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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(34) 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(34)ー1   ◆落合莞爾

 ワンワールド薩摩派総長の錚々たる系譜と数々の歴史秘事

 『ニューリーダー』誌 10月号 発行:はあと出版株式会社


 ★本稿続編はいかなる発展を遂げてきたか


 本稿は本来、吉薗周蔵という無名の人物の残した「周蔵手記」の解読・分析から始まった。平成八年三月号から始まった前篇は時系列に洽って手記の逐条解読を試み、約一〇年続けたが、満洲国の建国と岸信介の渡満を以て一応締め括った。一年間の休載を経て再開した続編は、本月を以て第三十四回となるが、前篇と異なり「周蔵手記」記事の背後事実の追究を主たる方針とした処、次々に新たな事実を発見し、それらが相関し連鎖して、日本近代史の真相が当初は思いも掛けなかった広がりを見せてきた。
 事実の一つ一つは、世の常識人ならば眉を撃めそうな奇談・径説ばかりであるから、三十三回に亘る各稿の一、二を読まれた向きには、或いは私が陰謀史観で固まった偏執狂に映るであろう。しかしながら、本稿は確信犯的妄想による安易なものでは決してない。人一倍懐疑的を自認する私が、巷間僅かに散見する民間伝承を蒐集し、厳しい論理を以てこれを吟味し、その真実たるを確信し得るものを選抜し、因果律を当て嵌めた論証の過程が本稿続編である。個々の事実を断片的に観る限り俄かに信じ難いかも知れぬが、それらが明確な因果関係を以て繋がる時、ジグソウ・パズルの全貌が見えてくる。すなわち日本近代史の思いもよらぬ真相が明らかになってくるが、その涯がどこまで広がるのか、今は見当が付かぬ。その後新たに発見した事実や知見もあるので、今回は史実探究を小休止し、本稿続編を振り返って発展過程を整理してみたい。

 ★『元帥上原勇作伝』が隠した高島との関係


 本稿の続編は、大正元年から昭和初年まで二十年にわたり吉薗周蔵の直属上官として指令を下してきた上原勇作(元帥陸軍大将・子爵)の実像探求から始めた。周蔵に日誌を点けるよう命じたのも上原である。上原は薩摩閥の寵児として維新功臣たちから引き立てられ、陸軍内で順調に出世した。勇作後援団の中心は、自邸に寄留させて大学南校に通わせ、後に岳父となる野津道貫(元帥陸軍大将・侯爵)と見るのが当然で、荒木貞夫(陸軍大将・男爵)編集の『元帥上原勇作伝』もそのように記す。しかし「周蔵手記」に散見する上原勇作関連の記事から、真の勇作応援団長は野津の義兄高島鞆之助(陸軍中将・子爵)であったことは明白で、勇作の叔母吉薗ギンヅルと高島の幕末以来の関係によるものであった。野津は高島の依頼もあり、勇作の面倒を観て後に長女をも与えたのである。

 問題は、『元帥上原勇作伝』が上原と高島との関係を何故に隠したかである。大勢の名士を編集委員に並べ正伝の装いを凝らしながら、故意に世を偽る必要性は何処に在るのかを探ることこそ史家の使命だが、推理はさして難しくない。荒木には、自身のために上原を隠す必要があり、そのために高島を隠す必要があったと見れば、まず間違いないのである。そこで本稿は高島を洗うが、高島はさすがに己を隠すことに専心した痕がある。西郷・大久保・吉井の薩摩三傑の推薦により、宮中で侍従となった高島は明治天皇に近侍し、宮内小輔・吉井友実(宮内次官・伯爵)を支えて頭角を現すが、佐賀の乱に際して陸軍に移り大佐となり、西南戦争では別働隊の設置を提唱して自ら別働第一旅団長に就き、戦史に残る偉功を建てた。若くして将官に昇った高島は第四師団長として軍政手腕を謳われ、大山巌(元陸軍大将・公爵)の後継と決まって明治二十四年第一次松方内閣の陸相に就く。国家予算が乏しく世論も非戦主義に靡く中で、西郷従道(元帥海軍大将・侯爵)の跡継ぎとなった海相・樺山資紀(海軍大将・伯爵)と高島とで、陸軍軍政を掌握し、国際金融の秘事に携わる首相・松方正義(公爵)と三人して薩摩新三傑となり、以後の対清・対露策を総攬した。

