カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(34)
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(34)
               中丸薫の著作_1


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(34)ー2

 ワンワールド薩摩派総長の錚々たる系譜と数々の歴史秘事
   

 ★無視され続ける大物 杉山茂丸と堀川辰吉郎

 日本国家の進路を決める中で、決定的な役割を果たしたのは杉山茂丸である。明治二十二年石炭輸出のために香港に渡った杉山は、イギリス商人・シーワンを通じて在英ワンワールドに接触し、その伝令使となる。折から吉井が罷去し、高島が陸軍中枢に入り、在英ワンワールドはその指示を薩摩派に伝えるルートに杉山を選んだ。この頃から杉山は玄洋社の枠を飛び出して、国事それも日清開戦に向けて傾いていく。

 巷間の稗史に散見される杉山の逸話は本質に迫ったものではないが、皮相を観てさえその大物ぶりを感得できる。これだけの大物を教科吉史学が全く無視する不自然性は、昭和史において笹川了一を無視するよりも遥かに酷い。本稿はかくして杉山茂丸の実像探求に向かうこととなったが、そこに浮かんできたのは☆謎の貴公子堀川辰吉郎である。杉山の追究は畢竟辰吉郎を探求することに外ならず、本稿が辰吉郎の実像解明に向かうのは必然である。

 明治十三年京都堀川御所で生まれた辰吉郎を、杉山は玄洋社に引き取り育て、長ずるや学習院に送った。学習院は一般人民を受け入れなかったから、辰吉郎を貴種とする巷説には根拠がある。現行の官製歴史(教科書歴史)は故意か無知によるのか、この二人の事績を完全に無視するが、かくも歴然と顕れた人物を無視する以上、その説く日本近代史が根本的に虚構に陥るのは当然である。

 杉山と異なり、辰吉郎は稗史にもあまり登場しなかった。辰吉郎が革命家孫文に就いて清国各地を歴遊、各地で「日本皇子来」と歓迎されて孫文の信用を高めたとの説は古くからあり、辰吉郎と中島成子の間に生まれたと云う国際政治評論家・中丸薫は「父が孫文の片腕として長い間行動をともにしていたため、母・中島成子も中国に渡っていた。父・堀川辰吉郎は明治天皇と御側女官の権典侍・千種任子(ちくさことこ)との間に生まれ、井上馨に預けられた後、政財界の重鎮だった頭山満に教育され、自由民権運動に挺身する頭山満、伊藤博文らと行動をともにし、中国で革命活動を行っていた孫文が、日本に亡命して頭山のもとへかくまわれたのが縁で、孫文の片腕として中国に渡りました」という。身内の事を公言する時に通常割愛する個所を省略したため、副島隆彦が実父は韓景堂だと指摘したらしいが、韓に嫁したのは成子本人の言で、朽木寒三「馬賊と女将軍」にも出ている。戸籍上の父が韓であっても実父がそうとは限るまい。

 ★維新の真相はこの人物の追究で明らかになる 


 明治三十九年生まれの成子は大正十二年満洲に渡り奉天赤十字病院に看護婦として奉職し、関東軍の嘱託となり、張作霖顧問・町野武馬により北京の張学良邸に家庭教師として送り込まれ、張作霖爆殺後に満洲旗人・韓景堂の夫人となった。満鉄幹部の夫の実家で大農場を経営した成子は、満洲事変後は名流夫人として愛路夫人団団長、日本国防婦人会の満洲支部理事などに就き、満洲各地で社会事業に邁進した。昭和十二年七月七日盧溝橋事件が勃発した日は、三人の子供を連れて大連の星が浦に保養に来ていた。四人目は生後一か月余りで、自宅(奉天か)に残してきたらしい。そこへ北京特務機関から電報が来て、夫の了解を得た成子は北京に赴き、特務機関の政治部の連絡官に就き軍政を手伝い、日華傷病兵の看病など赤十字的な仕事に就く。

 右の四人目の子供が中丸女史で、中丸著には「母は抗日運動が高まる中国大陸において、日中両国の対立によって急増する難民の救済事業に貢献し、北京の屋敷は二千人を収容出来る難民宿泊施設と化していました。私が生まれたとき、北京の屋敷には中国の富家たちからの高価な祝いの品が、次々と運び込まれたそう
です。ところが、生まれて四十五日目に盧溝橋事件が起こり、日中関係は不穏な雲行きに包まれました。中国から絶大な信頼を得ていた母は関東軍(日本軍)に必要とされ、私は母の手から引き離されました。預けられた先は、当時北京大学教授たった松村正之とその妻・ちかの家です」とある。

 朽木著は辰吉郎を隠し、中丸著が韓景堂を隠すから、そこに溝ができる。因みに数年前、夫妻して拙寓を尋ねられた中丸女史が、紫禁城で生まれたと言われた時、やや奇異に感じたが、後日辰吉郎が明治四十三年から紫禁城に住んだと聞いて、肯綮に当たる感がした。韓叉傑(成子)盧溝橋事件の直前に紫禁城で出産したというのもまた奇異ではあるが、やがて解明できると思う。辰吉郎を明らかにすれば明治維新の真相とワンワールドの関係が分かるのだが、これを如何せんか本稿は迷う。文中の爵位・階級を観て真の重要人物の低さを察し、その意味を覚られたい。
 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(34)  <了>

