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●疑史 (第62回) 甘粕先生FMニ入社
                      満州国の断面_1


 ●疑史 (第62回) 甘粕先生FMニ入社
 
 甘粕正彦の在仏時代、ことにルーアンの下宿に住んだ昭和三年一月から四年一月までの一年間を、巷間の甘粕伝奇は□を極めて陰影化する。その本歌はソルボンヌ出の角田房子が著した『甘粕大尉』であるが、さらに基底を探れば澄田ライ四郎☆と遠藤三郎☆の証言がある。両人は共に砲兵畑でフランス組の軍人だから、上原勇作元帥と縁の深い事は言うまでもないが、本当を言えば、フランス留学で砲兵科ならば、上原などは飛び越して直ちにワンワールド結社に想到すべきであろう。角田前掲はルーアン時代の甘粕を陰影に描写した後、一転して、「こうした事情であったにもかかわらず、フランス時代の甘粕はフリーメーソンに関係していた。または日本人メーソンであった―という説がある。大東会編『甘粕先生の年譜』(昭和四十年発行)にも〔パリーではFMのグレート・トリアント・フランスに入社、ヨーロッパの枢要地を視察・・・〕と書かれている」と紹介する。そして「グレート・トリアント・フランスとはグラン・トリアン・ド・フランスのことだろうが、これはフランスのフリーメーソンそのものを指す名称だから、〔FMの〕という記述も正確ではない」と、この分野の知識をひけらかしたが、「大杉事件という過去を持つ元憲兵・甘粕とフリーメーソンが結びついたとすれば興味深いが、渡仏中の世話をした澄田睞四郎、遠藤三郎の二人は〔噂を聞いたこともなく、信じられない〕という。〔武官時代にフリーメーソンを調査し、本省へ報告書を出したことがある〕と語る澄田は、この秘密結社に精通している。彼は〔あの当時の甘粕が近づけるような結社ではない。彼の語学力を考えただけでも不可能だ〕と語った」と述べ、結論では否定している。

 大正十三年にフランス陸大に留学した澄田大尉は、卒業後もフランス駐在を命ぜられ、一旦帰国するが、昭和八年中佐時代に再渡仏して駐仏大使館付武官となり、二年間駐在した。「武官時代にフリーメーソンを調査し、本省へ報告書を出した」とは、この時期である。フランスのみならず、欧米

 先進国が後進国から留学生を受け入れる目的は、留学生を厚遇して自国のシンパにする事にある。そのためには秘密結社に勧誘するのが原則で、上原勇作も例外でなく明治十四年のフランス留学時に、後にシャン・コクトーが総長に就く秘密結社(ダビンチ・コードで有名)に入り、ユダヤ系アルザス人ポンピドーー家の妹をあてがわれた。相手の兄はメソジスト派牧師だが、在仏ワンワールドの領袖であったことは言うまでもない。二人の間に生まれた娘(ジルベール?)を、上原が甘粕と秘密結婚させた契機は未詳であるが、その娘から日本でフランス語を教わった甘相は、二人して秘かにフランス留学をした。その時期は、甘相中尉が戸山学校での怪我を理由に歩兵科から憲兵に転科するまでの空白期間、すなわち大正六年秋から七年七月にかけての一年弱で、療養中の温泉場を抜け出ても、家族や部下は敢えて疑うことがなかったのである。こんな無理をしたのは、陸軍参謀総長の上原にしても、甘粕を陸軍の正規留学生としてフランス陸大に留学させることが難しかったからではあるまいか。ポンピドー牧師は、以前には天津南関学校で教えていたと推理する。理由は後稿で明らかにするが、ともかくポンピドー牧師は支那人彭披得として来日し、神田区三崎町の中華メソヂスト教会の牧師になり、八年に帰仏した事官は大正十一年の警視庁外事謀の資料にある。その主要なる活動拠点は青山教会で、そこに潜入したのが大杉栄のスパイ伊藤野枝であった。

