カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35)-2
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35)-2
  -周恩来と東亜近代史の理解に不可欠な怪人「呉達閣」     
 

 ★京の奇妙な下宿で邂逅した「支那人の居候なる大物」

 問題は政雄の下宿である。「孫息子を預けたる家は、佃煮や干物などを扱う店を花街の方に出してをるらしいが、何より変わってをるは、下宿も離れの間借も支那人が多いとのこと」と「別紙記載」にある下宿は、左京区吉田中阿達町にあった。「創大アジア研究』「日本留学期の周恩来と京都訪問についての一考察」(川崎高志)によれば、『中外学者再論周恩来』(中央文献出版社)に、本部広哲氏の研究により「現在の左京区の区役所になっている場所にあった、二軒並びの北側であったと考えられている」とあるから判明したのである。「これを書いてをると、〔日記を点けるは良い事なり。自分もさふしやふかと思う〕と、他人の物のぞき込んで声をかけたる人物がをる。孫息子と大分懇意であるらしい支那人の居候なる人物、周と云うらしい。名乗らる。京都の大学に行く資格あるも行かず、毎日見物して遊んでをる由。まるで石光さんと同じやふだ。多分、日本を頂察してをるのであらふか」。この「孫息子と大分懇意であるらしい支那人」が呉達閣で、「居候なる人物」が周恩来その人であった。呉達閣こそ周恩来と張学良を繋ぐ重要人物で、この人物の事績が明らかになれば西安事件の真相が暴露されて国共合作の意味が明らかになり、従来の東亜近代史が転覆して、世界史の観方が一変する。

 何度もこのテーマを掘り返してきた本稿が、今回は呉達閣に焦点を当てる理由は、この重要人物の探究を、中華民国国民党と中国共産党の双方が故意に、しかし秘かに抑止している事に感づいたからである。

 私(落合)が、「周蔵手記」の解読に取り掛かったのは平成八年の二月であった。それから十三年、日夜解読に勤しんできたが、この条ほど解釈に苦しんだ例は少ない。後述する「一年のずれ」が解明できないからである。こんな場合には、必ずそれに相応する真相が潜むことは、十三年の経験で分かっている。従来は、何かに残された記事の断片や、いずこからともなく寄せられる情報から史家が見逃したその一端を暴くことができたから、私(落合)は諦めなかった。今回はまず呉達閣から始める。台湾刊『民国人物伝記史料』によれば、呉達閣のことを、諱(いみな・本名)は瀚濤「カントウ」、字(あざな・通称)は滌愆「デキケン」とする。始め達閣だったが都合により改名したのか、最初から偽名だったのかは確認できない。英人記者ディック・ウイルソンが昭和五十九年に発表した『周恩来』は呉達閣の名を用いるが、これに出てくる呉の記事を、以下に掲げよう。

 諱と字、偽名を巧みに用い本質を糊塗し史家を翻弄する

 ①大正二(一九一三)年夏、周恩来が 天津南開中学第四級に入学。隣席に呉達閣がいた。
 ②大正六年九月、日本留学中の呉達閣が仲間と留学資金を出しあい、周恩来を日本に呼ぶ。
 ③同月、神戸港に着いた周恩来を呉達閣が出達え、周はすぐに東京へ 移る。
 ④大正七年秋、夫婦で京都にいた呉達閣が、周恩来を京都に呼び、居候させる。
 ⑤大正八年、五四運動に呼応して周恩来が帰国を決意、周夫人は指輪を売って旅費を与える。
 ⑥大正十一年、周恩来はフランスで共産党勧誘文書を作成、京都の呉達閣に送るも返事なし。
 ⑦昭和十二年、周恩来は西安事件後の国共協定で、国民党使節団員の呉達閣と偶然会う。

 ウイルソンは、彼以前に出た周恩来伝の松野谷夫『中国の指導者―周恩来とその時代』(昭和三十六年)及び許芥翌『周恩来』(昭和四十三年)につき、「許芥、松野は韓という姓を使っているが、同一人物である。筆者は本書を執筆する目的で、一九八〇(昭和五十五)年に台北で彼と会った」と言っている。台北に移った呉達閣は、「韓某」の偽名を用いる条件にして、伝記執筆のための情報を許芥に提供したのであろう。ここでウイルソンが、何故に偽姓を用いたかを追究していないのは、呉達閣の本質に全く気付かなかった証拠である。周恩来の旧友の名は「韓某」でなく、「呉達閣」が本名と聞いたウイルソンは、周の伝記を執筆する目的で、国際法学者となっていた呉達閣を訪ねた。中国人は友人間では諱(本名)を呼ばず字(号)を以てすると聞くが、例えば名刺には「周恩来 翔宇」、書簡にも「翔宇 周恩来」と記名しているから、公式的な場合は勿論、一般的にも諱を名乗っている。台北で会った相手は「呉達閣」と呼び掛けると応じたが、諱を「瀚濤」と告げなかったので、ウイルソンは彼の諱(改名?)を終に知らなかった。台北まで行って本人に会い、「韓某」が偽名と確認しながら、「瀚濤」と変えたことは知らなかったウイルソンは、呉達閣の本質に気付かなかった。呉達閣の本質を知らずに著した伝記が周恩来の真相を伝えていないのは当然のことで、またも「裏付け」重視で誤謬に満ちた俗流史学の一源流を成すこととなる。

 平成に入り、周恩来伝の決定版と銘打つ伝記『長兄』が出た。著者韓素音(ハン・スーイン)は映画『慕情』の原作者として知られ、周恩来に十一回も会い、ウイルソンにも協力して貰ったというが、この著も「呉達閣」の改名を知らず、呉達閣の本質を、延いては周恩来の本質を見誤った点ではウイルソンの著と同断である。周恩来を理解するには、呉達閣を理解せねば始まらない。

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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(35)  <了>。 
 

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