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●『満州国の断面―甘粕正彦の生涯』 (2)。  
 ●『満州国の断面―甘粕正彦の生涯』(2)。   
 

 ★辻政信のえがいた波紋 (p7~)

  大達茂雄関東軍と衝突すること
  甘粕正彦協和会に現われること


 「人殺しが、満洲国の政治に関係するとは何といういやなことであろう」
私は思った。

康徳四(昭和十二年)四月、甘粕正彦が満洲帝国協和会の総務部長として乗りこんで来たというニースが伝わったのである。その時分、私は国務院法制処(法制局)の参事官をしていた。

話は前にもどるが、前の年の十二月十日の午後、新建築が出来上ったばかりの国務院片舎の三階廊下を、企画処に向って歩いていると、総務庁長(総務長官)大達茂雄が、ズボンのポケットに両手を入れて、にこにこしながら反対側からやって来た。何処へ行くかというから企画処の会議へと答えると、「会議はさぼってしまいなさい、官邸に行って碁を打とう」と言う。そこで大達に連れられて長官官邸に行った。

官邸は落成が済んだばかりで、結構調度は豪勢なものであった。引っ越して間もない大達は私を案内して各部屋を示し、「どうです、立派なものでしょう。こういうところに入りたいとあなたは思いませんか、羨ましくはありませんか」と言って、上級生が下級生に対するように私をからかった。

それから夜おそくまで碁を打って、玄関で別れる時、大達はしんみりした口調で、「こんな立派な家にも長くはいられない。浪人になればあばらや住いだよ」と言ったので、おかしなことをいう人だと思った。

ところがそれから四、五日経って、大達茂雄が関東軍と衝突して官を辞するといううわさが立った。大達と同じ内務畑の出身で、当時私の直接の上司であった大坪保雄(現=著作出版時=衆議院議員)や、その他二、三の消息通に尋ねると事情は次のようであった。

話はさらに前へ戻るが、この年、二・二六事件の直後、当時陸軍大尉であった★辻政信(現衆議院議員)が、関東軍司令部の幕僚として東京からやって来た。

この人物は、制限速度を無視して走るタクシーみたいで、日系官吏が、あれよ、あれよと言っている間に、突拍子もない勢いで政策街道を驀進し、満州国の政治を大ゆすりにゆすぶった。

この年の春から夏にかけて彼がやったのは、行政機構の改革、建国大学の創立で、それが片付くと協和会の強化に乗り出した。その結果が、この年の九月一五日附で出された協和会に関する関東軍司令官の声明である。これは黄表紙のパンフレットに印刷されており、誰に見せても差支えないものであった。ところがもう1つ白表紙のパンフレットというのがあった。表紙には「満洲国の根本理念と協和会の本質」という題が記され、永久保存、軍事機密となっていた。

 大達茂雄は関東軍に呼ばれて、参謀長・板垣征四郎から、この白表紙パンフレットを渡された。紫の袱紗(ふくさ)をかぶせて盆にのせてあるのを、まるで勅語でも受けるようにうやうやしく受取らなければならなかった。この白表紙パンフレットは大達に渡された後、日系官吏に配られることになっていた。大達が国務院に帰って白表紙を開いてみると、彼の考えによれば、とんでもないことが記されていた。

 白表紙の要点はざっと次のようである。「満洲国の政治は独創的王道政治であり、哲人政治であり、議会政治を否認する。協和会は満洲国の精神的母体でかつて、協和会員たるものは最高熱烈なる建国精神の体得者でなければならぬ。協和会員が野に在り、官にあって建国精神を実践してゆくとき、動議世界は満洲の地に創建される。関東軍司令官は天皇の御名代であり、師ふ(しふ)として皇帝を指導する。満洲国の宗主権は、皇道連邦の中心たる日本の天皇にあり、皇帝は、皇道連邦内の一独立国の主権者である。協和会が健全な発達を遂げた時、関東軍司令官は逐次その指導権を協和会にゆずり、沈黙の威を以て、満洲国の後見をする。」

この位のことなら、当時の満洲国としては、それほど驚くには当らないのであるが、問題は議会制度の否認と皇道連邦思想とにあった。

日本を中心とする皇道連邦のさきがけが満洲国であり。そこで議会政治を否定して、協和会政治でゆくということは、やがては日本の議会段治を否定し、憲法を否認することを示唆している。白表紙の文章は明確に日本の議会政治を否定してはいないが、少なくとも全体のニュアンスが日本の憲法に反することを書いていると大達は解したのである。