 要するに、フランス陸大卒の澄田・遠藤の二人については、在仏ワンワールドとの関係を吟味する必要がある。角田によれば、澄田はこの秘密結社に精通しており、「あの当時の甘粕が近づけるような結社ではない。彼の語学力を考えただけでも不可能だ」と語ったが「甘粕が近づけるような結社ではない」とは「フランス陸大という正規の手続きを踏んでいない甘粕が・・・という意味にも取れる。おそらく原田は留学時代に在仏ワンワールドに入社し、駐在武官の時、ワンワールド本部の了解の下に秘密結社の報告書をまとめ、陸軍省に送ったのではないだろうか。つまり澄田は「甘粕は近づけなかったが、フランス陸大に入った自分は近づけた」と仄めかせたわけで、それならば、澄田が「自分はフリー・メーソンに精通した」と高言するのも筋が通る。澄田はかなり深い関係と見てよいが、上原・甘粕ほどではあるまい。『甘粕大尉』の著者角田自身もソルボンヌ卒の経歴からして怪しく、著作の動機を疑うが、遠藤はそれほど深人りしたとも思えない。

 甘粕の仏語力について角田が嘲笑的なのは、「陸軍一の仏語遣いの自分でも、軍人仏語は通用しなかった。まして甘拍なぞは・・」との澄田の言に乗せられたのであろう。ところが甘粕に親灸した人物は正反対を述べている。満洲国の司法に携った武藤富男は甘粕に私淑した。戦後は明治学院院長に就いたが、その著(『満洲国の断面』☆だったと思う)の中で、甘粕と一緒に渡欧した際に垣間見た甘粕の仏語力を、「小鳥が囀るように」と賛仰している。裁判官とは、事実を法律的に整理するのみならず人間観察を心掛ける職種であるから、こんなことはまず間違わないだろう。甘粕のフランス語は軍人仏語ではなく、ポンピドーの姪から日夜教わった本場のフランス語だったのだ。
 ☆『満州国の断面ー甘粕正彦の生涯 (1956年) 後日紹介。

 甘粕正彦が『周蔵手記』に登場する二十六回目は昭和四年十二月末条で、「甘粕サン 日本二戻ラレズ 朝鮮二落チツカレル事トナル」と記すことは先月にも述べた。甘粕が四年二月二十三日に帰国したのを周蔵が知らなかったのは、折から妻の巻を伴い再渡仏していたからであろう。『周蔵手記』の昭和四年の部は、まず「三月ニ入ッテ親爺殿來ラル」条が、次に前掲「十二月 甘粕サン 日本二戻ラレズ」条が、順序は逆だがその後に「九月、藤田氏帰國サル」条がある。三月から九月まで空白の理由は、春から夏にかけて夫婦で渡仏しており、その件を「別紙記載」にしたからではあるまいか。

 周蔵が渡仏の際、警察の目をかい潜ったことは、吉薗家の伝承にある。警察に拘留されていた田中清玄を手引きして逃がしたのが理由である。田中清玄は周蔵の岳父・池田庄太郎の縁戚であった。戊辰戦争で敗れた会津藩は、斗南藩に国替えされ、藩士は下北半島に移されたが、家老・田中家は大畑村の池田庄太郎一族と婚姻し姻族になった。藩士たちの多くと共に田中家も下北から函館に移り、清玄が生まれた。清玄は二年四月に東京帝大に入学すると、早速幡ケ谷に住む菅又主計を訪ねるが、壁を隔てた隣家が、たまたま周蔵宅であった。

 菅又の父は、戊辰戦争で什れた会津藩士の死体を処理させる
ために家老・町野主水が秋田から呼び寄せた者たちの頭であった。主計もまた主水の子息陸軍大佐・町野武馬に仕え、陸軍軍属として陸軍内の処理屋をしていた。その主計を後藤新平が「周蔵に紹介し、大正十三年に幡ケ谷へ引っ越して来たと「別紙記載」に記している。帝大入学後、すぐに東大新入会に加わり共産主義運動に身を投じた清玄は、菅又家の隣家に住む遠縁の周蔵とたまたま知り合い、しばしば訪ねて來ては政治や思想を論じる仲となった。周蔵と十二歳年下の清玄とが夕闇に包まれても飽きずに舌戦を戦わしていたと、近くに住んでいた池田庄太郎の娘の池田チヤ(明治四十年生まれ)は証言する。周蔵は、三年十月、清玄が検挙されたことを知り、磯子署から脱走する手引きをした。

