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● 疑史 第61回 ★甘粕正彦夫妻のフランス留学
 ● 疑史 第61回 甘粕正彦夫妻のフランス留学
                    評論家・落合莞爾


 甘粕正彦が『周蔵手記』に登場する二十四回目の昭和三年六月条には、甘粕は名前だけだが、先月に述べた外にもう一度出てくる。張作霖爆殺を聞いた吉薗周蔵は、尊敬する貴志彌次郎に思いを馳せた。この春、上原元帥の命令を受けた周蔵は、甘粕を頭として藤田嗣治、若松安太郎の四人でアルザス、スイスまで行き、黒河砂金を回収して四月に帰国した。金塊は三十四貫(127.5キロ)もあったが、三貫を閣下の手元に残し、残りは周蔵を大連駅に迎えた貴志彌次郎と町野武馬に渡した。この金塊は張作霖支援に使うものと周蔵は推測したが、閣下は貴志をも関わらせたから、貴志もそう思った筈である。貴志の話では、一旦は満鉄に預け張作霖の資金となるのは七月かと言い、それまでの間は黒竜江省の各所に分けて隠した金塊の回収に歩くと言っていた。

 聞くところによると、貴志は陸軍人事を握った田中義一・宇垣一成のラインから、上原派ということで冷飯を食わされているらしい。ことに貴志は、張作霖とは無二の親友となっていたから、余計に田中から疎んじられたのではないかと思う。上原元帥が、股肱の臣である貴志を、何処まで守るのかも疑わしい。そう思ったのは、貴志に張作霖工作を命じた上原閣下が、今度の張作霖暗殺にも秘かに関与していることを感じていたからである。ここで周蔵は、尊敬していた貴志と甘粕正彦を比較している。「甘粕サンノ場合ハ、個人ガ性格キツク 閣下ノ裏ヲ握ッテヰル所多ク、マタ民間ニナッテシマハレタ以上、甘粕サンガ 告発ナンテ云ヒダシタリシタラ 大事デアラフカラ、存在ソノモノガ 強迫ノ意味ニモナラフ」。しかし「貴志サンハ 行動コソ勇シイガ、温和デアルカラ 損デアラフ。ソレニ予備役ト云ヘド 軍人デアルシ」。そのあと一行を付け加えた。「日本ハ 不遇ノ方向二 動クノデハアルマイカ」。周蔵は、張作霖爆殺の一事を以て日本の国運衰微を洞察したのである。何度も上原宅を訪ねて会えなかったが、読書を続けているとは聞いた。上原の日常に変化なしという証拠である。玄関番の宇都宮中尉に、自分の舌癌の事を伝えて欲しいと頼んだ周蔵は、これを理由に上原の草から手を引こうと考えた。

 二十五回目は昭和三年十月条で、ここにも甘粕が名前だけ出てくる。若松安太郎と会った周蔵は、淋しい話を聞く。アムール河の河口漁業からはとっくに手を引き、あとをロシア人がやっている。軍の仕事の時に備えて道筋を作っているから気にならないが、「張作霖ノコトモアリ、スッカリ時勢ノ変化二 純粋性ヲ感ヂナク ナラレタ由。軍ノコトカラハ手ヲ引カレヤフト 思ハレル由。歳ハ五十七二ナラレルトノコト」。周蔵は「実は自分も舌癌の痛みが酷いので、閣下には手を引かして貰うことを伝えた」というと、安太郎は「コレカラハ?」と聞いた。ここで甘粕の名が出る。「甘粕サンガ戻ラルルヲ待ッテ 考フルヤフニシヤフト云フト、又、個人ナラ手傅フヨト云ハル」。張作霖の暗殺が、永年上原の草を勤めてきた猛者たちに廃業を決意させたのは、彼らの上原に対する信頼が消滅したからである。明けて昭和四年三月条にも「國デ認メタル偉人ノ 策略汚レヲ目ニスルコト多イ」と記している。

