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●匠秀夫遺稿刊行によせて  河北倫明
 ●『「佐伯祐三」真贋事件の真実』― p380 に河北倫明に関して次のような記述もある。(*再録)

 **************

 4 河北は知っていた

 匠秀夫の「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」に河北倫明の序文がある。その末尾を掲げる。

 「・・すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受け取っている。匠さんのこの本が、この異風の人物にも一定の照明をあてる機会を作って下さったことを、喜ばずにはいられない・・」

 吉薗明子は河北と知り合って以来、次のような話を何度も聞かされたが、ついにその意味が分からなかった。「まあ、焼物なんかは、ぼくは芸術と認めていないから、あれでも良かったんだが・・・絵画は芸術だからねえ・・・とにかく佐伯なんかどうでもいい。ぼくは佐伯なんて大嫌いだよ。・・・それより周蔵だ、吉薗周蔵のことが分かれば、すべてはっきりするんだ。とにかく周蔵を調べろ」

 明子はそれを、河北が「嫌いな佐伯だが、無理に応援してやっているんだ」という恩着せと理解し、そのたびに何かと御機嫌をとった。それにしても、河北がいつも焼物のことだけを持ち出すのが、不可解だった。

 実は、河北は最初から吉薗周蔵について知っていた。

 それは佐藤雅彦を通じたものだった。佐藤雅彦は父の進三が京都の出身で、自身も京都住まいが長かった。河北が京都国立博物館長を勤めていた永い間を通じ官舎には入らず、高級和風旅館の柊屋を常宿にしていた。佐藤は美術館行政のボス河北の知遇を得、京都でさらに昵懇の間柄となり、その政治力を活用しながら、茶道関係とも深い関係を持ち、真倣ともどもに陶磁を動かしていた。その中には奉天古陶磁(ホンモノ)も、かなり多かったのではないか。

 古美術の談義は、来歴から始まる。佐藤は紀州古陶磁を河北に説明するに際し、関係者として吉薗周蔵の実名をあげ、小森忍から聞いた話を詳しく伝えた。河北が吉薗明子が周蔵の遺児と知ったとき、何とも不思議な態度を見せた鍵は、ここにあった。 ・・・以下略・・・

 ****************

 この「・・・実は、・・最初から吉薗周蔵について知っていた・・」河北倫明の「序文」を以下に紹介しておこう。

 ●匠秀夫遺稿刊行によせて  河北倫明 (『未完 佐伯祐三の「巴里日記」』より)

 このたび刊行される『未完 佐伯祐三の「巴里曰記」』は、編集者の言によれば、末期ガンと戦いながら「はいつくばり、とりつかれたように筆を走らせていた」という匠秀夫さんの痛ましいとも思われる遺稿である。匠さんは、私どものもっとも信頼する近代曰本美術の研究家であり、また初代の茨城県近代美術館長として活動された美術界の重要人物でもあった。匠さんが亡くなったのは、平成六年九月十四曰午後0時10分、東京お茶の水の順天堂病院においてである。

 その少し前の七月の頃であったか、いま執筆中の本が出るときには、ぜひ一筆序文を書いて欲しいという匠さんからの伝言を私は受けた。匠さんの仕事なら喜んで書きましょうというのがその時の私の答えであった。それには一つの理由がある。私事にわたるから引用するのが少し面映ゆいが、匠さんの力作の一つ『三岸好太郎』のあとがきの中に次のような一節がある。

 「戦後、ある時、河北倫明氏の『青木繁-生涯と芸術』を読んで、著者が天才青木の人と芸術を精査、論考しているのに感嘆するとともに―こうした性格の著書は未だに日本の近代洋画史の領域で多いとはいえない―河北氏が未見の中学先輩-青木の実像を日本の近代美術史の中に定着させようとした努カヘの感動が、その時以来私の心に深く刻みこまれたものと思われる。」

 これと同じような内容の私信を、戦後のある時、じかに北海道の匠さんから受けとった記憶もあるが、以来、次々と拝見する匠さんの優れた仕事について私は常に共感を持って接してきたことを忘れない。その匠さんは、一九九三年七月食道ガンを手術、一時小康を得て退院したものの、九四年五月には再人院し、それ以後の執筆中に先の伝言を受けたのである。もうあとがないという依頼だなというある予感が私の胸中を走ったことは事実である。

 論語の中に、次のような言葉があることをかねがね私は頭にとどめていた。すなわち「鳥の将に死なんとするときは、其の鳴くや哀し、人の将に死なんとするときは、其の言うや善し」。

