カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー1
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー1
                     ドキュメント真贋 金らん手_1
 
                       金襴手(明代嘉靖年製)
                       『ドキュメント真贋』より。



 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー1      ◆落合莞爾
  紀州家、大谷光瑞、関東軍・・・奉天秘宝模造計画とその行方


 ★模造品で裏金を・・・関東軍の勝手な介入 


 愛親覚羅氏は、堀川辰吉郎と満洲保全策を協議した結課、奉天督軍兼省長に就いた張作霖の自立を支援して、満洲(東三省)を間接占有する方針を固めた。そこで愛親覚羅氏は初めて奉天秘宝の存在を辰吉郎に明かし、これを換金して張作霖に与えることを提案したものと思われる。当時、日本の張作霖に対する窓口は、軍事外交方面は関東都督府(大正八年四月から関東軍に変更)参謀部であったが、参謀本部は顧問軍人を差遣していわゆる〔内面指導〕に当たらせていた。張作霖政権との行政的折衝は、実質的に行政機関であった南満洲鉄道奉天公所が当たり、公使館のごとき役割を担った。明治四十年に初代公所長に就いた佐藤安之助少佐は、夏目漱石『満韓ところどころ』にも出てくる支那通の現役軍人であった。佐藤は四十三年から一年間欧州に出張、その間中佐に進級して四十四年十一月に帰国した。一年後の大正二年十二月には奉天に復任、関東都督府司令部附兼満鉄附に補せられて四年九月まで在任した。

 満鉄に深く関わった佐藤よりも、満鉄奉天公所の主として更に有名なのが次長・鎌田彌助で、菊池寛の『満鉄物語』にも登場する奉天の名物男だが、実体は上原が満鉄に張っていた草であった。『周蔵手記』には、周蔵がウィーンから帰朝した直後の大正六年六月、上原勇作大将の大森宅で紹介された鎌田を、重要民間人でかなり閣下の信用を得ているとの観察の後に「満鉄関係二席ヲ置イテヰルラシイ。タマニ來テヰル?」と記している。

 大正七年七月、関東都督府参謀長に就いた浜面又助少将は、上田が奉天秘宝倣造計画を進めているのを知り、倣造品を利用して関東軍の裏金を作ろうと考えた。上田と相談して私益を図ったと聞かされた周蔵はそう信じていたが、それでは満鉄の協力は得られない。少なくとも大義名分が必須で、上田は光端師の指令、浜面は宗社党救済がそれであろう。ともかく上田と浜面の倣造計画は、九年の春に陸軍中央の諒解を得たが、五月に奉天特務機関長に就いた貴志彌次郎はそれを、「東京ハ現地ヲ知ラナイカラ、浜面ノ話ヲ ウマイ話ト思ッタノデハナイカ」と推察している。上田と浜面が合議して作った倣造案は、所有者(受託者)の張作霖に断ることなく、また買手候補の紀州家の都合をも無視した全く勝手な計画であった。それを陸軍が認めたのは、奉天秘宝が単なる美術品でなく重要な戦略物資だったからである。何しろその予想市場価格は、張政権が当時保有した純資産額の百万両(テール、白雲荘主人『張作霖』による)を数倍も上回るものであった。

 ★吉薗周蔵の真贋分別法 『奉天圖経』が示す価値


 辛亥革命の後、明治四十五年四月に関東都督に就いた福島安正中将は、松本藩士ながら陸軍長州派に属していた。自ら粛親王に推薦した同藩士の川島浪速が、高山公通(鹿児島)大佐、守田利遠大佐(福岡)らの九州軍人たちと謀って懸命に支援した宗社党の清朝復興運動に対して、冷淡であったことは前述した。これは福島の国際感覚によるもので、民国への内政干渉を避けたのであろう。福島が大正三年九月に関東都督を辞め、中村覚中将に後を譲った後、陸軍の満洲政策は二派に分かれた。関東都督府に拠った旅順派は、関東軍参謀長・浜面又助を始め、宗社党と組んで満蒙の地に新たな清国を建てようとしていた。四年十二月に陸軍参謀長に就いた上原勇作大将は、満蒙政策に関して奉天派に属した。張作霖が嫌がる倣造工作に内心反対であったが、表立って反対しなかった理由は、上田の背後にいる大谷光瑞師を慮ったものであろう。

