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●疑史 (第63回) 
 ●疑史 (第63回)

  甘粕正彦と石原莞爾   評論家 落合莞爾
 


 昭和四年二月、フランスから帰国した甘粕正彦は七月に大連に現れ、秋には一家を挙げて満洲に移住したが、それ以前の動静は明らかでない。角田房子『甘柏大尉』によれば、大川周明の東亜経済研究所に出入りしていたというが、満洲問題を研究していたのは間違いない。春から夏にかけて再渡欧していた周蔵は甘粕の帰国を知らず、『周蔵手記』昭和四年十二月条にも、「甘粕サン 日本二戻ラレズ 朝鮮二落チツカレル事トナル」と記した。実情とは異なるかも知れないが、上原元帥からそう聞かされたことは確かで、そうすると、たとい短期間でも朝鮮に滞在していた可能性がある。

 甘粕正彦が『周蔵手記』に登場する二十七回目は、昭和五年四月条である。「四月、満洲へ發ツ。甘粕サン 満洲二移住サレタラシイ。訪ヌル。ニカ月程ノ予定」と記したのは、甘粕が朝鮮に落ち着いたと信じていた周蔵は、朝鮮からの移住と解釈したのであろう。満洲に移住したと聞き、張作霖爆殺後の背景と情勢について甘粕から教わろうと考えた周蔵は、満洲に出掛けた。「例ノ金塊ヲ持ッテ行ク。甘粕サンハ コレカラ キリガナク 資金ガ必要デアラフカラ、大シタ金額デハナイガ、預金ヲハタイテ行ク」と記したのは、昨春の欧州からの金塊運搬の功を賞して、上原元帥から頂戴した金条三本を甘粕に贈るために持参し、さらに甘粕の今後の活動に思いを致し、預金を全額はたいて持参することにした。

 手記は続く。「例ノ金塊、貴志サンハ 半分ホド集メタ処デ 張作霖ハヤラレタラシイ」。例の金塊とは、ロシア皇帝の命を受けたコザックが大正七年三月二十一日、ヴラゴヴェヒチェンクのロシア国立銀行から黒河のロシア領事館に移した二八五〇万ルーブルの砂金である。純金量では二二トンとなる計算で、上原はその四分の一だけを陸軍に納め、うち百貫(三七五キロ)を戦利品として参謀総長・上原勇作、陸相・田中義一、陸大校長・宇垣一成(いずれも大正八年当時)の三人で等分した。上原は取り分の三四貫(一二七・五キロ)をスイスの教会などに預けており、周蔵に命じて三年初春に渡欧させ、回収させたのである。大連で金塊を受け取った貴志倆次郎と町野武馬は、一旦満鉄に預託して七月頃に張作霖の資金とする予定、と語っていた。上原は、その中から三貫目だけを東京へ運ばせて私用とし、そこから金条三本を取り出して周蔵に賞与したのである。

 残りの四分の三、すなわち一六・五トンの砂金は、ホルワット臨時政府の軍事顧問となった荒木貞夫中佐が、上原の指示により黒竜江省の各所に分散して隠匿した。それを貴志彌次郎が、三年の四月頃から回収して回った。周蔵や藤田嗣治、若松安太郎らはこれまでの経緯を知っていたから、金塊は張作霖の軍資金になるものと推量していた。むろん貴志もそう信じていた。まして貴志は上原の命令で、大正九年以来九年にわたり張作霖との親交に尽くしてきた。しかし、貴志が黒竜江省の各地から金塊を半分ほど集めた頃、六月四日に張作霖は爆殺された。現場へ直行した貴志は、火薬や導火線の様子から関東軍の犯行と分析した。信じていた国策の根本が枉げられ、親友・張作霖を殺された怒りに貴志は震えた。関東軍は、犯行は南方革命党の志士によるものとの虚報を流した。

 「貴志サンハ、上層部二 申告ト云フヨリ 告發ヲサレタトノコト」。告発とは、首相・田中義一への申告を謂うのだろう。貴志が自ら調査の上で得た、爆殺を関東軍の犯行とする見解を、田中に伝えたことは広く知られている。巷説は、田中義一が陸軍内部と関東軍を恐れて貴志情報を握り潰したため、自らの寿命を早めたと謂うが、真相はそうではない。二年十一月五日の青山における田中・蒋介石会談で決まった密約、すなわち「日本の手で張作霖を始末すれば、事実上の満洲租借を認める」との極秘合意が、実現に向けて動きだしたのである。田中とすれば大成功で、問題は証拠隠滅と犯人のすり替えだけであったが、それを貴志が崩した。親友張作霖を殺され、これまでの辛苦が水泡に帰した貴志は、田中の行為を田中に告発したことになる。張爆殺をコミンテルンの犯行とする説が近年台頭しているが、反共一途の張作霖と違い、蒋介石はコミンテルンにも媚を示したから、肯綮に当たるフシもある。コミンテルン工作と河本大作工作が競合した可能性はあるが、実行者をコミンテルンとする説は如何なものか。