 甘粕が『周蔵手記』に登場する二十六回目は、一年後の昭和四年十二月末条である。「甘粕サン日本二戻ラレズ 朝鮮二落チツカレル事トナル」とある。仮出獄して九か月後の昭和二年七月十三日に、甘粕夫妻は神戸港からフランスに向かい八月三十日にパリに到着する。以後一年半のフランス生活を今に伝えるものは、(巷間の甘粕伝奇によれば)『遠藤三郎日記』しかない。甘粕と同じ米沢出身で、陸士二級下(二十六期)の遠藤は、大正六年砲工学校高等科を優等で卒業、同十一年十一月に陸大三十四期を恩賜で卒業した。そもそも砲兵は陸軍内のワンワールド系兵科で、元締めは元帥上原勇作である。また遠藤と甘粕は同郷軍人として親交したから、二人の関係が、部分的にせよ甘粕の裏側にまで及んでいた可能性も否定できない。

 九歳から生涯にわたり日記を点けた遠藤は、大正十二年九月の関東大震災下で起こった亀戸・大島事件の見聞を記したことでも知られている。八月に砲兵大尉に進級した遠藤は、震災当時は第一師団麾下の野戦重砲兵第三旅団第一連隊第三中隊長で、任地は国府台であった。因みに第一師団長は上原股肱の石光真臣中将で、第三旅団長金子直少将も砲兵科で、上原系と観てよい。震災処理のため、九月五日第三旅団参謀に転じた遠藤大尉は、朝鮮人と支那人労働者を習志野の旧捕虜収容所習志野に収容する処置を行い、以後も外国人保護に力めたので、九月十二日ころ亀戸辺りで行方不明になった民国留学生・王希天を論ずる書に必ず登場する。王希天が逆井橋で第一連隊第六中隊付の垣内八洲夫中尉(三十一期)の一刀を浴びて片脚を失ったのは事実だが、その後は巷説と全く異なり、旧知の憲兵大尉甘粕正彦に救援されて生き延び、上高田の救命院に運ばれて吉薗周蔵に匿われた。王希天はその後百木、渡辺など日本姓を名乗り、千葉県の布佐で長寿を全うする。遠藤は十月に始まった大杉事件の公判にも出席しているが、震災下に甘粕が行った王希天の救援に、遠藤が関係したかどうかまでは分からない。戦後になり反戦反軍備の運動に挺身した遠藤は、革新派から反戦将軍と呼ばれて歓迎されたが、日本の国益からすると首を傾げざるを得ない。しかし、遠藤は大正十五年三月からフランス陸軍大学に留学しており、フランス仕込みのワンワールド思想家としてなら、その行為は筋が通っているのであろう。

 角田房子『甘粕大尉』によれば、昭和二年八月三十日パリに到着した甘粕は、早速澄田睞四郎を訪ねた。澄田は甘粕と陸士同期(二十四期)だが砲兵科で、大正十三年からフランス陸軍大学に留学し、卒業後もフランス駐在を命じられた。七月に砲兵少佐に進級し、十月に陸大教官に内定した澄田は、帰国前にフランス語を学びたいという甘粕のため、パリから百キロ離れたオルレアンに、下宿を探してやった。出国に当たって甘粕は半年分の滞在費を携行したとのことで、当時は金に困っている様子は見えなかったと澄田は回顧している。

 実はその二か月前の九月、上原元帥は周蔵に「今年暮レカラ来年ニカケテ、フランス・スイス二行ッテ貰イタカ」と命じた。任務の内容が金塊三十四貫の極秘運搬と聞き、驚いた周蔵が「甘粕サンニ依頼シテモ良イカ ト云フト、甘粕ニハ別ノ目ヲヤッテヲル。イヅレ合流トハ ナルデアラフガ」と言われたと『周蔵手記』に記す。☆つまり甘粕は、上原元帥の指令の下に、フランス留学を装いながら当地で何かの工作を行っていた。留学に夫人を連れて行くこと自体アリバイエ作と思われるが、九月ころオルレアンに移ったのも工作上の必要であろう。十一月に帰国する澄田砲兵少佐を見送った甘粕は、再びパリに戻るが理由は明らかでなく、やはり工作上での必要と観るしかない。佐野真一 『甘粕正彦・乱心の曠野』によれば、大正十五年三月からフランス陸大に留学中の砲兵大尉遠藤三郎が、甘粕夫妻と再会したのは昭和二年十一月十一日であった。オルレアンからパリに戻った甘柏は、遠藤大尉の世話でルーアンの下宿に移る。遠藤は十一月二十日にルーアンの下宿に甘粕夫妻を案内して交渉を纏めたが、実際の入居は三年一月から一年間であった。甘粕のルーアン移住も工作上で何らかの必要あっての事と観てよい。

