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●満洲国の断面 (18)
 ★いよいよ降参内閣

 ソ軍満洲侵入に備え古紙幣回収策を樹てること
 再び新京を訪れ終戦十九日前に甘粕と語ること 

 
 日本に転任後も、私は甘粕が上京する度毎に必ず会っていた。彼は東条英機に会いに来た。東条に直言しうる人は、甘粕一人であるという噂があった。東条の政治のやり方について、また側近について、また閣僚について、彼は自分の意見をズバズバと東条に言っていたようである。東条も彼の言うことには耳を傾けていたらしい。

 上京すると、甘粕は暇をみつけて、隅田川や東京湾に釣に出かけた。昭和十九年六月、戦局がますます非になって来る頃、彼は満洲国大使館に参事官の高橋源一(宮城県小原村長)を訪れ、釣に行くために服装をととのえねばならぬから心配してくれと頼んだので、高橋夫人は持っている衣料切符全部を甘粕に贈った。

 東條内閣が総辞職すると、甘粕は日本に来なくなってしまった。

 昭和十九年七月東條内閣の総辞職とともに、当然私も官を退くべきであったが、情報局次長・村田五郎がもう少し残ってくれといい、私のために斡旋してくれ、緒方竹虎が私のために勅人情報官のポストをつくってくれたので、私は第一部長を辞し、緒方の下で情報官として在任した。

 昭和二十年三月、鈴木内閣が誕生するや、大本営報道部長・松村秀逸(現参議院議員)は、私のところに来て、「この内閣は降参内閣だぞ。ソ連から中立条約不継続の意志表示があれば、それを機会に降参するつもりだ」と内緒で打明けたので、いよいよ降参の近づいたことを知った。

 この年の五月の初め、大陸連絡会議があって、武部六蔵と古海が東京にやって来た。日本の軍需工場の一部を満洲に移すという陸軍の計画にもとづき、連絡会議が開かれたのである。

 山王ホテルの宿舎に武部を訪れると、彼は私に向って、「日本はどうも敗戦主義だ。今の内閣には戦意がないよ」と言ったので、私はふところから、自作の要綱を出して、彼に示した。それにはこういうことを書いてあった。

 「もし日本に政治家があるとするならば、ソ連と直ちに交渉を開始し、ソ連をこちらに引つけて、ソ連軍を満洲国領内に引込んでしまう。すると世界の戦局は変り、戦争は終結し、日本は外国軍の占領をまぬがれることができる。いずれにしても、満洲国がソ連に占領されることは覚悟しなければならない。そこで満洲国総務長官としてなすべきことが三つある。

 第一は、満洲中央銀行の紙幣二十億円を、ここ一ケ月以内に新たに刷り上げてしまうことである。そして今流通している旧紙幣を全て回収し、刷り上げた新紙幣を流通させ、回収した旧紙幣は廃棄処分にしたこととして、実は廃棄せず、個人の手で保存し、ソ連軍が侵入すると決まったならば、この旧紙幣を日本人に分配しておけば、日本人は生活に困らない。しかもそれが旧紙幣であるから怪しまれることがない。これが日本人の生活を保証し得る唯一の道である。満洲国が滅びても、紙幣は直ちに無効にならない。必ず旧紙幣との交換が行われるから、紙幣さえ持っていれば、日本人は経済力を失わない。

 第二は国籍法を制定し、満洲在往の諸民族を満洲国人とし、在満日本人ももちろん満洲国民としておくべきである。

 第三は日本人の有っている土地を満人の名儀に変え、登記済証を前所有者たる日本人の手持たせておくべきである。

 旧紙幣を保管すべき人物は甘粕をもって最適任とする。」

 武部はこれを見て「君はおかしなことを考える人物だね。僕はソ連に満洲国を全部やることに反対だ。いよいよとなれば、旅順、大連、満鉄は仕方がないだろうがね」と言った。そして私の提言を取り上げなかった。

 それから古海に会ってその話をすると、古海は「ふん」といって、私の書いた要綱に眼を通し、それを自分のポケットに入れ「これを持っていると君が憲兵隊に引っ張られるといけないからぼくが預っておく」と言った。

 それから私は二人と協議して、とに角、日本政府がこれから打つであろう手を、満洲国のために探る必要がある。そして刻々に情報を送らねばならないという結論に達した。そこで私は情報局をやめて、満洲国政府総務庁参事官、東京駐在を命ず、という辞令を貰うことに、話は決まった。

 武部、古海は五月二十四日の大爆撃で山王ホテルをやられ、火の海をくぐり抜けて生命を全うし、無事満洲に帰った。

 甘粕は、その頃すでに敗戦を見通していた。根岸寛一はこの年の五月、甘粕と二人きりで新京の大和ホテルで話した。根岸は「自分は満洲で死ぬのはいやだから、満映をやめて日本に帰る、古野伊之助から日映をやってくれと頼まれているから」と言ったところ、甘粕は根岸を引止めようとした。根岸が、戦争が負けであるという見通しを語ると、甘粕もしぶしぶそれを承認した。甘粕にとっては、敗戦はわかっているが、敗戦を考えることは堪えられなかったようである。

 そこで二人は、最悪の事態に備えて、東京に大東亜映画研究所を作り、大陸から引揚げてゆく若い映画人たちをここに収容し、彼らの生活を保障し、将来の発展に備えるという案を立てた。間もなく華北電影公司とも協議し、案がまとまり、匿名組合として大東亜映画研究所を設立し、根岸がその代表者となり、甘粕が満映から資金二百万円を送るということになった。

 根岸寛一は日本に帰った後、十五万円を甘粕から送ってもらったところで、終戦になって、この案は中絶してしまったが、甘粕は若い映画人の将来を考えて、こういう手を打ったのであった。