 これに対し長州では、井上馨(侯爵)・伊藤博文(公爵)・山縣有朋(元帥陸軍大将・公爵)が新三傑となって、政体の表面を担当したわけである。

 陸軍の次期棟梁と目され日清戦準備で手腕を見せた高島が、歴史に残る選挙大干渉の責任を取って陸相を辞任、予備役に編入したのは政治上やむを得なかった。しかし陸軍の実質的首脳の高島が、日清開戦後も陸軍の要衝に就かず枢密顧問官の閑職に在ったのは一見不可解であるが、この意味は維新以来の高島の経歴を研究すれば幽かに浮かんでくる。

 そもそも戦争の帰趨を決するのは開戦に先立つ廟算である。戦争の火蓋が切られても維新以来の武臣が並みいる陸軍は高島の出馬を必要としなかった。東京政体の裏を秘かに押さえていた吉井友実が明治二十四年に逝去し吉井が行っていた秘事を引き継いだ高島は、その方面に尽力していたのである。明治二十五年八月陸相を辞した高島は、欧州出張から帰朝した児玉源太郎(陸軍大将・伯爵)に杉山茂丸を紹介するが、これは、高島の後の陸相に就いた大山の下で陸軍次官に就任する児玉に、陸軍ワンワールドの秘事を引き継いだと観て良い。杉山により在英ワンワールドの意向を知った児玉は、以後は山縣長州閥とは一線を画すことになる。

 ★これまた隠された吉井との関係とある国際的大秘事


 吉井の担当した秘事は国事を超絶する国際的大事で、明治維新の真相が潜んでいた。吉井は薩摩三傑の唯一の生き残りで、薩英戦争以来在英ワンワールドとの窓口で、その職務を全うせんがために維新後は卿・参議の顕官を敢えて避け宮中に潜んだのである。ワンワールド薩摩派の総長に就いた吉井の後継は早くから高島と決まり、吉井の次男友武(陸軍中将・子爵)が高島の養嗣子になった。「周蔵手記」には管見の及ぶ限り吉井の名を観ないが、京に数軒在った薩摩屋敷の総支配人格の吉井と、その一軒の女中頭であった周蔵の祖母ギンヅルが睨懇だったのは謂うまでもない。本稿が指摘する今日まで、巧妙に己を隠しきった吉井の秘事は、今後追究すべき課題であろう。

 日清戦後、新領土・台湾で土匪の蜂起が生ずるや、高島は直ちに現役に
復帰して台湾副総督となり、総督の海軍大将・樺山に代って南進軍を指揮し土匪掃討を果たした。日清戦争そのものは余人に任せても、海洋勢力の最重視する台湾関係だけは高島・樺山が直接手にする必要があったからである。凱旋した高島は初代拓殖務大臣として台湾政策の根本を立てつつ陸相を兼摂した。明治三十年九月高島は拓殖務相を辞めて陸相専任となり軍政中枢に戻ったかに見えたが、僅か四か月にして陸相の座を桂太郎(陸軍大将・公爵)に譲る。時に五十四歳の高島は、以後大正五年に逝去する迄十八年もの間、何をしていたのか世間に見せず、家政の困窮をひたすら天下に喧伝した。高島の落魂を世間は不思議がるが、三宅雪嶺のごときは「慢心と才能の枯渇」と切り捨てている。しかし、実際には軍部はおろか政界でも高島待望論は根強く、参謀総長・韓国統監・首相と、何度も最重要職に擬せられている。

 高島の股肱を以て任じた宇都宮太郎(陸軍大将)の日記が平成十九年刊行され、参謀本部員宇都宮少佐が明治三十三年に高島を参謀総長に就けるべく「起高作戦」と称して運動した様子が明らかになった。その中に「高島の意思を直接叩いた処、本人も満更ではない」と記すのは宇都宮の観測であって、高島の内心である保証はない。二年前の陸相辞任と予備役編入を桂太郎の策謀による高島排斥と謂う巷説も高島が世を謀ったもので、これに乗せられたところに宇都宮の限界があった。