 一方『田中清玄自伝』には「昭和三年、ロシアから帰ってきたのがしゃべりやがって、十月にも一度、横浜で検挙された。磯子署へ入れられたが人違いだろうって、こっちは何も喋らなかった。そして屋上で運動のときに、ちょっと便所に行きたいからって言って、窓から飛び下りて逃げてやった。ちょうど下を見たら、建築現場で砂地だったんです・・・」とある。ベストセラーになった自伝だがホラ話が多いから内容を悉く信ずべきでない。さりとて丸きりの架空話でもなく、解釈が自己に好都合なのである。自力で脱走したと言うが、警察署からの脱走は流石に至難で、署の窓には頑丈な格子が嵌まっており、飛び出せない。身一つで脱出したのであれば、その一部始終を誇らしく語るべき処を、急所には触れずさりげなく流すところが不自然である。この時の脱走は、実は周蔵の手引きによるのだが、周蔵を陸軍特務とは知らなくとも舌戦を通じて愛国者と分かるから、愛国者に助けられたことは共産党員仲間の手前、絶対に言えなかった。転向した後もそれは公表できず、自伝では自力脱走と装ったのであろう。

 これに関して奇怪な一通の書簡がある。昭和四十年に佐伯米子から周蔵夫妻に宛てたもので、「画商から注文されたので加筆して売りたいから、祐三の下描きを貰いたい」という内容だが、文中で当時を回顧し「・・あなたもそうでしたはね。一時お上の目から隠れてらしたでせう。パリにいらした時も、日本を出るのがひと苦労だったと云ってらしたでせう。佐伯に聞きましたら、今だから言はれますけれど、脱獄の手助けされたらしいと話してました。今思ひますに、きっとほんとの事だと思ってをります。あなたは、そういう方だから・・・」と語っている。周蔵が佐伯祐三の陣中見舞いを□実に、金塊回収のために渡仏したのは三年一月であるから、右の文意は、周蔵が三年二月ころにパリで佐伯に脱獄幇助を話し、それを佐伯が米子に洩らしたという流れを意味する。それが事実ならば、脱獄の手助けは二年秋から暮にかけてとなるが、当時の周蔵は九月に上原元帥から渡仏任務を下され
その計画に専心していた。そもそも周蔵は、予てより佐伯を警戒しており、大事を洩らす間柄ではない。しかも祐三と米子は、二年暮ころから家庭内別居の状態であったから、夫婦の問で周蔵の噂をする機会もまずあるまい。田中清玄の脱走は、前述した通り三年十月で間違いなく、その時には佐伯は既に遺骨になり、米子に抱かれて帰国の途上にあったから、パリで周蔵と会うべき道理もない。つまり米子は、夫と周蔵の真の関係を知らず、その上時間の矛盾にも気付かず、当推量で右の手紙を書いたらしい。とすると手紙に言う佐伯とは、夫の祐三ではなく、米子の結婚前の愛人で帰国後にも何かと交渉があった義兄の佐伯祐正のこととなる。脱獄幇助のネタ元はおそらく祐正で、タダの真宗坊主でなく本願寺の僧だから、この情報を得ることはできた。しかし、このネタの内容には真実が潜んでいる。警視庁は田中の脱走の手引きを周蔵がしたと見当を付け、内偵していた。そこを振り切って、周蔵夫妻は四年の春に再渡仏したのである。その目的は佐伯祐三の死因確認だと言い、佐伯住居の近くの雑貨屋で米子が殺鼠剤を購入したことを突き止めた周蔵は、砒素を用いた毒殺と断定したと、何度も記している。尤も、夫婦揃って外遊の目的はそれだけではあるまい。渡英経験のある妻の巻もタダの主婦ではなかった。現地で外人を相手に何事かを図ったもので、それは貿易関係で何かの取決めをしてきたものではないかと思う。


 疑史 第62回  <了>。


 *****************


 ☆澄田睞四郎  すみた・らいしろう


 群馬県出身
 日本陸軍軍人
 陸軍中将
 砲兵
 澄田智の父
 陸軍士官学校(24期)卒
 陸軍大学校(33期)卒
 1937(昭和12)年11月1日 独立野戦重砲兵第15連隊長
 1938(昭和13)年7月15日 少将 野重砲兵第6旅団長
 1939(昭和14)年10月2日 重砲校長
 1940(昭和15)年9月28日 大本営参謀 仏印派遣団長
 1941(昭和16)年8月25日 中将
 1941(昭和16)年9月3日 第39師団長
 1944(昭和19)年11月22日 第一軍司令官

  ⇒ ★参考
  ⇒ ★参考

 

 ☆遠藤三郎

  ⇒ ★参考  

 
 ☆武藤富男

  ⇒ ★参考  


 


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