そこで大達は「日本憲法を否認するようなことを記したパンフレットを、自分は陛下の赤子として、日系官吏に配るわけにはいかない」という決意を固め、白表紙パンフレットを金庫の奥へしまいこんでしまった。そして関東軍司令官・植田謙吉に会見して、「軍司令官たる者は、たまには幕僚の言を退けてしかるべし」と建言し、当時日満両国で非難されていた幕僚政治に一撃を食わし、白表紙パンフレットのいきさつを説明し、自分の立場を明かにした。

そして辞去するやいなや、総務長官として軍司令官の尊厳を汚したのは申訳ないという理由で司令部に辞表を提出した。

白表紙、黄表紙二つのパンフレットの作文は辻政信の筆になったもので、当時の参謀副長・今村均は赤線で訂正し、陸軍省軍務かにいた片倉哀も訂正意見を出したが、両方とも用いられず、辻が殆んど原案のままで参謀長・板垣征四郎を動かし、軍司令官の決裁を経て大達に押附けたものであった。

ところが大達がこれに反撃を食わせ、辞表提出にまでいったので、関東軍司令官は少々あわて「総務庁長に前以て相談せずにこういうことを決めたのは悪かった。今後はこういう重大なことは、前もって相談をすることにする、また白表紙はそのまま金庫の中にしまっておいて、必ずしも日系官吏に配らなくてよい」というところまで折れて出た。

大達の側近は「軍司令部がそこまで折れるなら、辞表は撤回した方がよい」とすすめたが、大達は「それがいかんのだ。そういうことをすると軍はまた同じことをやる。この機会に押切って軍に反省させなければならぬ」と頑張り、遂に康徳三年(昭和十一年)十二月十六日、老母に孝養とつくすために官を辞したと新聞に発表し、協和会問題についての秘密は何も語らす、新京を去ってしまった。

大達は康徳元年(昭和九年)法制局長官として満洲に赴任したのであったが、私はその翌年の四月、満洲国の司法部刑事課長から、大達によばれて法制局参事官になった。それから一年半にわたり大達に仕え、彼の卓抜な意見と、出処進退のあざやかさとに啓発されることが多く、部下として、また碁敵(ごがたき)として彼と親しく交った。

 当時の法制処(元の法制局)の日系参事官は、私の外に飯沢重一、田村仙定、木村鎮雄、寺岡健次郎、鯉沼昵等六名で、みな大達を尊敬していたから、大達が協和会問題で満洲を去るようになると余計に協和会を毛嫌いした。その頃流行してきた協和会服を着ることをいさぎよしとせず、みな背広で通し、協和会服を着ないことが大達
への忠義立てであるかのような、また筋金の入った日系官吏であるかのような感じをもっていた。

ところが大達の後任に星野直樹が財政部(後の経済部)から乗りこんできて、職員一同に講堂で挨拶した。星野は協和会服を着て現われたので、われわれ背広組はあっと思った。間もなく法制処長・大坪保雄は大達に殉じて職を退き日本へ帰ってしまった。

この事件が起こるまで、私自身は協和会の何ものであるかを知っていなかった。というよりは馬鹿にしていたのである。右翼の浪人たちが集まって、自分には力がないくせに、軍の威力借りて何かやろうとしているのだろう、満州国にとっては、なくもがなの存在だくらいに考えていた。ところが、事態が大達辞職にまで進展し、星野が協和会服を着て総務庁長(総務長官)として乗り込むということになると、協和会というものが軽視できない存在であり、関東軍司令部は、日系官吏を直接内面指導している上に、もひとつ協和会というものを作って政治的横車を押しているのかしらと思うようになった。

当時の日系官吏は、すべて関東軍の命令に唯々諾々として従っていたのかというと、そうではない。国務院総務庁の官吏、殊に建国後日本政府から招聘された官吏の中には、関東軍が満洲の政治の実権を握っているのが正しいかどうかを疑う者がかなりあった。

ほんとうは、日本の天皇から遣われた文官の師フ(しふ)が皇帝を指導すべきであるという論も行われた。軍司令官は如何なる根拠によって天皇の御名代となったかなどと疑問を発する者もあった。