 死を前にした鳥の鳴き声はかなしいし、また死に臨んだ人間のことばは真実なものだといったような意味であろうが、私はこの言葉の中に生命あるものが本来そなえた厳粛な真実が含まれることを感じないわけにはいかない。そして、匠さんの依頼の言葉も、さらにまた瀕死のからだで書きつづけたこの未完の遺稿そのものも、まさにこの「人之将死、其言也善」の気配と内容のこもったものとして、厳粛に受けとめずにはいられなかったのである。

 この遺稿本文の内容については、じかに読者諸賢が汲みとられるところであろうから、余計な口をさしはさむ必要はないが、匠さんが念頭においていたのは、佐伯祐三という短命な画家の生涯が初めから終りまで数多くの謎につつまれているその謎解きのための、研究者としての真摯な挑戦であったと見るべきである。未完とはいえ、この『佐伯祐三の「巴里日記」および吉薗周蔵宛書簡』をまとめた遺稿は、その解決のためへの手がかりを示唆するものとして大へん貴重といわなければならない。そして、その点こそが匠さんが最後の情熱を振りしぼって立ち向かった理由だったろうし、またこの書の無類の魅力と価値も同じようにこの点に関わって
くるであろう。

 私の簡単な序文らしいものは以上で終ってしまうことになるが、ひとことだけ感想をつけ加えておきたい。それは佐伯祐三から<ヤブ>と親しまれ、<イシ>と頼られた相手である吉薗周蔵その人のことである。ことに『巴里日記』の最後には、切ない独白のことばで、

 やるだけはやった
 その事 医師ハ分ってくれるやろ
 有りがとうございました

 という深沈とした印象的な語句が記されている。その当の相手であった吉薗周蔵という人物について、私どもは近頃まであまりに知らなすぎた。たまたま先年、吉薗明子氏の「自由と画布」の冊子が出るに及んで、実は周蔵その人の肖像画に私どもはすでに公開の場で接していたことに驚いたのである。

 一九六八年十月、東京セントラル美術館でひらかれた「佐伯祐三展」に、中折帽子をかぶった異風の肖像画があったことはかすかに覚えていたが、そのとき「エトランジェ」と題されていたあの像こそが、当の吉薗周蔵の姿だったのである。「自由と画布」によれば、そのときの周蔵のパリ滞在は一九二八年の二、三月というから、祐三のモラン旅行の前後のことになるのであろう。私なども、セントラルの展覧会に多少の協力をしていながら、「エトランジェ」という題名にも、一九二六年ころという年代推定にもあまり不審を抱かなかったことについて、いま不明を詫びるほか仕方がない。

 しかし、別方(ママ)からみれば、これはある時期までは、佐伯に関する遺作遺品の公表を避けること、そしてある時期が来たら、それを世に公表して欲しいとの遺言を残して死んだ吉薗周蔵自身の意志がそのまま守られていた結果というべきである。その意味では、匠さんが感じていた多くの謎を含む佐伯芸術の研究は、その時点ではまだ機が熟していなかったとするのが正しいであろう。

 最後に、率直な私見を許していただくならば、私は吉薗周蔵という人物こそ、佐伯芸術をこの世に存立させるための基盤を作った近代特異の精神科医の草分けであったといえるように思っている。いうならば、祐三は周蔵のある意味での作物でもあるかのような趣きさえ付きまとっている。それまでの古い日本が社会的に無視してきた精神医学の先駆者として、周蔵は在地豪族の家産や資力をみごとに蕩尽しながら、佐伯祐三というユニークな芸術的個性の社会における存立を企図してやまなかった。すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人・西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受けとっている。匠さんのこの本が、この異風の人物に一定の照明をあてる機会を作って下さったことを喜ばずにはいられない。
                                (美術評論家・文化功労者)

 *************** 

 〔註〕 1995年3月頃の執筆である。


 因みに、この「巴里日記」の来歴は以下の通り。

 吉薗周蔵は昭和39年に死亡したが、そのことを知らない米子は折から沸騰する〔佐伯ブーム〕の中ブームの仕掛け人たる画商から佐伯作品の供給を強く求められた。

 その当時(昭和40・41年)の<米子→周蔵>書簡で「残っている絵をいただきたいのです・・」と書いた。

 米子は返信で周蔵の死を知り、次に「周蔵の形見として、佐伯祐三がパリで描いた<周蔵の肖像画>と、佐伯が周蔵宛てにつけていた『黒い革表紙の日記』をもらいたい」と懇願する。

 この『黒い革表紙の日記』が匠著により紹介された↑の『巴里日記』である。

 また、この<周蔵の肖像画>=『エトランジェ』 で、これは匠著のP296に「複写」として載っているとおり、1968年の東京セントラル美術館で開催された「佐伯祐三展」に出品された。

               
 

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