノ女ノ言デアルカラ 話ガ半分ダトシテモ疑問ハ残ル。又、不確ナコト故 誰ニモ語ラズ」。

 張作霖暗殺が関東軍によることを隠蔽した田中が昭和天皇の叱責を受け、失脚してもなお飽き足らず、上原は○○を抱き込むことまでした。これは中野正剛の愛人多喜の言だから、周蔵は話半分に聞いたが、確かに疑問はある。いずれ不確かな事だから、誰にも語るまいと決めた周蔵は、甘粕にもそれは語らずに満洲を後にした〔文中○○の部分は周蔵の意思を汲んで何文字かを伏せ字にした〕。このあと、田中義一の死亡の際の状況を詳しく記しているが、ここでは省略する。

 周蔵がパリの藤田嗣治に手紙を出した日時は不明だが、五年末か六年初頭のことらしい。「満洲まで甘粕さんに会いに行ったが、これから先のことは不明」と藤田に報告したのが一応、甘柏記録の二十八回目となる。ついでに多喜のことを世間話として書いたが、藤田からは返事は来なかった。藤田は五年九月からニューヨーク、十二月からシカゴで個展を開くために渡米しており、パリに戻ったのは六年一月であった。

 ●疑史 (第63回) 甘粕正彦と石原莞爾 <了>。 

   
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