カウンター 読書日記 ●疑史 第60回 ★甘粕サンヲラズ、話セル人ハナシ 
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●疑史 第60回 ★甘粕サンヲラズ、話セル人ハナシ 
 ●疑史 第60回     評論家・落合莞爾

 ★甘粕サンヲラズ、話セル人ハナシ


 『周蔵手記』昭和三年六月条は、名前だけだが甘粕が登場する二十四回目である。六月中に張作霖死亡を聞いた吉薗周蔵は、「一体ダフナッテ ヰルノデアラフカ。誰カニ聞キタイガ 甘粕サンヲラズ 話セル人ハナシ。閣下二会イ二行カフト思ッタ。行ッテミタガ 腰巾着ノ宇都宮シカヲラズ、ダメ」と記した。この春、フランスからスイスに掛けて一緒に金塊回収工作をした甘粕はまだフランスに居るから、こんな場合に教わる相手がいない。そこで上原元帥を直接訪ねたが、腰巾着の宇都宮直賢中尉しかおらず、役に立たない。実行者は関東軍の河本でむろん首相・田中義一は知っていたと云う宇都宮に、「上原閣下は?」と問うと、「バカヲ云フナ。閣下ガ知ッテヰレバ、張作霖ハ死ヌ訳ガナイダラフ」とのたまう。確かに表向きはそうである。しかし宇都宮はそのように言わされている、と周蔵は推察した。宇都宮は閣下の表帳簿で、閣下が一声怒って見せれば、その通りを世間に伝えるだけの役割である。閣下は田中義一を許せないと言い「何ダッタラ 陛下二言上スルモヤブサカデハナイ」と怒ったが、がっかりもされておるとの事であった。「心配スルナ。閣下ハ ソノ位デハ ヘタバラナイ。大丈夫ダ」との言を子供だましと見抜いた周蔵は、「勿論 ソノ位デハ ヘタバランダラフト思ユ。結局 コレデ一番困ルノハ 田中義一デハアルマイカ」と記した。自分なりに推理を始めたのである。

 前年(昭和二年)秋に、張作霖始末の計画を中野正剛の愛人・多喜から聞いた周蔵は、情報源を隠して一応「張作霖始末の噂あり」とだけ上原元帥に届けておいた。新宿大黒座の横丁、通称歌舞伎町の私娼窟の主人から情報を得ていた周蔵は、中野正剛の愛人が病気のために捨てられ私娼に身を落とした事を知り、直ちに身請けして奥多摩の寺に住まわせ、養生させた。一旦捨てて置きながら、病気を治した多喜が身仕舞いを整えて眼前に現れたら、中野は忽ち「焼け棒杭に火」を着けた。多喜の立場を、周蔵夫人の巻が経営する水産物屋に勤める形にしたから、中野は余計に気が楽で、見事に引っ掛かったのである。しかし周蔵は半信半疑で、私娼窟崩れの女だし、いずれ裏切るだろうと思っていたが、事実は多喜の言った通りとなった。

 「関東軍ガヤル。関東軍ノ中ニ ヤル人間ガ誰カトナルト 河本ダト云ッタ」との言を思い出しながら、周蔵は思考を巡らす。何故、中野がそれを女に言ったのか。中野がそれを知っているからで、それは上原閣下も知っているということになる。「女ノ云フニハ田中義一ハ蒋介石ト 交替条件ニテ決メタト云フ。張作霖ガヲラナクナレバ、満洲ヲ思フママニサセル ト云フコトダラフ」。

 田中義一と蒋介石が張作霖暗殺を取り決めたが、交替条件(交換条件)があった。蒋介石は、北伐完成を目前にしながら、最大の障害たる奉天軍閥・張作霖を自力で排除する自信がなく、日本陸軍に張作霖の始末を打診したというのは理屈に会う。むろん無条件ではなく交換条件を出した筈で、それは田中首相が最も欲しがるものでなくてはならず、「張が居なくなったなら、満洲は当分日本が自由にしてくれて良い」との言質を与えたことは、吉薗周蔵でなくとも見当が付く。

