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●満州国の断面 (4)
 ★嫌いな人物は菅原道真 (p17-24)

 初めて甘粕に会見してその人物に魅せられること
 甘粕に頼まれて協和会宣伝科長を引きうけること

 
 「これから協和会と政府との連絡会議に出てくれないか。両者が連絡を密にするために、毎月一回政府の中堅官吏と協和会の幹部とが懇談する会をもつことになった。国務院総務庁からは君に出てもらいたい。頼む」と古海忠之(現在中共抑留中)から言われたのは、康徳四年(昭和十二年)八月のことであった。古海はその頃、国務院主計処長で協和会の指導部長を兼ねていた。

 協和会へ出入りすることはあまりぞっとしないが、問題の甘粕という男はどんな人物か見てやろうと思い、私は承諾の返事をした。そして八月のなかば頃、古海につれられて、大同公園の北側にある協和会本部に行き、会議室で初めて甘粕と会った。政府の官吏は七、八人来ており、協和会側は甘粕以下古海その他部科長十人ばかり並んでいた。

 甘粕というのは顔面蒼白で残忍酷薄な顔をしているかと思って行ったところ、案外快活な表情をしているので驚いた。血色が良く、端正な顔をしており、時々声を立ててアハハと笑い、簡潔な言葉で適確にものを云いあらわしていた。

 私は「おや」と思った。これは右翼ではなくてインテリだ、というのが私の印象であった。鼻は均斉がとれていたが、鼻頭が酒焼けのためか少し赤かった。眉と眉との間に、タテシワが二本あった。このシワが彼の前歴と、彼の歩いてきた苦難の道とを示しているように思われた。表情の中で暗いところといえばそれだけで、他はすべて明朗で、また理知的であった。

 会議の席上、彼はガリ版刷りの二つの原稿を出した。一つは「支那事変について」もう一つは「協和会問答」と題するパンフレット用草稿であった。それを列席の官吏たちに配って彼はこう言った。
 「人にわかるように物を書くのに難しいことです。自分が百、知っていることを二つか二つ出して、人の身になって表現に苦しむことにより、初めてわかり易いものが出来るのですが、自分の知っていることをやっと表現するようでは、人にわからせることは出来ないのです。協和会で出すパンフレットは、自分がやっとわかったことを、やっと云い表わしているのですから、人にわからせることが出来ません。そこに現在の協和会運動の困難があります。この一つのパンフレットの原稿は、その見本みたいなものですが、これをごらんになって御意見をお述べ下さい。」

 パンフレットの原稿にざっと目を通すと、なるほどこれは大変な文章である。主語と述語とうまくつづかないところもあるし、何と云っているのか、言いた人自身がはっきりわからないでいると思えるところもある。意気はまことにさかんであるが、一人で声高に叫んでいて、人がついてこられないようなところもある。こういうものをそのまま印刷して出したところが、大衆はほとんどこれに興味をもたないだろうと思ったので、私は甘粕に向って、二日間の余裕を下されば、私がこの原稿に筆を入れましょう、と言った。甘粕は「お願いします」と言って経く頭を下げた。なかなか謙遜な人だと思った。

 仕事の余暇を見つけて私は二つの原稿を細かに訂正し、それを甘粕に届けた。それから一週間ほど たって甘粕は私に会見を申し込んできた。夕方協和会から車を廻してよこしたので、それに乗って行くと、協和会館の前で甘粕が待っており、二人はその車で料亭桃園に行った。

 甘粕は私が原稿を直したことに大変感謝し、「直して下さった通りの原稿で出版します」と言った。それから酒肴が運ばれたが、私は自分の信仰から酒は飲まなかったが、甘粕は芸者の酌で盃をあげた。飲みながら彼は芸者に向ってこんなことを言った。

 「おい、お前たちは顔も違うし芸も違うのに、賃金が同じとは何ごとか。お前のようなまずい顔をして芸の下手な芸者が、ほかの芸者と同じ賃金をとるとはけしからん、賃金を返せ。」するとその芸者は甘粕に眼をむいて、私に向ってこう言った。
 「このおじさんに欺されて、ひどいめにあっているのよ。百円よこせば一千円やると云ったから『ハイ』と返事したら、それは一千円ではなくて、一銭たったので、九十九円九十銭お前に貸しがあると云って、いつも私も責めるのよ。」

 それからたわいもないことを言って芸妓をからかった後、甘粕は私に向って、あなたは日本歴史のうちで誰が好きですか、と聞いた。私は「日本武尊が好きです。この人は武人であり、詩人であり、その一生は英雄的で、しかも悲劇的です」と答えた。

 すると甘粕は「あなたはどんな人が嫌いですか」と聞いた。「さあ」といって私が考えていると甘粕はこう言った。

 「私の嫌いな人は二人あります。その一人は菅原道真で、もう一人は乃木大将です。菅原道真は左大臣まで昇進したが、大政大臣になりたくて猟官運動をやった。ところがそれに失敗して藤原時平のために官を追はれ、筑紫に流されることになったが、宇多上皇にすがって留任運動をやった。君しがらみとなりて止めよ、というのはその時の詩です。×(こんりゅう)の袖に隠れて自分の地位を守ろうとしたのです。陛下を自分のために利用する今頃の政治家によく似ているではありませんか。ところが失敗して、筑紫に流されることになった。その詩も泣きごとをこぼしている。駅長悲しむなかれ、時の変り改むるを、とつぶやいている。筑紫に流されてから詠んだ詩も、国を思い天子を思うよりは、己れを主にしている。秋思の詩篇独り断腸、恩賜の御衣なおここにありなどと、自分中心の態度です。」