 世界史的(地政学的)見地からすると真相は全く異なり、実はワンワールド薩摩派が桂と児玉源太郎を日露開戦論に取り込む代償として陸軍の主導権を長州派に譲り、高島自身は裏面に回って地政学的観点から台湾政策に当たったのである。その理由は、日清戦争の本質を洞察すれば理解も難しくない。松方内閣を督励して日清戦争に漕ぎつけた在英ワンワールド(海洋勢力)の真意は、遼東半島でなく台湾島の確保に在った。台湾経営の要所は樟脳・阿片・煙草・砂糖でいずれも重要物資であったが、ことに樟脳は当時の最先端兵器たる無煙火薬の原料として不可欠だったからである。

 高島が台湾総督府を乃木希典(陸車大将・伯爵)に任せたのは、西南戦争以来の知己で媒酌も高島夫妻が行った隠れ薩摩派だったからである。乃木が土匪討伐に窮して総督を辞めた後の総督府を児玉源太郎と後藤新平(伯爵)に任せた高島は、枢密顧問官の閑職を利し、上原勇作の叔母吉薗ギンヅルと薩摩の実業家・日高尚剛を使い、台湾の重要産業を間接的に支配した。目的は商業動機どころか、並みの国事を超えたワンワールド海洋戦略の実行にあった。在英ワンワールドからすれば、日本陸軍の軍政などよりも台湾政策の方が遥かに重要であったのだ。

 ★陸軍軍政より台湾政策 ワンワールドの戦略


 上の説はおそらく本稿を以て嚆矢とするであろうが、決して妄想ではない。根拠の一つは、巷間各書に見える杉山茂丸の言動である。玄洋社に拠る一介の浪人が、なぜに日清講和に□を挟み遼東半島割譲の不可を鳴らしたのか。なぜに杉山が、児玉の台湾経営策をすっかりお膳立てしたのか。杉山が非戦主義の長州派から桂と児玉を引き離し、日露開戦を目的とする秘密結社を作ったのはなぜか。それは、英露の世界史的対立たるグレート・ゲームの中に日本を置いて観て、初めて理解が可能となるのである。

 在英ワンワールドから合湾政策の総攬者に任じられた薩摩派総長の高島は、杉山を密使として児玉に台湾経営の要旨を教え、陸軍の対露戦準備を参謀総長川上操録六(陸軍大将・子爵)と陸軍大臣・桂太郎に任せた。その川上が三十二年五月に急死して、後任参謀総長の大山巌(元帥陸軍大将・公爵)が、ややもすれば長州派の非戦主義に引きずられて対露戦の戦機を逸するのを恐れた青年将校宇都宮少佐らが、大山から高島への参謀総長交代を謀ったのである。宇都宮の打診に対して色気を見せたのは高島のポーズに過ぎなかった。謀は密を要す。ワンワールドの戦略は極秘を本領とするから、高島も用心深く周囲をたばかり、股肱の宇都宮にも自らの秘事を語らなかった。

 右を観ただけでも、文献に頼る歴史研究は絶対にダメと分かるであろう。逆に言うと、各界名士の証言を集め正式な装いを凝らした偉人伝の真の目的は、深奥の秘事を伏せるために一般史家を誤解に導くことに在る。本稿続編は「周蔵手記」の断片から、から維新後の情勢を分析することにより、吉井友実↓高島鞆之助↓上原勇作のラインが薩摩派総長を継いできた事実を発見した。その淵源はイギリスの極東戦略に薩摩藩士が呼応したからで、英露の世界史的角逐たるグレート・ゲームの中で、英国を根拠とするワンワールド海洋勢力が、その戦略を薩摩閥を通じて日本国家に実行せしめた事も論証することができた。

 国内政治を秘かに牛耳り、非戦主義の長州閥を巧妙に操って二度の外征を敢行した薩摩閥は、国内事情しか念頭にない向きには野蛮で好戦的と映るかも知れないが、日本が海洋勢力の一端を担う以上、避け得べくもない選択であった。東征南下の野望を隠そうともしないロシアに日本が妥協していたならば、満洲はロシア領になり、朝鮮半島は保護国、北海道も日本領ではなかったのは必至で、それを理解しながらも、軍事・財政の不安から開戦を避けようとした長州閥の思考も首肯し得る。しかし、イギリスからの間接的な支援が加わると分かって、バランスが変わった。

 ★無視され続ける大物 杉山茂丸と堀川辰吉郎
  へ続く。 
 


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