 昭和二年八月十二日に国民革命軍総司令の職を辞した蒋介石は、日本留学以来の腹心・張群と二人でしばらく故郷の浙江省奉化で静養していたが、九月二十二日に上海に向かう。船上で蒋介石から「これから視察のために外遊する。まず日本に向かう」と告げられた張群は、上海から一足先に日本に渡り、田中義一との会談の下準備をした。九月二十八日に乗船した蒋介石は、二十九日の昼に長崎に着き、雲仙を経て、汽車で神戸に着いたのは十月三日であった。同行した国民政府財政部長(財務大臣)・宋子文は、蒋の財務スポンサーである。蒋介石が宋子文を伴い訪れた有馬温泉には、宋子文の実母・睨桂珍が療養のため逗留していた。睨に会い三女・宋美齢との結婚の承諾を求めるのが、蒋来日の表目的であった。筋書通り睨の快諾を得た蒋は、このあと奈艮、箱根、熱海を経て十月二十三日に帝国ホテルに入る。東京では玄洋社の頭山満、黒龍会の内田良平、財界巨頭渋沢栄一、満鉄総裁山本条太郎ら旧知の人物と会い、外務省の招宴も受けたが、訪日の最大目的は田中首相との私的会談であったことを、『蒋介石秘録』は明かしている。会談は昭和二(一九二七)年十一月五日午後一時半に始まった。場所は青山の田中義一私邸で、田中首相の通訳として予備役陸軍少将・佐藤安之助、蒋介石には張群が就き、会談は四人で行われた。時に蒋介石は四十歳、田中は六十四歳であった。

 訪日に先立ち、蒋が張群と宋子文を日本に飛ばしたのは前捌きのためである。訪日後も温泉場に長滞在し、東京でも玄洋社の頭山満、黒龍会の内田良平、財界巨頭の渋沢栄一、満鉄総裁山本条太郎ら満洲関係の要人と会いながら日を送ったのは、前捌きの進捗を待っていたわけである。すべてが整い十一月五日に行われた田中・蒋の青山会談で、交換条件付の張作霖暗殺契約が交わされたと見るしかない。同席した張群と佐藤安之助は単なる通訳ではなく、一種の会談保証人と見るべきである。その席で佐藤が筆記した会談記録に、張作霖排除依頼や満洲貸与の予約などは、当然ながら明記していないが、どう観てもそのように読める文面に満ちている。以前このことを『新潮45』に発表したら、某元大使が「自分もその会談記録を目にしたが、あれはそのようには読めない」と語ったと聞くが、それならどう読めるというのか。

 佐藤が筆記した青山会談の記録は、十一月十四日付で外務次官・出淵勝次から在支那公使及び在上海・在漢口・在奉天の総領事に宛てて写本が送付された。原記録中の「公使」を「外交官」と修正するように首相から注意されたと佐藤がメモしたほどで、田中は細かく目を通している。他方、中華民國総統府(台湾)に保存されている記録は張群作成になるもので、之れを基にした『蒋介石秘録』には蒋介石は田中に催促されて自分が先ず意見を言ったとするが、事実に反している。これ以外にも佐藤筆記録とは、内容がかなり異なっている。

 蒋が述べた意見とは「第一に日本の対華関係の改善が必要で、腐敗した軍閥(注:具体的には張作霖)を相手にせず国民党を相手にすべきである。第二に国民革命軍は今後絶えず北伐を継続し、統一事業を完成させるであろうが、日本政府はこれに干渉を加えず助力(注・具体的には張作霖の始末)して欲しい。第三に日本の対華政策は武力を放棄し、経済を大本とすることがどうしても必要である」というもので、後年になり「北伐に不干渉を求めたもの」と釈明するが、注記の通りに読む方が合理的である。蒋が「今回の訪日の目的は両国の政策について閣下と意見を交換し、何らかの結論を得るためである」と田中の意見を求めたら、田中は「北伐は目標を南京において長江以南の統一を旨とすべきと思うに、なぜそうしないのか」と問うてきたので、「革命の目標は全国の統一にあり、もし統一できなければ東亜の安定はなく、中国の大禍であるばかりか日本の福でもない」と答えた。ここで「革命の目標は全国の統一にあると言った時、田中はさっと顔色を変えた。中国分断の野心を抱いていた田中は統一を言明されて不快を露にしたのである」とまで潤色した所に、『蒋介石秘録』の文学性つまり舞文曲筆が露呈している。

