カウンター 読書日記 ●満洲国の断面 (15)
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●満洲国の断面 (15)
 ★発財(ファーツァイ)! 発財! (*部分)  

 略・・・
 ・・・このようにして、資本金二百万円の映画館会社が出来上がり、全国各地に映画館の建設が進められ、映画というものが、初めて満洲の辺境に入って行くことになった。

 映画館の行渡らない奥地には、十六ミリトーキーと発電機とをもった巡回映写隊が、幾組も出張して、県公署や県協和会本部と組んで、娯民映画、啓民映画を上映して民衆に見せた。

 巡回映画は、私の部下であった堀正武参事官(一万田・大蔵大臣秘書官)が、満映を指導して実行し、後に藤山一雄の世話で、★大塚有章という人物が満映の巡映課長になった。大塚は共産党大森ギャング事件の巨頭で、昭和の初め、党資金を得るため、大森の銀行を襲撃し、七年の刑を終って満洲に渡り、同郷のよしみで、藤山一雄を頼ったところ、藤山は甘粕にこの人物を頼みこんだので、甘粕は転向者としてこれを受け入れ、巡映課長に任じたのであった。

 *****************

 ★グランド劇場の前でニヤリ

 甘粕国際的謀賂を趣味とすること
 劇団を援助し交響楽団を作ること

 昭和十五年九月、日本軍部が仏頂インド支那に進駐すると間もなく、甘粕の行方がわからなくなった。満映では、大連のお宅に帰られたと言っていたが、私はどうもおかしいと感づいた。二週間ほど経って、彼は社に帰って来た。

 「仏印乗り込みですか」

 と、かまをかけると、彼はさりげない調子で言った。


 「ちょっと海南島へ行って来ました。仏領インド支那の人たちで軍隊をつくり、これを海南島で訓練して待機する必要があるのです。」

 映画会社の社長がとんでもないことをするものだと思った。


 その頃、甘粕は満映の北支進出を考えはじめた。北支は人種的に満洲国と不可分の関係にあるから、日本が北支に深入りするよりも、満洲国が北支と結びつく方がほんとであろというのが、彼の持論であった。そこで彼は北京に映画館を一つ買い入れ、新民戯院と名づけ、満映が作った映画をここに送り込んで上映する計画を立て、これを実現した。

 さらに北京に撮影所を作って、京劇を撮影し、これを満洲に持ちこんだ。映画は文化の低い所から高い所には流れこまない。文化の高い所から低い所に流れこむ傾向がある。だから、北京で作った映画を満洲に入れるのがほんとで、満洲で作った映画を北京に入れるのは逆であると言っていた。

 この頃、上海に中華電影公司というのがあり、川喜多長政(現・東亜商事社長)が、副理事長で、軍と結びついて所謂上海映画の統制権を握っていた。

 甘粕は川喜多と折衝し、上海にも満映の作品を入れることに成功した。

 昭和十六年の春、上海共同租界の映画館グランド・セアターに満映の作品「国法無私」が上映され、入口に日満支三国旗が掲げられた。甘粕は映画館の前に牧野光雄と立って、この旗を仰ぎ、にやっと笑った。


 三島徳太郎★(仮名)という人物がいた。政府の官吏で、蒙古行政をやった男であったが、この頃、★官を退いて謀略活動をはじめた。チベットの安珍ラマが北京に来ているから、日本人一人をラマ憎に化けさせ、安珍ラマにつけてインド経由でチベットに潜入させ、チベットの情報をとり、将来、日本の大陸政策に資するようにしようと考えていた。そして、関東軍の係の軍人と連絡を取り、日本の参謀本部にも行き、満鉄あたりから資金を出させることに成功した。

 三島と私とは、★数年前から親しい間柄であったが、彼はこの計画を実行するために、甘粕の援助を借りなければならないことになり、私に紹介方を頼んで来たので、新京の大和ホテルで、三島と甘粕とを会わせた。

 三島を甘粕に紹介すると、甘粕は

 「あなたも私と同じ趣味ですか」 と言った。

 「はあ」と三島は答えた。

 とんでもないことを趣味としている二人の人物を引合わせて、私は、世の中には面白い型の人間がいるものだ、と思った。

 半年ほど経って、甘粕は私に次のように言った。

 「あなたが紹介した三島という男はひどい人ですねえ。私が長い間可愛がって訓練しておいた人物が北京にいたのです。ところが三島はそれを引張り出して、安珍ラマにつけ、チベットヘ入れてしまいました。私のなわばりを荒しては困りますね。」

 それで私は三島の成功を知った。甘粕は三島の悪口を云ってはいるが、内心はその腕前に感心しているようであった。それにしても、その道にはその道で、プロデューサーと俳優とがあり、プロデューサー仲間で俳優の取りあいをやるものかと感心した。


 満洲国は軍国主義の本場と思われていただけに、音楽、演劇、文学、美術みな萎縮していた。関係者も何か国策の線に従わなければ、命脈が保てないような錯筧に陥っていた。 
 
 そこで私は昭和十五年の秋、芸文指導要綱というものを作って、美しいものをどしどし作り出すことによって、満洲国を美化するという政策を立て、政府及び関東軍を動かして、これを納得させ、予算も相当に取った。こうして満洲国のルネッサンスを図ろうとした。甘粕はこういうことが大好きて、政治的にも実質的にも全力をあげて私を推してくれた。

 彼は協和会総務部長在職中、音楽家の大塚惇を招いて、交響楽団の編成を計画していたので、満映の業績があがると、新京放送局にも呼びかけ、本格的に新京交響楽団の結成に乗り出した。

 東京へ行ったとき、彼は山田耕作と接触し、優秀な音楽家を送ってくれるように山田に頼んだ。また市長の才長の関屋悌蔵と組んで満系音楽家の教育施設、新京音楽院をも作り、これを援助した。

 今東映にいる藤川研一 (公成)は満人俳優を組織化して、大同劇団をつくり、ゴーゴリの監察官などを漢語に翻訳して上演したり、中国の新劇などを試みたりしたが、経営不振でいつも苦しんでいた。私が援助方を頻むと、甘粕は満映から補助金を出してこれを助けた。大同劇団は熱河工作に活躍し、漸く形ができ上ると、北京に乗りこんで上演した。芸はうまいが、言葉がズーズー弁だという批判を受けた。北京語に比べると、新京弁は東北弁みたいにズーズー弁だったのである。

 昭和十五年から十六年にかけて、満洲の文運大いに興り、演劇、音楽、美術、文学共に花を開いたかの観があった。

 甘粕はまた画家を愛した。日本から来た画描きが彼のところに画を売りに行くと、たいてい買ってやった。ずい分下手くそな画でも、言い値で買い上げた。しかし、美術の鑑賞眼は非常にすぐれていて、余程いい画でないと、目分の部屋や会社の重役室にかけることはしなかった。

 ****************

   続く。

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