 実際われわれ三十台の若者たちは、満洲国の政治はヒューマニズムに根ざさなければならないと思っていた。王道とか皇道とか云うが、それは表現の問題であり、近代教育を受けたものとして、ヒューマニズムを離れることのできないのが、われわれの持味であった。そして関東軍が横車を押すと、いつでもヒューマニズムによってこれと闘うのが日系官吏の一つの役割であった。

ところが、大正十二年の関東大震災に乗じ、大杉栄とその妻・伊藤野枝とを絞殺しし、更に大杉の甥で七才にしかならぬ宗一をも殺害して、三人の死体を古井戸に投げこみ、懲役十年み処せられて、牢から出て来た甘粕という男が、関東軍の引きで協和会の総務部長になるとは、なんといういやらしいことであろう。原敬を暗殺した中岡艮一が、安東の近くで何かをやっていると聞いたが、甘粕の協和会入りもそれと大同小異だと考えたのは、決して私だけではなかった。

 藤山一男という人物がいた。当時政府の恩賞局長であったが、私はこの人とは官職を離れて親しく交っていた。彼は幼時人形浄瑠璃文楽に弟子入りして名取となり、後五高から・東大経済学部を卒業して、第一次大戦の好況時代、三十才で相場師になり、大正九年の大ガラで失敗して世を捨て、下関の近くの長門一ノ宮で橡(くぬぎ)畠を開墾して七年間百姓をし、転じて大連に来て福昌草工公司の職員になって功績を挙げ、満洲建国に参画して初代実業部総務司長(次官)に就任した。珍らしい文化人で、絵を描き、小説をものし、歌をよみ、作曲をし、ピアノ、サキッソフォンを演奏し、太棹の三味線を一棹持って欧米を旅行し、音楽家となり、絵描きとなり、白人を驚かせたという人物である。

この藤山と会談している時、談たまたま甘粕のことに及んだ。すると藤山は次のように私に語った。

「甘粕は君、素晴らしい人物だよ、協和会へ行って見給え、テキパキと煩雑な事務を処理している。こんな事務的才能を持った男を私は見たことがない。それに彼は情の人、義侠の人だ。実は三年前の話だが、五一五事件の直後、首謀者の一人橘孝三郎が満洲に逃げて来た。その時僕は或る筋から、橘をかくまうことを頼まれた。そこで実業部の独身宿舎に橘を隠した。暗号を決めて幾つ天井をたたけば飯、幾つたたけば用便というふうにして、数日間、彼をかくまった。新京警察署(関東州庁管下)は彼がかくまわれていることに感ずいて、実業部の独身宿舎に泊まっている職員を全部引張り、ブタ箱に放りこんで責めたてた。ところが誰も白状しない。とうとう僕も引張られてブタ箱に一昼夜入れられた。
                          
甘粕は当時満洲国政府民生部警務司長(内務省警保局長に当る)であったが、僕が留置された二日目に彼は新京警察署に乗りこんできて、警察署長をつかまえて談判した。「令状なしで満州国の簡任官(勅任官)を逮捕監禁するとは何事であるか。これは日満間の国際問題である。直ちに釈放すればよし、さもないと、これを外交問題として取上げるがどうか』とおどしつけた。僕はこれを署長室の隣りで聞いていた。調べを受けるためにブタ箱から出されていたのである。警察署長は震え上って即時に僕を釈放した。それで、帰宅するとすぐ橘を満洲国の警察官に変装させてハルビンに逃がした。その時僕は初めて甘粕を知った。甘柿はこういう男だ。」

藤山からこの話を聞いても私は余り感心しなかった。それは軍部右翼的な勢力を背景にして警察署長をおどしたに過ぎないと思ったからである。

「われわれは満洲の地にユートピアを造ろうとして渡ってきた。国士気取りで白刃をひらめかし、大言壮語をして、人をおどかし、その実、軍にへつらって地位を得たり、生活をたてたりしている人間を、満洲国は必要としない。実はそういう人間は満洲の地から去ってもらいたい。われわれが行おうとしている政治は、四千万国民の衣食を足らし、近代文化をこの地に建設し、自由と繁栄とを人々が楽しみ得る国を作り上げることである。兇状持ちの甘粕が協和会に入り、軍と結んで日本の右翼的勢力を満洲に張られてはやり切れない。」

これが私の偽らざる感想であった。
 
**************

  続く。 
 

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