 佐藤筆記録の内容は『蒋介石秘録』とはかなり異なるが、より真実に近いのは当然である。なぜなら、『蒋介石秘録』で蒋が述べたとする革命理論・国家統一論は単なる理想論であって、当時の現実に即応せず、実行性は皆無である。こんな書生論を吹き掛けるために、わざわざ一国の総理に会いに来たと言っても誰も信じまい。これに対して佐藤筆記録は、田中が細かく眼を通した上で外交的判断に資するため関係公使と総領事だけに宛てた文書で、当初は極秘扱いであった。現在外務省編集・原書房発行の『日本外交年表並びに主要文章』に収録されているのは予定外で、当初は発表を全く予定していない。しかも会談の九日後に送付されており、政治的都合に合わせて書き換えたことも絶対にあり得ない。双方の発言内容には政治的な作意・虚偽があったとしても、それをそのまま記録するのが筆記録の性質上当然である。合意の上で一部をオフ・レコにすることはあり得るが、そこを省くとしても、会談内容そのものを変改したのでは筆記録作成の意味がない。つまり後年になって公刊した『蒋介石秘録』の内容で佐藤筆記録と異なる部分は、蒋介石の都合で作られた虚偽たることは明らかである。皮肉にも、蒋がわざわざ事実を偽った心底からして、青山会談の内容には蒋にとって都合の悪い事実があったことが透けて見える。それは何だったか。言うまでもあるまい。

 当初はジャブを応酬していた青山会談は、半ばから本題に入った。蒋が来日目的を「田中閣下に自分の胸中(実は提案)を述べて、閣下の教え(実は答え)を聞くことにある」と説明したのは、会談を装うが、実質的には外交交渉であるとの意味である。蒋は日本の利権について理解を示しつつ、それには革命成就に協力するのが交換条件、と持ち出した。革命の成就とは軍閥一掃を意味する。蓋し孫文革命は、清朝打倒という民族主義的目的は達成したが、逆に封建的軍閥の発生を招いたため、政体の近代化には失敗した。軍閥の一掃により政体を近代化せねば国民革命は成就せず、政体を近代化して初めて日本と利害が共通するのだから、革命の達成=軍閥の掃討を日本が支援して欲しい。これが蒋の真意であった。軍閥の掃討には当然武力が必要だから、前掲の蒋介石発言のうち第三「日本の対華政策は武力を放棄し、経済を大本とすることが必要である」は丸で正反対である。このあと話がより具体的になり「支那人民が排日を叫ぶのは、彼らが嫌う軍閥(張作霖)と日本が組んでいると、誤解しているからである。だから日本がわれわれ革命側を助けて革命を早く完成させれば、国民の誤解は一掃されるだろう」と言いだしたのは、「軍閥」と婉曲に呼んできたのは具体的には張作霖のことだと明らかにし、「張作霖掃討を支援されたし」と要請したわけである。航空戦力が発達していない時代のことで、軍艦で渤海を越したとしても、蒋介石軍には張作霖の掃討はできない。「われわれを助けて革命を早く完成させれば」とは、事実上「お宅の方で張作霖を処分してくれれば」を意味し、「そうなれば、満蒙問題も解決しますよ」と明言した。これが田中に対する蒋の申し出で、青山会談の焦点であった。満蒙問題が対ソ緩衝地帯の確保だとは誰でも知っている。それが解決するとは、当分の間、満洲を租借の形でも日本の自由にさせる、との意味しかない。むろん田中はそのように受け取り、根回しの通りと確信したから、語調を変えた。「日本は張作霖に対して一切の援助をしていない。満洲の治安維持だけに関心がある。安心ありたし」と断言したのは蒋に対する答で、「オラの方は張作霖を切ってもええで。安心してや」との意味であった (続く)。
                    
 

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