カウンター 読書日記 ●満洲国の断面 (16)
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●満洲国の断面 (16)
 ★岸流兵法の第二課

 岸信介日本に於いて新党樹立を企てること
 甘粕、武藤に出馬を思いとどまらせること 


 昭和十五年七月、星野直樹は第二次近衛内閣の企画院総裁となって満洲を去り、武部六蔵が総務長官として赴任した。古海忠之が次長となった。私は武部のもとにおいても、その地位を保ち、昭和十六年の夏、満洲国通信社法、新聞社法を交付して、通信社及び新聞社を完全に政府の監督下におさめ、その重役の任免権を握り、経営的にも編集的にも、言論機関を完全な国家統制の下においた。

 大東亜戦争が勃発して間もなく、昭和十七年の一月末、私は満洲国通信社長を日本からつれて来ようというので、同盟通信社の社長・古野伊之助に会うため上京した。古野との会談で松方三郎(現共同通信社長)に来てもらうことに話を決め、ついでに、東条、星野にも挨拶した。

 すると、商工大臣・岸信介から会見を申しこまれ、当時築地にあったバラック建の商工省に連れて行かれ、大臣室で岸と話した。

 話は元に戻るが、昭和十四年十月、岸が商工次官となって満洲を去るときに、私たち数人の満洲国官吏が岸に会見した。

 その際集まったのは、私のほかに管太郎(現衆議院議員)、山管正誠(現弁護士)、都甲謙介(ソ連抑留中死亡)、竹下佐一郎(現北陸新聞企画局長)、五島徳次郎、田川博明、毛利富一などであった。私たちは岸とともに日本の将来を論じ、日本で新党ができるとときは馳せ参じようと約束した。岸はその時まだ四十二才であったが、政治資金の作り方について、私たちのために一席弁じてくれた。


 「政冶資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らねばいけない。問題が起ったときは、その濾過機が事件となるので、受取った政治家は、きれいな水を飲んでいるのだから、かかりあいにならない。政治資金で汚職問題を起すのは濾過が不十分だからだ。」


 これが私の学んだ岸流兵法の第二課であった。


 さて、商工大臣室で岸に会って見ると、案の条、新党の話であった。「いよいよ挙国一致、新党を作って大東亜戦争をやりぬくことになった。真珠湾やマレーの大戦果で、国民は有頂天になっているが、これは、年の若い特攻隊員数十人の手柄によるもので、日本の実力ではない。実はこれからが大へんなのだ。だから、新党をつくり、その政治力によって戦力の増強を回り、この戦争をやり抜かねばならぬ。ついては、かねての約束通り、満洲国から、四、五人の同志をつのり、今度の総選挙に打って出て、新党結成に参加してもらいたい」と云うのである。


 その時、岸は「新党を作っても党首がなくて困る。東条は裸にすれば橋本金欣五郎以下だ。山本五十六は国民的尊敬は受けているが、政治家ではない」と言ったので、私は「尊公自ら買って出たらどうか」と水を向けたところ、岸は「ほん」と言った。

 それから私は冗談半分に、
 「選挙資金は十分出すか、また選挙干渉をするか』
 と聞くと、岸は
 「出す、そしてやる」と返事をした。

 それならよいだろうというので、私は岸の申入れに応ずることになり、新京に帰り、山菅(当時竜紅省次長)、都甲(当時大同学院教頭、後の北安省次長)、五島、田川(協和会参事)竹下(弘報処参事官)その他と協議した結果、私と山菅と都甲の三名が官を退いて日本に帰り、総選挙に打って出ることに決まった。一週間後に出発することとし、飛行機の座席を三つ取った。

 その晩、私は古海忠之のところに行って、そのことをうち明けると、古海はすでに岸の将来を見通しており、

 「それは壮挙だ。大いにやり給え。ぼくが武部長官の諒解を得てやろう。ことによると将来、ぼくも馳せ参ずるかもしれない。岸は大物になるかるね。それに選挙は男子一生に一ペんはやっておくべきものだ」と言った。

