カウンター 読書日記 ●満洲国の断面 (17)
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●満洲国の断面 (17)
 ★メロンと爆弾

 甘粕湖西会館を建て外交的手腕を振うこと
 再び協和会に乗りこんで大粛清をやること 

 
 満映の西北に、道路をへだてて、甘粕は湖西会館という瀟洒なクラブを建てた。これは南湖の西に位し、南嶺に臨み、建国忠霊廟を望見し、風光明媚な場所であった。映写室兼宴会場があり、ヴェランダや芝生も美しかった。新京特別市長・関屋悌蔵と組んで、市の土地に作ったものであり、市長も使うことになっていたが、実際は甘粕が社交のために専用するクラブとなってしまった。

 建国十周年の祝典には、甘粕は音楽家の山田耕作を招待した。山田とともに、辻輝子、伊藤武雄、斉藤秀雄など十数名の音楽家が来満した。甘粕はこの会館でこれらの音楽家をもてなし、満洲における音楽興隆への協力方を頼んだ。またドイツ公使、イタリー公使などをも招待して、映画会、音楽会を開いた。

 尾上菊五郎が建国十周年使節として大谷竹次郎と来満したときも、彼はここで一行をもてなした。私も同席した。
 
 大震災の時、尾上菊五郎の稽古場が憲兵隊の臨時事務所になり、甘粕は菊五郎やその母堂や息子と親しくなった。ところが甘粕の姿は九月十六日に見えなくなってしまったので、菊五郎も母堂も心配していた。

 菊五郎は憲兵隊本部へ出かけ、甘粕の消息を聞いたが、けんもほろろの挨拶で数カ月経て初めて新聞で事情を知った。しかし、甘粕が人殺しをしたとは信じられなかった。

 菊五郎は甘粕と当時の思い出を語り、歓談尽くるところを知らないほどだった。

 
 話は飛ぶが、甘粕と石原莞爾とは親しい間柄であった。それでいて満洲国に関しては、一種の政敵関係にあった。

 私は石原莞爾には、一度しか会わなかった。協和会宣伝科長のときに、北支側で作ったポスターが協和会に送られてきた。日本の兵隊が城門の上に乗って足を拡げて万才を唱えており、城門の下に支那の民衆が歓呼の声を上げているというポスターであるが、城門を低く描きすぎているために、まるで日本の兵隊の重い靴が支那の民衆の面を踏まえているような画であった。甘粕と私とがこのポスターを見ているとき、石原が入って来た。

 私は「このポスターを眺めていると、日本の兵隊が泥靴で支那民衆の頭の上を歩いているように見えるな」
 と言った。すると石原莞爾は

 「君、事実はその通りだよ」
 と応じたので、面白いことをいう人物だと感じた。

 総務庁次長・松木侠(現鶴岡市長)は石原の崇拝者で、

 「石原さんは天才だ。満洲建国当時、満鉄も日本政府も満洲を利権の対象として考え、いかにして満洲の地に日本の利権を確保し、また拡大するかということを策していたのに、石原さんはこの対立意識をさらりと捨てて、日本人が満洲国の中に入り込んで、満洲国の構成分子になり、民族協和でゆくのだと主張した。そこに満洲建国の精神がある」と私に語ったことがある。

 ファシスト使節団長・パウリッチに民族協和を説明したとき、彼はこれに興味をもち、その思想は誰の創意によるかと問うたので、私は石原莞爾と答えた。パウリッチもこれにはひどく感心していた。
 ところが、甘粕にかかると、石原将軍もあまり値打のある人物ではなかった。甘粕は次のように言った。

 「石原莞爾は私の親しい同僚です。彼は大彼までは勤まる人ですが、将にはなれない男なのです。彼は参謀としてはすばらしいが、衆をひきいる男ではありません。彼のまわりにいる人物を見てごらんなさい。性格が弱く、能力の低いものばかりです。石原にくっついて自分の地位を保とうとする人間だけしか、彼にはつかないのです。だから、やくざ級のものが沢山彼のまわりを取りまいています。協和会がうまくいかないのは、石原を取りまいている連中が幅を利かしていろからなのです。」

 ある時、甘粕は私にこう言った。

 
 「石原が満洲にいることは、今日では満洲国のためにならぬから、私は彼に帰れと言いました。」

 それは、石原が満洲を去った後のことであった。

 その頃、宴席で食後のメロンがでて、みなが爆弾の大きさとメロンとを比べて、話がはずんだとき、甘粕はこんなことを言った。

 「私は爆弾を一個、押入れの中にしまっておきましたが、どうしたわけかそれが見つからなくなったのです。関東軍の或る男★に、私の言うことをきかせなければならぬことがあり、言うことをきかなかったら、その爆弾を使おうと思って、押入れを探したのですが、見つかりませんでした。そこで代りにピストルを持って行きました。」

 私は「ぶっ放したのですか」と聞いた。

 「いや、その必要はなかったのです。彼は私の言うことを聞きました」

 と甘粕は言った。私はその時、どうもこの相手は石原莞爾ではないかと直感した。

 
 協和会は昭和十五年頃には、相当な発達を遂げ、各省におかれた省本部、各県におかれた県本部いずれも充実し、全満にわたって、組織は強固になっていた。一方、支那事変の戦局が苛烈になるにつれ、軍の要請によって、政府が民衆の財力や労力を搾取する政策は強化されていった。

 そこで、民衆(満人大衆)の味方をもって自任する協和会日系職員は、政府を通して民衆を圧迫してくる軍の政策とぶつかり合うことになった。同じ日本人でありながら、政府の職員すなわち官吏は民衆に強く当たり、協和会職員は民衆の側についた。そのため宣徳達情、上位下達を使命とする協和会の組織が、逆に国政を阻害する結果となり、協和会そのものが満洲国政冶のジレンマをなすに至った。この情勢を打開し得る人物は、甘粕以外にはなかった。

 そこで、昭和十五年十二月末、関東軍は甘粕に協和会総務部長再任を頼んだ。甘粕は満映理事長兼任のままならば引受けると言って、期間を三ヵ月にするという条件を付し、私のもとにその許可を受けに来た。こういうときの甘粕は、きちんと礼儀を守って、もとの部下に対し、監督官庁としての敬意を払い、事情を述べて許可を乞い、且つ三ヵ月の間、半日だけ協和会に勤務するが、満映で午前に働くか、午後働くか、どちらにしましょうかということまで、私の指示を仰いだ。

 翌十六年一月、甘粕は再び協和会中央本部に乗り込んだ。一週間たつと、建国以来未曾有の大粛清が行われた。今度は、前もってリストを用意しておき、総務部長として乗りこむやいなや、満洲国に来て協和会以外の職場で働いたことのない日本人は、原則として解職るから、他の職場に入って経験をつむこと、政府と協和会職員の人事交流をやることというような方針をたて、職員の全面的大更迭を発表し、これを実行してしまった。更迭の数は千数百人に及び、新聞紙の二面を埋めつくした。

 このようにして彼は、協和会の職員と政府とが協力するような体制をつくり上げた。

 協和会職員と政府との摩擦は、今日から見ると必ずしも非難すべきことではなたかった。彼らが建国の理想とした王道精神から言えば、官の圧迫に対して民衆の側に立って抗争することが、本来の使命だったにちがいない。しかし、当時の事情はこれを許さず、甘粕をして大鉈をふるわしめたのであった。

 こういう点から、満洲の政治を見れば、それは二つのイズムをもっていたといえよう。

 一つは石原イズム、

 一つは甘粕イズムであった。
 
 ****************

   続く。 


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