 甘粕は二月十三日付で、弟・甘粕二郎宛の手紙で二千円を無心をしている。現価数百万円の大金で、理由は妻ミネの出産費用である。巷間に溢れる甘粕伝奇が、ルーアン時代の甘粕を、言語も通じず金もなく、ひたすら競馬に溺れた陰影な生活と主張する根拠は、甘粕が弟の二郎にしばしば無心をした手紙である。弟に無心していたことを知らなかった遠藤も、『遠藤三郎日記』に、甘粕に金を貸した事を記している。遠藤から九月二十六日に金十ポンド、同二十八日に金一千フランと借りた甘粕は、浪費の原因については競馬としか説明していない。手紙や日記の内容を虚偽とは言わないが、薄々承知でも深く考えず、偏されてやるも良しとするのが友愛(結社愛)ならば、二郎や遠藤がそれをしても不目然ではない。つまり遠藤は無意識にせよ、甘粕のアリバイ作りに協力した可能性がある。二郎については遠藤よりも更に一歩踏み込んでいると思うが、ここでは追究を省く。

 件の手紙や日記は、恰も罌粟(けし)栽培を広げるために地方を歩く周蔵のアリバイ作りを目的に、画学生・佐伯祐三が救命院の患者として周蔵の診療を受けたと装う創作『救命院日誌』と同じ効果がある。ともかく、甘粕は芝居のうまい男であった。澄田と遠藤のフランス陸大への派遣も当然上原人事だから、甘粕の工作には澄田と遠藤が関わっていた可能性もなくはない。遠藤については前述したが、澄田ははっきり、ワンワールド結社員であったと観てよい。昭和七年にリットン調査団の随員を務めた澄田中佐は、八年六月からフランス駐在武官、十年九月から陸大教官となり、昭和十三年少将に進級、十五年九月には大本営陸海軍部幕僚として仏印国境監視委員長(澄田機関)に就き、日本軍の仏印進駐に携わった。仏印進駐の後は中央から遠ざけられ、三十九師団長、第一軍司令官となるのを東条の逆鱗に触れたものと解釈されているが真相は不明で、たとい東条と不仲になったとしても、東条を動かしていた甘粕とは同志の関係を維持していたと観るべきである。長男の短期現役海軍主計中尉・澄田智も仏語に堪能として澄田機関に派遣、国策の次元を超えた仏印工作に従事したと観られている。後に日銀総裁になるが、父子ともに在仏ワンワールドとの関係が濃厚である。

 一月二十八日にパリに着いた周蔵は、上原から費用として三万円(現価一億円以上)を預かっていたのは前述の通りで、この資金は半分を甘粕が取り、残りを周蔵と藤田嗣治、若松安太郎で分けた。配分割合は上原も承知というより、甘粕を金塊回収班の頭に就けた上原自身の指示であろう。周蔵は渡仏の名目たる佐伯祐三陣中見舞を済ませた後、ポール・クレーの絵をスイスに観に行くことを装って、藤田嗣治とベルンに向かう。ベルンの町外れの小さな教会に着いたら、近くの路上に安太郎が甘粕と一緒に立っていた。これが甘粕との再会で、時期は二月上旬である。一万五千円の大金はこの時に甘粕に渡った筈である。何に使ったか。むろん競馬などの小博打ではなく、もっと大きな博打、すなわち上原元帥の指示によりワンワールド的工作に費やしたものであろう。

 遠藤三郎が再びルーアンに行き、甘粕の下宿を訪問したのは三月十一日で、甘粕が周蔵から活動費一万五千円を受け取ってから、一ヵ月後のことである。『遠藤三郎日記』の内容は信じて良いが、その意味については深く吟味する必要がある。私の仮説では、遠藤はもとより、澄田もワンワールド同志として甘粕を支援していた。

    続く
                      
 

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