 それで私はよい気特ちになって、大和ホテルに甘粕を訪れ、いきさつを話した。

甘粕は私の話を聞くや、沈痛な顔になってこう言った。

 「今日まで二年半のあいだ、武部長官はあなたを信任して来ました。しかるに、あなたが岸に誘われて、長官の信任を裏切るのはよくないことです。古海を介して長官に話したのでは、礼を失します。あなた自身、長官のもとに出向いて相談をし、その諒解を得るのが道です。」

 なるほどその通りだ、古海には政治的野心があるから、甘粕ほど透徹した物の見方ができないとわかり、私は自分の非を悔いて、その足で夜おそく武部六蔵をおとずれ、事情を話した。武部は私の話を聞いて、うーんと唸った。そして次のように言った。

 「実は三月の初め、張国務総理が、建国十周年謝恩特派大使として日本を訪問することに決まり、君に隨員になってもらうつもりでいた。それはそうとして、君が職を賭して日本に帰るというならば、君に代る人もあるから、敢えて君を引止めない。しかし、政府の要職にある二人の人物をかたらって、ことに、竜江雀次長として赴任後三ヵ月しか経たない山菅を引連れ、徒党を組んで満洲国を脱出するというのは穏かでない。君一人が岸の陣営に馳せ参ずることは自由だが、勅任官三人がいっしょになって行くところに政治問題がある。」

 「すると長官は、われわれのやらうとすることに反対なのですか」
 と私が言うと、武部は

 「そうだ。たとえ私が承認しても関東軍司令部は恐らくノーと云うだろうな」
 と答える。そこで私は

 「関東軍司令部がノーと云っても、これを押し切って、われわれが日本に渡り、総選挙に打って出たとすれば、どういう結果が起りますか」
 と聞いた。すると武部は

 「それは君、総務長官の進退問題だよ」
 と答えたので、これはなかなかえらいことだ、長官の首をかける結果となるなと思った。

 そこで、暫く考えさしてくれと武部に言って、そこを辞し、また甘粕のところへ引き返し、「武部は、おれの首の問題だと云っていましたよ」と報告したところ、甘粕は


 「武藤章と岸信介が組んでやっている新党問題は、はたしてうまくゆくかどうかわからかいというのが私の勘です。この問題は即決せずに、私に任せて下さい。二、三日中に東京へ行きますから、陸軍の連中と会って、事情を探ってみます。その上であなたに返事をしましょう」

 と言うのであった。

 甘粕は数日後、東京から私に電報を打ってよこした。

 「情勢変化す、今回は思い留まれよ」というのであった。

 新党結成は結局崩れて、翼賛政治会となってしまった。満洲の新聞は少しも実情を知らなかったが、日系官吏徒党を組んで立候補すという抽象的な情報を、日本側から嗅ぎつけたものか、「日系官吏と総選挙立候補の可否」などという論説を書いた。

 このことのために、私は武部六蔵の信任を失い、大分地位があやしくなって来た。しかし、立候補思い切りが決定するや、武部は私を謝恩特派大使・張景恵の随員として、日本に送ってくれた。

 この年の四月、日本での任を果して帰ってくるや、武部は私をシャム公使館参事官に送ろうとすることに決めたので、私は満洲新聞社の社長・和田日出吉に会い、月給千円で新聞記者に雇ってくれと申しでて、その承諾を得、いよいよ新聞記者になる覚悟を決めたが、武部はそれを知って、私の左遷を思い止まった。そして、私はまた一年居座ることとなった。

 この頃には、甘粕は満洲国弘報界の元老の役割を勤め、ことごとに私の後楯となり、地位を擁護してくれた。私が何かの政策を実行しようとして反対が起こると、甘粕は蔭になり、日向になって、その障害をとり除いた。

 ある時、私があまり長く弘報処長を勤めたので、これを代えた方がよいという議が、関東軍司令部に起り、どこかの省次長に転任させるという噂があった。すると、甘粕は私を前にしてホテルの自室から参謀副長の秦彦三郎に電話をかけ、


 「おい秦か、君は武藤を転任させるか、させない。そうか、そのままにしておくか、よろしい」と言って電話を切り、

 「秦が大丈夫といえば大丈夫です」 と言った。


 ****************

   続く。 


スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/730-a599e016



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。