カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(36)
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(36)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(36)-2

 周恩来と呉達閣、そして周居應こと王希天の蠢動 

 
 ★周蔵「驚く。実に驚く」 白髭をつけると・・・


 ところで、周蔵が、以前京都で出会った達閣に再会したのは大正十年であった。野方村の上高田九六番地に設けた第二救命院に、渡辺政雄を住まわせて芥子の研究栽培を委託していた周蔵が、三月に尋ねると客人が二人いた。「呉達閣と謂う人物には(京都の下宿時代から渡辺の親友だから)さして驚かなかったが、まふ一人の人物には驚く。本を探しに四谷まで行ったら教会の前で出会った由」。以下も「周蔵手記」の「別紙記載・上高田日記」である。

 もう一人の人物は、「≪ヨシソノさん。私の顔に髭を付けて見てくれないか」と云はる。意味が呑み込めんでをると、≪白髪交ぢりの髭をここに想像してみてご覧よ≫、と云はる。驚く。実に驚く」。前年十月一日から四谷の帝国針灸漢方医学校に通い、校長周居應から漢方を学んでいた周蔵は、もう一人の人物がその周先生なので驚いた。周先生に渡辺は「≪この人物は(自分を指して)これでも薩摩隼人だからね。日本人の中では一番コスモポリタンだから、心配要らないよ」と云う。周さんは、≪良く分かってをる≫と云はる」。

 
 薩摩藩士たちは薩英戦争に敗れるや、即座にイギリスの国力と世界の大勢を覚り、英国を本拠とするワンワールド海洋勢力に進んで加わり、在英ワンワールド薩摩支部が生まれた。「薩摩隼人が日本人の中では一番コスモポリタン」とは、其の事を謂うのである。今日の史家も気付かぬ其の秘密を政雄が知っていたのは、丹波穴太の上田アヤタチの血筋だからである。ここに重大な意味がある。

 
 「自分は意味が理解出来ないでをったが、辺さんから説明受くる。大体周先生は、体を悪くしたと云うことで、当分灸の学校は休むと言っていたのだ。≪帝國針灸はだふなるか≫と云うと、≪あれまたやるから≫と答えらる」。
彼らの帰った後で、周蔵は政雄から説明を受けた。「まづ辺さん云はるに、周先生は本名を王キテン、希天と書くとのこと。去年(九年)四月から名古屋の八高に入った由。何でも一昨年の前(七年)かに、神田で演説をやってつかまり、呉達閣もつかまり、その後支那料理屋の二階でゴロゴロしてをったが、周先生は四谷にシンキュウー帝國医専を作られた由」。

 仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』には、「八年春に一高予科を卒業した希天は同年秋に八高に入り二年間を名古屋で過ごすが、結核で一年間休学したため八高は退学を余儀なくされ、長岡海岸で療養生活を送る。大正十年秋、東京へ帰ってポンピドー帰国の後、牧する者のいないメソジスト教会の代理牧師として云々」とあるが、これは希天の表帳簿であるから「周蔵手記」の記載と矛盾して当然である。

 まず、結核は仮病と伝わる。何しろ周居應こと王希天は、震災後に生き延びてから百木姓を名乗り、千葉県布佐に住んで長寿を全うした。周蔵の死後も周蔵一家と親交があったから、多くの伝承があるわけである。
「誰一人として、王と周を同一人とは思ってをらん由。あきれる。≪呉先生(呉秀三)や癲狂院ではだふか≫と聞くと、≪呉先生でも知らぬ筈≫とのこと。≪仲間のポール・ナニガシかポンピダフなる人物しか知らないだらふ≫と云う」。

 八高を仮病で退学した希天は、秘かに東京に舞い戻り、九年秋より前に、周居應の名で四谷に帝国針旧漢方医学校を開いた。1896(明治年29)年生まれの希天は、周蔵と達閣より二歳下の二十五歳であったが、老人に化けて日本人相手に漢方を講義するのを、スパイ術の基礎を学んだ周蔵さえ見分けがつかなかった。希天はその諜報術を、南開学校時代にマスターしていたのである。メソヂスト派を看板にした南開学校は、国際秘密勢力が中国に設けた重要拠点で、希天が「よく解ってをる」と答えたのも当然であった。コスモポリタン仲間のポール某とは、聖公会牧師のポール・ラッシュのことで、震災後に初来日したとの経歴は表帳簿である。ポンピドーはメソヂスト牧師で、宗派は違っても、奥底ではヴァチカン・ワンワールドに連なる彼らは、日本調略のために来日していた。

