カウンター 読書日記 ●満洲国の断面 (8)
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●満洲国の断面 (8)
 ★大切な史料をなくす

 有末精三大佐ムソリーニとイタリー陸軍とを自慢すること
 甘粕ムソリーニヘの親電を見て溥儀引出しを語ること 


 当時のイタリー駐在武官は★有末精三大佐、マッカーサーを羽田に出迎えた有末中将であった。大した才人で、北京にいれば、たちまち支那語を話すようになるし、ローマに行って三ヵ月経つとイタリー語をものするし、ムソリーニと会見して、イタリー語で会話をしたと号する人物で、体は小さく丸まっちいが、生気溌刺とした男であった。彼はイタリーの陸軍がわれわれのために演習をやってみせるのを説明しながら、すこぶる得意で、イタリー軍一度起てば、ヨーロッパを席捲するかの如き口調で、まるでイタリー軍は自分のものであるかのように、その力を誇った。

ムソリーニについても、十年の知己であるかのように、彼の人物と業績とを称えた。

 甘粕は外交使節としてイタリーに行っても、相手のご機嫌をとらなかった。向うの接伴の仕方が悪いと強硬な態度をみせて反省を求めることはカプリの島で示した通りである。接伴員をご馳走して喜ばせることもあるが、ひどい仕打ちをすることもあった。ジェノヴァでは、朝九時出発と接伴員が言ったので、その通りに集合し、正九時にホテルの玄関から車に乗ろうとすると、汽車は十時でなければ出ないからもう五十分待てという。甘粕はそれを承知しない。九時と云ったから九時に出発するという。接伴員は困ってしまい、一同を車に乗せてジェノヴァの町をあてもなく、五十分の間ぐるぐる廻るというしまつ。こういうところに甘粕の駄々っ子のような面があったが、私も甘粕の感化を受けてイタリーの人々が、筋の通らないことをすると、遠慮なくやっつけたものである。

 満洲国を訪問したパウリッチがわれわれのための歓迎会を開いて、歓迎の挨拶をすることになり、その原稿をあらかじめ見せてくれたが、その中に、
 「満洲国には協和会というものがある。これはファシストのコーポラティスモ(組合主義)にインスパイヤ(刺戟)されてできたものである」                〈
 と書いてあったので、私は大いに憤慨し、甘粕と相談し、パウリッチに抗議することになり、満洲国公使館の三城参事官に、組合主義云々のところを「東洋道義に基づく独創的組織」と直すように話をつけてくれと頼んだ。参事官はうるさいと思ったか逃げたので、私は自身パウリッチのところに行き抗議した。大連の大和ホテルでやられた経験があるので、パウリッチはいやな顔をしたが、組合主義云々という文句を削ることにして話がついた。

 それやこれやでイタリー側は甘粕、武藤については大分問題にしたようである。ローマを去る時に有末は私のところへやって来て、
「イタリー側ではこう言っている。二十六人の使節団員は、どれが日本人やら、朝鮮人やら漢人やら、蒙古人やら区別がつかないが、甘粕と武藤だけば日本人だということがわかる。イタリー政府は誠意をもって歓迎したのであるから、満洲へ帰ったらイタリーの悪口を云わないでくれ。

 有末大佐は満洲へ帰ってから、私たちがイタリーの悪口を云いふらして歩くとでも思ったらしい。今にして思えば、野人礼にならわずであった。

 ローマにはファシスト記念館というのがあった。一九一九年、ムソリーニの旗上げから一九二二年ローマ進軍に至るまでのファシスト党の記念物を並べてある。血染めの陶器や武器、ムソリーニの発行していた新聞ボポロ・デ・イタリー紙、その他記念物が一杯飾られている。

 特別製のガラス戸棚の中に額に入った一葉の電報がある。これが一九二二年ファシスト党の軍隊がローマを包囲したため、ガスペリ内閣が崩壊し、皇帝インマヌエル三世が、ミラノにいるムソリーニにあてて打った招請の電報で、いわば皇帝からムソリーニに賜わったお墨付というところである。

 甘粕はその前に立って、じっと電報を見ていたが、私に向ってこう言った。

 「惜しいことをしましたよ。溥儀(後の皇帝)を天津から引張り出すことを奉天の大和ホテルで★板垣征四郎から頼まれたのです。執政就任の条件を板垣が私に口授したので、私はそれを大和ホテルの


 便箋に書き取りました。それを持って溥儀のもとに行き、彼と折衝したのです。その条件を一つ一つ読み上げると、彼は一々うなずいて承諾しました。そこで彼を湯岡子(とうこうし)に連れて来たわけです。その便箋をポケットに入れておいたが、どこかへなくしてしまいました。あれをとっておけば、満洲建国記念館を建てたときに、記念物として並べることが出来たかものを、惜しいことをしましたね。」

 その時、溥儀引張り出しの条件とは何でしたかと聞くと、甘粕は答えた。

 「大きなものは二つでしたね。先ず、第一は溥儀を満洲国の元首とするが、当分の間、執政とし、執政の地位にあって徳を積んだならば皇帝とすること。第二は、溥儀が祖宗の地満川に於いて元首となっても、清朝の復辟ではないこと。」 


 甘粕は大杉事件で十年の懲役に処せられ、四年間服役した後、昭和二年仮出獄となり、結婚してフランスに遊び、昭和五年大川周明の斡旋によって満洲に渡り家族とともに奉天に住んだ。昭和五年から六年にかけて東奔西走、席の温まる暇はなかった。昭和六年九月十八日勃発した「満洲事変」に彼がどういう役割を買って出たか明らかでない。関東軍ハルビン侵入の前に、彼はこの都に乗りこみ、夜中に市中を自動車で走りまわり、ピストルを路面に放って、治安が乱れているかの如き印象を市民に与え、治安維持を名として関東軍を引き入れたという話がある。また昭和七年国際連盟からリットン調査団一行が満洲国の調査に乗りこんだ時、一行が北京からやって来て山海関を越える前に、その乗っている列車を爆破してこれを覆滅しようと企て、反対があってとりやめたなどという話もある。いずれも伝説的なものかも知れない。しかし皇帝溥儀引出しのために、甘粕が大きな役割を果したことは歴史的事実であり、彼が自ら私に語ったところである。


 ****************

    続く。

   
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