 手記は続く。「今更、軍部デ ドノヤフニ後悔サレヤフト、マフ死ンダ者ハ戻ラズ、事ノ方向性ハ 変ッタノデアル」。張作霖暗殺は、上原元帥の下で進めてきた根本方針、即ち日本が支援して満洲に張作霖の地方政権を立てさせ、対露緩衝国家とする方針の一大転換であった。数千万の一般国民の中で、永年上原勇作に親炙してきた周蔵だけがその事を理解し、上の記述となったのである。

 周蔵は大連で、フランス以来二年ぶりで甘粕正彦に会った。「甘粕サンハ サスガ コレ位デ動揺サレルデモナク、石原氏ト密ニ ヤッテヰカレルラシイ」。大連に移住した甘粕は、関東軍参謀・石原莞爾と親交していた。米沢藩士を父に持つ甘粕にとって、庄内藩出身の石原は山形県の先輩で、陸士も三級上の二十一期であった。「自分モ同席ニテ 支那料理ヲ喰ハシテ貰フガ、石原氏 私服ノタメ 階級分ラズ」。甘柏は、石原莞爾が同席する支那料理に周蔵を招いてくれた。このあと戦中戦後にかけて周蔵が親炙する石原莞爾との、これが最初の出会いである。

 時に石原は四十一歳であったが、和服で現れたから階級は分からない。大正十一年からドイツに留学した石原は、十四年に帰国して陸大の兵学教官となり、昭和三年八月中佐に進級、十月関東軍に転じて作戦参謀に補された。「ソノ遠大ナル構想ハ、驚クバカリデアル。三十年計画ノ 日本ヲ描イテヰテ、正二着實ニ ソレニ向ケテヰルノデアルカラ、コノ両名ノ思想ニハ驚ク」。石原の唱えた世界最終戦論は、戦争史を弁証法的に構成したもので、之れに則って世界の将来を予測し、人類平和の理想を達成せんとする石原の思想は驚くべきものであるが、甘粕もそれに同調して、石原理論を着実に実行するための行動面を担当する気であるらしい。

 満洲政策にはもともと二つの流れがあった。満洲の地に愛親覚羅氏による後清国を建てて日本の保護国とすべきとする旅順派と、現地で張作霖を育成して地方政権とし、日本が支援すべきとする奉天派である。日米間の最終戦争に勝利するために満洲の重要性を論じる石原の眼前から、折しも張作霖が消え、満洲直営化の時期は早まった。時の流れで状況は変化していき、それに合わせて張作霖も愛親覚羅も変心して行くから、奉天派や大連派の理念も万古不易ではない。甘粕が石原に同調したのなら、奉天派のトップ上原元帥も満蒙直営派に転向した可能性がある。畢竟これは、背後の在英ワンワールドが極東戦略を転換し、蒋介石の単独支援を決めたのではないか。

 張作霖の暗殺に関しては、石原と甘粕の見解は一致していた。「ヤハリ 張作霖ヲヤッタコトハ誤リノヤフデアル」という。理由は「コレデ 蒋介石ガ大キク浮上スルト云フ誤リガ 其処二起コル ト云フコトナノダラフ。角カデモ、東西ノ横綱ガアッテ ウマクイク。蒋介石ダケニナリ、ソレシカ人物ガ居ラズデハ 敵ノ思フ壷トナル ト云フコトカ」。

 暗殺以前の状況は、辛亥革命後の群雄割拠の終盤が見え、南方革命軍の蒋介石は北伐を進め、奉天馬賊軍の張作霖も北京に入って北洋軍閥を引き継いだ。いよいよ漢土統一を賭けて両者が雌雄を決する局面となったが、形勢は予断を許さなかった。両雄対立は、満洲の地政学的意義を重視し豊富な天然資源の確保を望む日本にとっては、当分は決して都合の悪い状況ではなかった。昔の相撲と同じで、東西に分かれて両側に横綱がいるからこそ、バランスが取れて興行的に成功する。しかるに、張作霖が消えて蒋介石の一人横綱となれば、究極の敵コミンテルンの思う壷となる。それなのになぜ張を殺ったのか。

   続く。

   
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