 この頃、甘粕は秘書の菅谷(斎藤)亮男を連れて、大連に行き、久しぶりで○子島へ魚釣に行った。斎藤に向って「もう二度とここへは来られないなあ」と言った。その時甘粕は、自宅から会津の小鉄と、先祖が五代将軍からもらったという刀と、二振をもって新京に向った。或いは小鉄で割腹することを予期したのかもしれない。

 七月一日附で私は再び満洲国官吏となった。その頃東京は殆んど焼野原で、敵の艦載機が、日本全土の上を飛んでおり、満洲行は頗る危険であったが、情報をとるには機密費が要るから、武部、古海に会って金をもらおうと思い、かたがた再度満洲国官吏に任ぜられながら、挨拶に行かないのは、敵の艦載機にやられるのがこわく、命が借しいのだろうと思われるのも嫌だと考え、七月六日の旅客機で私は新京へ飛んだ。

 無事新京へ着くや、私は武部に当座の費用として三十万円の機密費をもらいたいと申込んだところ、「差当り五万円持って行ってくれ、それは満洲国大使館を通してて受けとってくれ、それから情報は一切大使館を通して送ってもらいたい、君と僕との直接取引はやめよう」ということであった。

 甘粕は私の来たのをたいへん喜んで、湖西会館で歓迎会を開き、この時もまた私の招びたいと思う者を全部招んでくれた。彼は私が満洲国に帰り、省次長となり、満洲の他方行政をやった方がよいと私に勧めた。満洲国が滅亡に瀕していることを、まだ気付かないのかな、と私は思ったか、そうではなかった。

 七月二十七日朝、飛行機で新京を発つことになったので、二十六日夜は午前一時になるまで甘粕と語った。私はソ連の満洲国占領はなんらかの形において早急に実現することを述べ、武部、古海に告げた古紙幣政策を提案し、旧紙幣二十億円を廃棄処分にしたこととし、実はこれを保存して日本人に配り、その生活を維持すべきで、その役割は甘粕にあることを強調し、是非これをやっていただきたいと言ったところが、甘粕はこう答えた。

 「戦局の推移については、私もあなたと同意見です。しかし旧紙幣を預る仕事は、私のすべきことではありません。それはあなたのなすべきことでしょう。あなたがおやりなさい。」

 「いや、私は満洲国のために日本政府をスパイするのが役割です」と私は言った。甘粕はそれからあまりものをいわず、沈んだ顔をしていた。すでに捨てているなと、私は感じた。

 翌朝午前七時、私を飛行場に送るための車に旧部下・中川忠次郎が乗って大和ホテルに迎えに来た。甘粕はいつものように、きちんと服装を整えて、ホテルの車寄せに立ち、もと私の家の女中で他へ嫁した大島つねという婦人と国通社員の千葉庄二夫妻と四人で、私を見送ってくれた。直立不動の姿勢で、見送してくれる甘粕を、車の窓から見て、私は後ろ髪を引かれる思いであった。

 十一年を経てもなお、その姿が私の脳裏には強く刻みつけられ、他のことは記億がうすれて行くが、これだけは浮き彫りのように残っている。

 七月二十七日、私の乗った飛行機は無事米子に着いた。そこでこの飛行機は敵の艦載機に焼かれてしまった。私は生命を全うして、爆撃の中をくぐり抜け、七月三十日朝、東京に帰った。

 ソ連が満洲国に侵入したのは八月九日、私が甘粕と別れてから十三日目であった。八月十日の朝、私は総理官邸の新聞記者室に馬場という旧部下を訪れ、御前会議の模様を聞き、政府がスイス、スウェーデンを通してポツダム宣言受諾を申し入れたことを知ったが、武部との約を重んじて満洲国大使館の桂定次郎公使を通して、暗号電報で、これを武部に送ったのが千慮の一失であった。それは何処かで押えられて、武部には達しなかった。総理官邸から出たその足で東京逓信局に行き、知人に頼んで、電話で武部に連絡し、甘粕にも伝えておけば、八月一日以降の全満洲における混乱はなかったはずである。これは私の重大な責任問題で、今日でも私の過失から多くの人々を苦しめたと申し訳なく思っている。

 ソ連侵入と聞いて、私が一番先に考えたことは甘粕はどうなるだろうということであった。他の人は何としてでも生きていくだろうが、甘粕には困難がある。しかしもし甘粕が生きようととこころざせば、彼のことであるから、どんな手でも打つであろう。恐らく彼は大連にのがれ、大連から魚釣に使っていた自分所有のモーターボートに乗って天津に逃れ、ソ連の難を避けて日本に帰ってくることができるだろうと考えた。

 しかしそれは武藤式の考え方で、甘粕の態度ではなかった。以下は終戦時甘粕の周囲にいた人々の話を聞いて事実を確かめた上、記す。

 ***************

  続く。
 
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この記事に対するコメント
Re: タイトルなし
> 「満州国の断面」は、(18)で終わりでしょうか。入手し難い文献で興味深く拝読いたしました。

>図書管理センター様。

本書は古書価格が異常に高く、とても手が出ませんでしたので、

仙台の図書館経由で県外の図書館から取り寄せていただいたもので、

興味のある箇所のみをスキャンして保存したついでにアップしたものです。

したがって、いまは手元になく(18)で「終わり」となります。






【2013/09/18 11:52】 URL | ひろもと #- [ 編集]

「満州国の断面」は、(18)で終わりでしょうか。入手し難い文献で興味深く拝読いたしました。
【2013/08/29 08:41】 URL | 図書管理センター #- [ 編集]


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