 周居應こと王希天を周蔵に紹介したのは東大医学部教授の呉秀三で、呉は薩摩ワンワールド三代目総長の上原勇作と親しかったから、ここにコスモポリタン=国際秘密勢力の脈絡を見るべきである。希天は折から呉秀三の勧めで弟子入りした周蔵を、額田兄の妾が営む大森の料亭に案内した。希天の親しかった額田兄弟医師は呉教授の配下で、やはり筋道が見える。
 
 ★「空白の七か月」の真相は周蔵手記別紙記載にあった


 さて、周恩来の日記に戻る。一高受験にも失敗した周恩来は帰国を決意し、七月二十八日に出立した。三十一日夜奉天に着き、達閣に発信。八月一日天津に到着、帰家。六日希天の手紙を受け取る。家族に囲まれて一カ月を過ごした周は、九月四日東京に帰着するが、以後の日記は受発信のみで、他の記事はない。さらに七年十二月二十三日を以て周の日記は途絶し、八年の四月五日に「雨中嵐山」を詠むまで、資料は極めて少ない。留日日記日本版の編者矢吹晋は、九月から四月までを「空白の七か月」とし、この空白期について、「伝記作家たちはさまざまに書いている」として、代表的な説を二つ紹介する。

 金冲及の『周恩来伝』に拠れば、一時帰国後の周は「東京の神田三崎町にあった王樸山の家の二階に寄宿していた」とあり、(勉強熱心で沈着冷静な日常を過ごしていたが)南開学校が大学部を創設すると云う知らせを受けて帰国を決意し、三月、南開学校同学で第三高等学校に学ぶ呉瀚濤の京都下宿にしばらく滞在、四月天津に向けて帰国した。これが第一の説である。

 一方、ディック・ウイルソン前掲には、空白期における対照的な周恩来像が描かれているという。すなわち「七年秋には、周恩来は京都の呉瀚濤夫婦(ともに国費留学生)の家に身を寄せている。呉夫婦は以前から周恩来の滞日中の生活費を工面していたらしい。呉は周恩来に当時、京都帝大経済学部で教鞭をとっていた川上肇の思想を通してマルクス主義を紹介し、京都大学入学を勧めたらしい。周恩来も神田の住所で願書を書いたが、提出の有無は不明である」とのウイルソン説著を、第二説とする。

 京都に周を招いた南開同学の名を、ウイルソン前掲は勿論ハン・スーイン『長兄』でも、はっきり呉達閣と謂い、呉瀚濤の名を用いていない。その人物の名を、矢吹はなぜ呉瀚濤と変えたのか。おそらく金冲及『周恩来伝』(1989年2月)に呉瀚濤とあるのに、引きずられたのであろう。しかし矢吹は、呉瀚濤が呉滌愆であることに全く気が付いていない。同一人物だと知っていたら「滞日中の生活費を工面していたらしい」なぞとは書く筈がない。

 大正七年九月四日東京に帰着して以後、周の日記には受発信の記録だけが連日のようにあるが、京都にいる達閣からの受信は九月二十日に始まり、以後は十月五日受信。十二日受信して返信。十九日受信。二十一日受信。十一月に入り二十八日発信、二十九日受信して葉書で返信とある。他の留日学生仲間との書信往復は連日のごとく、受発信の場所は当然東京の下宿であろう。達閣の呼びかけで京都に移り、居候して過ごしたとされるが、受発信の様子では、京都に往ったとしても高々数日で、長逗留していたとは思えない。

 
 ここらで真相を云おう。実は、周恩来が京都市左京区吉田中阿達町の達閣の下宿に同居して居たのは、大正六年の秋であった。周蔵が手記の「別紙記載」に書き残したから、間違いない。

 
 六年春に一高特別予科に合格した達閣は、秋には京都に住んでいた。同居の妻を、ウイルソン前掲は「同じく国費留学生」とするが、当時の民国の国費留学制度では、対象はすべて男子校であった。同棲していた女性は看護婦と伝わるが、人名事典がいう呉瀚濤の先妻朱毓芬でない事は確かであろう。おそらく、丹波のアヤタチ家系の女性で、丹波衆がアヤタチ血筋の達閣に同族の女性をあてがったのである。
 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(36) <了>。
 
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