 なかなか面白い見方で、そう言われれば、なるほどそうかと思う。では乃木大将をどうして嫌いですかと尋ねると、「今の時世だとこの人は大佐までしかなれない人物ですよ」と簡単に片附けてしまう。そこで私は「ではあなたの好きな人物は誰ですか」と聞いた。すると彼はこう答えた。

 「私の好きな人物は悪源太義平です。彼は人のために尽くして損ばかりしている。人のために損をしつづけて、一生を終ってしまった。保元の乱には待賢門の戦で平の重盛を追いかけて、もう一歩で彼を討取るところまで行ったのに、自分の家来、鎌田兵衛が平家の武士・与左衛門景安に押えられ、首をかき切られようとしているのを見て、重盛を討つことはいつでもできるが、自分の愛する家来が殺されてしまったなら、再び帰ってこない、と思い、重盛をのがして鎌田兵衛を救った、そこに彼のよさがあるではありませんか。歴史は決して真実を伝えません。つまらない男が偉大な人間のように取扱われたり、ほんとは立派な人物が名も現われずに埋もれたりするのです。歴史の記録は表面的であったり、時々偽りであったりします。真実が埋もれたままで歳月の経過によって忘れられてしまう場合がしばしばあるのです。」

 この言葉を聞いて、私はハッと思った。大杉殺害事件の真相は、新聞に報道されたのとは違うのではあるまいか。それは表面的な歴史の記録にすぎず、その真実はおおいかくされて表に現われずに失われてしまうのではなかろうか。いま目の前で話している甘粕という人物が、ほんとに大杉夫妻を絞殺し宗一をも殺めた下手人であろうか。このような教養の高い人がそんな大それたことをしたのであろうか。この時私は大杉事件について疑いをもちはじめた。

 関東大震災が起こったのは、私が一高三年生、十九才の時であった。翌年の二月一日、紀念祭の飾物に、明寮何番であったか、「締めてかくす、甘粕大尉」という題で、越中ふんどしを出した。大杉らを絞殺して古井戸にかくしたという意味である。

 下品な飾り物と、いまわしい事件にまつわる印象とが、私のうちに甘粕正彦像を形づくっていたのだが、それがこの夜の会合でくずれつつあった。甘粕に一度も会いもしないでまた大杉事件の真相を調べもしないで、新聞の報道や人の噂で人物を推量していたことの誤りを私は悟った。来りて見よ、という言葉があるが、人物は会見し語り合って見なければわからないものだと思った。私の甘粕に関する考え方は前後二回の会見で急変していった。

 もともと私は東京地方裁判所判事から、昭和九年四月満洲国司法部に転じ、ついで法制局参事官になったので、いわば法律の専門家である。十一年間法律で立ってきており、満洲国の法制通をもって自任している。それが、得体の知れない協和会の宣伝科長になってくれ、といわれたのだから少しあわてた。ところが私のうちには人前で物を言ったり、宣伝したりすることの好きな性質があり、私は自分を顧みて、求心的な人間ではなくて遠心的な人間であると自覚していたので、二回の会見で私のこの性質を見抜いたな、と感じ、彼の鑑識眼に恐れをなした。そこで即答を避け、考えてみましょう、と言って別れた。

 当時の協和会というのは宣言や綱領は立派で、その指導精神は★辻政信の手にかかって、総務長官・大達茂雄を辞職させる態のものだが、実際ははなはだ弱体な組織で、中央本部及び地方本部に働いている協和会職員の多くは、満洲建国に参画した日本人のうちで、政府の官吏にならなかったか、なれなかったものが主である。中には相当の人もいたが、大ていは能力において、知識経験において、官吏としての適格を欠いているか、或いは性格や精神が激し過ぎて、官吏には向かないような人が多かった。

 在満日本人の中にも、協和会とは何であるかを理解しているものは少なく、中にはこれを関東軍の諜報機関と思っているものもあるし、文化団体と取っているものもあった。また関東軍が上から作ったナチス、ファシスト党の模造品であると思っているものもいた。満人(漢民族)はこれに親しむというよりは、むしろこれを恐れ警戒していた。だから法制処参事官から協和会の宣伝科長になるということは、いかにも落ちぶれるような気持で、まるで箱入り娘がマネキンに転落するようかものであった。

 ところが人物の持つ魅力は大きなものである。毛嫌いしていた協和会も、甘粕という人物に引きつけられ、何となく面白いところのように感ぜられる。三回会っただけだが、甘粕という男は自分の想像していた人物とは全く違っている。その違っているところが何とも言えない魅力となった。役人になって十一年、いろいろな人物に出会ったが、これほど興味ある者にぶつかったことはない。一つ甘粕の下で働いてみようという気になった。

 主計処長の古海忠之は官吏の地位はそのままで、協和会指導部長をやっているので、私もそれにならい、法制処参事官のままで宣伝科長になるなら承諾しようと腹を決め、古海とも話し合い、また当時上司であった松木侠(現鶴岡市長)にも相談し、その承諾を得て甘粕に返事をした。

 甘粕は喜んで私を迎え、その年の十一月一日附で私は現職官吏のまま協和会宣伝科長を兼任することとなった。これが私の後半生の転機になろうとは、その時は気がつかなかった。今にして思えば、甘粕にこの時引かれたことが、それから後二十年の私の生涯を決定した。

 **************

   続く。

   

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