 浜面案が認可された直後の五月、上原総長は腹心貴志彌次郎を奉天特務機関長に補し、張作霖との懇親および秘宝の換金工作を命じ、貴志支援のために専属特務・吉薗周蔵を奉天に派遣した。周蔵の出発に際して上原が、「オ前ンハ 正義ノ型ヲ示シテ來レバ 良カ」と訓示したのは、要するに「倣造は正義に背くと叫んでこい」との意味である。

 果たせるかな奉天に赴任した貴志は、満鉄窯の試作品を見てその出来映え驚き、将来これらが真贋問題を起して購入者の迷惑となる虞れを覚えた。貴志が任務を嘆いたのは、売却相手が紀州徳川家だったからである。生家が紀州藩根来者ゆえにこの任務を負わされた貴志は、旧主家に迷惑を掛ける結果だけは避けたかった。真贋の判定に役立つのは写真撮影であるが、その写真はまた倣造にも利用される。秘宝の売上金を貰う都合で秘宝の形式的所有者になった張作霖は、内心では倣造工作を嫌い、写真撮影に協力しなかったという。

 貴志の立場に同情した周蔵は、熟考の上真贋を容易に判別する方法を案出した。その実行には占有者の協力が不可欠であったので、貴志を通じて張作霖に具申した処、作霖は大いに喜び、張氏師府内の保管室に机を運びこむなど、いろいろ便宜を図ってくれた。貴志少将と特務機関付の二等兵・森薫の助力で、周蔵は、貴志が日本に運ぶと決めた古陶磁について必要な作業をほぼ完了した。

 周蔵の真贋分別法とは、秘宝の一品一品につき、各部の実寸を記録し、文様の一部を薄紙に写しとって『奉天圖経』を作成することであった。今に残る『奉天圖経』を見ると、世界各地の美術館が現在展観する重要古陶磁の殆どは奉天秘宝から出たことが分かる。『周蔵手記』には、紀州家に一旦納まって間もなく財務顧問・上田貞次郎の手によって、秘宝が少しづつ流出したことを記す。今日、世界に散在する古陶磁の傑作は、ほとんどが流出品と照応するが、ともかくも、日本からの流出により、今日の世界は、支那古陶磁の名品を眼にし得ているのである。

 ★大谷光瑞ファンドが介在? 幻の超特級品とその行方

 奉天秘宝はそもそも成立の事情に始まり、→奉天城内に隠匿、→日本への渡来、→業者により内外に流出した過程がすべて秘密に包まれてきたところに、特殊性がある。したがって、各国の陶磁学者は、各美術館の所蔵品を個別に研究対象とするだけで、それらが嘗て同じ宝庫に、一団として存在した史実に気が付いていない。それはやむを得ないが、日本の陶磁学者らが秘宝の存在を薄々知りながら、別の理由から口を閉ざしてきたのは、到底学者の風上に置けない行状である。

 ところで、今日世界の各地で展観され、陶磁愛好家を唸らせている逸品も、『奉天圖経』の中に在っては、特級品の名に値するのはごく数点である。つまり、世界に知られた名陶磁器は良くても一級品のレベルである。超特級品と呼ぶべきものは、幻の「紅定窯」「緑定窯」を筆頭に、元代明初の「青花釉裏紅」、あるいは明代嘉靖年製の「五彩金襴手」などであり、そのうち数十点は近年まで紀州家の周辺に残っていたし、今もその所在は確認できる。しかしそれ以外の数十点は、世界の有名美術館の蔵品中にも全く見えない。滅失したとは思いたくないから個人所蔵と見るしかないが、一体誰の元へ消えたのか。

 手掛かりは、当持の購入資金が紀州家だけでは足りず、大谷光瑞師の基金に仰いだという事情にある。つまり奉天秘宝は、日本流来の直後に二手に別れ、一部が紀州家に入り、残りは光瑞師のファンドに渡ったのではないか。もしそうならば、世界各美術館の蔵品も、全部が紀州家から流出したものではなく、光瑞ファンドが一旦取得して、資金回収のために放出した品も多いことになる。『周蔵手記』には、上田貞次郎は、紀州家での茶会の折に拝見を願い、小さな物を選び秘かに持ち出した」とある。ところが内外に流出した品の中には、例えば至正様式で有名になったデヴィッド瓶などの巨大な品がある。これなど、とても秘かに持ち出せる代物ではないから、或いは大谷ファンドを経由して流出したものかも知れない。

  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(33)ー2 へ<続く>。
   

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大正野球娘

大正野球娘の最新動画や評価レビュー、攻略情報なら「大正野球娘」へ! 大正野球娘【2009/09/07 03:55】



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