 *************** 

 以下、中丸薫著(↑写真)より関連箇所を中心に少し紹介しておきます。
 


 ■『闇の世界権力をくつがえす日本人の力』 中丸薫
 2004年2月29日 徳間書店


 第7章 輪廻転生と因果応報の理

 ★日中友好に奔走する両親のもとに生まれた私 p199

 輪廻転生や因果についてより理解できるよう、ここで少し私自身の話をしましょう。

 私の人生はとても数奇で、密度の濃いものだと思っています。普通なら何回かの人生に分けて体験するようなできごとを、1回の人生で凝縮して体験しているような気がします。

 私は北京で生まれました。父が孫文の片腕として長い間行動をともにしていたため、母・中島成子も中国に渡っていたのです。父・堀川辰吉郎は、明治天皇と御側女官の権典侍・千草任子(ちくさとうこ)との間に生まれ、井上馨に預けられた後、政財界の重鎮だった頭山満に教育されました。そして、自自民権運動に挺身する頭山満、伊藤博文らと行動をともにし、中国で革命活動を行っていた孫文が、日本に亡命して頭山のもとへかくまわれたのが縁で、孫文の片腕として中国に渡りました。孫文は父の姿を見て一目で気に入り、「日本の天皇の血を引く方がついてくだされば、革命は成功する」と言って、父が中国へ渡る許しを頭山に請うたそうです。父としては名誉な話でした。しかし、そのために父の首には孫文と同じだけの賞金がかけられ、中国の大地を孫文とともに駆け回ることになったのです。幸い、革命は成功して、孫文は中国からも台湾からも、「中国の父」とたたえられているのは皆さんご存知のとおりです。

 一方、母は母で、抗日運動が高まる中国大陸において、日中両国の対立によって急増する難民の救済事業に貢献し、北京の屋敷は2000人を収容できる難民宿泊施設と化していました。母は私をおなかに宿していたときも、内蒙古徳王政府工作のため、馬にまたがってゴビ砂漠を往復したといいます。その血潮を、おなかの中にいた私も感じたに違いありません。なぜなら私も後に結婚して最初の子どもを宿したとき、飛行機を乗りついで世界中を飛び回っていたからです。

 私が生まれたとき、北京の屋敷には大きな長持で20棹にも達す亘豪奢な反物や珠玉の装身具など、中国の富豪たちからの高価な祝いの品が、次々と運び込まれたそうです。私はまるでお姫様のように扱われていたのです。

 ところが、生まれて45日目で盧溝橋事件が起こり、日中関係は不穏な雲行きに包まれました。中国から絶大な信頼を得ていた母は関東軍(日本軍)に必要とされ、私は母の手から引き離されました。預けられた先は、当時北京大学教授だった松村正之とその妻・ちかの家です。松村の屋敷では、朝、目を覚ますと必ず中国人医師がベッドヘ来て脈をとるという、何不自由ない、温室のような生活を送っていました。

****************


 ■『この国を支配・管理する者たち』中丸+菅沼光弘
   2006年2月28日 徳間書店


 第3章 ユダヤと皇室ー闇の権力の見えざる繋がり 

 ★皇統譜(p148-9)

 高松宮妃・喜久子様は、今生きていらっしゃれば94歳ですが、2005年の初めのころ、葬儀が出ました。あの方は徳川家からいらしていて、政(まつりごと)も含めて、そういう一切にはすごく詳しい。皇室の中には、宮内庁が持っている系統図のほかに、皇統譜というのがあるそうです。あることに関して、今の皇太子が喜久子様のところに行って、「中丸薫様とお会いすることについて」とお聞きしたときに、喜久子様のほうが皇太子に対して、「それはあなたが辞を低くして、正面から中丸薫様をお迎えする。そういう立場の方ですよ」といわれたそうです。

 それを皇太子がみずからだれかに伝えたという形で、私はお聞きしたのですが、その意味は、皇統譜にきちんと書いてある。例えば昭和天皇は、私たちは大正天皇の子供と思っていますが、そうではないのです。昭和天皇は明治天皇のお子なのです。彼を育てた人が、やはり明治天皇のお嬢様の1人、しのぶという人で、「しのぶ、この子はやがて天皇になる人だから、おまえが育てなさい」といって育てさせたというのを、私は家族から聞いています。でも、それは宮内庁の系統図には載っていない。

 そういう意味で、皇統譜というのがあって、その中に明治天皇、堀川辰吉郎、そして、私の名前が全部あるそうです。私は、5歳のときに中国から、山梨に帰ってきてから養父母の松村正之夫妻の籍に入っています。そこまでの籍は、私は皇統譜にあるそうです。それも最近聞いたことなのです。

 育ての父の何回忌かが甲府であって、親戚にみんな集まってもらったときに、私を預かるに当たって、7代前までの戸籍抄本を取り寄せてくれといわれた。日本人は普通2~3代前までがやっとで、7代前は大変です。私か大人になって、子供もいて、家族を持ってから、「そういうことがあったんですよ」といわれました。

   続く。


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