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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(31)ー1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(31)ー1
 二次にわたる満蒙独立運動に携わった群雄たち ◆落合莞爾


 ★満洲国構想の魁を成す「宗社党」結成さる 


 北清事変(明治三十三年)から辛亥革命(同四十四年)にかけて、清朝皇室内の有力者は立憲君主制を主張していた粛親王であった。北清事変の臨時派遣隊司令官だった福島安正少将が、同郷の陸軍通訳・川島浪速の器量を見込んで粛親王に紹介したところ、たちまち招聘された川島は粛親王と義兄弟の盟を結び、北京警務学堂を創設し、学長に相当する総教習に就いた。その地位は五年後の三十九年八月に町野武馬大尉が引き継ぐ。

 粛親王は辛亥革命に際して宣統帝(愛親覚羅溥儀、遜帝とも呼ばれる)の退位に反対したが、退位はもはや避けられない情勢で、溥儀が退位して中華本部(プロパーチャイナ)を漢族支配に戻した場合、愛親覚羅氏は女真族の故地満洲に還るのが自然である。ところが満洲の地には清朝多年の無為から政治的・軍事的空白が生じ、主として漢族から成る流民・馬賊・革命党が入り混じる混沌の地と化して、清帝の権威も通じる術もなく、狩猟・遊牧を事として農業に馴染まぬ女真族・蒙古族は、土地を占領した漢族農民に対し、経済的に屈伏する他なかった。清朝遺臣が最も危惧したのは、漢族主体の革命政権が満漢癒合の旧清国領土を引き続き領有することであった。そこで粛親王と川島が建てたのは旧清領から満洲を切り離して日本の保護国とすることで、後の満洲国構想の魁を成すものである。因みに、旧清国領土の外蒙古・ハルハ地方では、革命直後土侯たちが最高活仏・ホトクト八世を君主ボグト・ハーンとして推戴して大蒙古国を樹立し、ロシアの後援を得て北京政府の支配から脱していた。

 宗社党とは蒙古旗人・升允ら清朝遺臣が川島と謀って結成した結社で、世襲八親王家の筆頭・粛親王を盟主とし、遜帝溥儀の復辟を目指したものである。革命直後、四十四年の暮から翌年に掛けて、宗社党の鉄良らが川島浪速ら大陸浪人と手を組み満蒙独立を企てると、これを察知した参謀本部は四十四年十二月に多賀宗之少佐を、四十五年二月には高山公通大佐を北京に派遣した。高山大佐が川島から清朝皇族の動向を聴取して満蒙独立運動の主旨を了解したので、参謀本部はその支援のため、四十五年一月十九日付で高山大佐を奉天特務機関長に補し、二月十四日付で守田利遠大佐を参謀本部附として派遣した。宣統帝の熱河蒙塵の噂を聞いた高山大佐は、途中で溥儀の身柄を奪い満蒙独立の要とする計画を立てたが、簡単に成功すべくもないので、まず粛親王を日本租借地の旅順に落とし、東三省総督趙爾巽を語らって、満洲で挙兵せんと図る。高山大佐により、粛親王は商人を装い無事旅順に亡命したが、高山は独断専行を咎められて内地に召喚され、後事を多賀少佐に託した。

 満蒙独立運動に対する政体(東京政府)の態度は、国際世論に怯えたため冷淡に終始し、外務省の出先機関でも、奉天総領事・落合謙太郎のごときは川島を警戒し、監視を強めていた。陸軍でも福島安正中将麾下の関東都督府は宗社党に非協力的で、ただ韓国駐箚憲兵隊司令官の明石元二郎・中将だけが武器援助を申し出ていた。この苦境の中で、川島らが頼みとしたのは、折から清朝皇族の動向を偵察するため、参謀本部が奉天に派遣した貴志彌次郎中佐であった。

 ★上原勇作の〔隠れ腹心〕にして張作霖の親友・貴志彌次郎


 張作霖爆殺の直後、その鎮魂のために『張作霖』を著した白雲荘主人が、張作霖の家族ぐるみの親友と明言する貴志彌次郎のことは、張作霖を語るのに欠かせない。吉薗周蔵も貴志に親炙して、生涯尊敬したが、今ではその存在すらも忘れられているので、以下にはやや詳しく紹介しておきたい。

 明治六年六月、紀州海部郡梅原村で紀州藩根来者の家に生まれた貴志の、幼年学校以前の学歴は、防衛省にも記録がない。陸軍士官学校の新制第六期を卒業して二十八年に歩兵少尉、三十年中尉、三十九年に大尉と累進した貴志は、この間三十四年十月に陸大十八期に入校したが、日露戦争のため三十七年二月に中退、三月の動員で出征する。川村景明中将の率いる独立第十師団隷下の大阪第二十連隊の中隊長となった貴志は、独立第十師団が第五師団と併せて野津第四軍となると、第四軍参謀長・上原勇作少将の知遇を得て、以後はその隠れた腹心となる。

 三十七年八月の遼陽会戦に際し、偵察を命じられた貴志大尉が、高梁(コーリャン)畑を案内する協力者を探していた時、偶然遭った于冲漢は、元東京外国語学校講師で大本営附の謀者となっていたが、戦後に勲六等に叙せられ、後年には満洲国建国に加わり、満洲国参議になった大物である。

 凱旋後、貴志が狩野派の画師に描かせた絵は、ロシア兵が馬上捜索に当たる中、草葉の陰で息を殺す貴志大尉を描いた秀作で、生家の貴志庄造邸に今も掲げられている。この激戦で重傷を負い、子供の出来ない身体となった貴志は、親友で二年先輩の満洲軍参謀・岡田重久少佐の弟の重光を、婿養子に迎える。戦傷を癒した貴志は、満洲軍参謀・田中義一中佐が乃木第三軍の参謀を入れ換えた時、第三軍に移されて乃木稀典大将に親炙した。防衛省の記録には「三十七年三月、第三軍附」とあるらしいが、何かの誤りであろう。晩年の貴志は、親友張作霖の爆殺を憤る余り、上原勇作の名を口にせず、乃木大将の回顧に明け暮れたという。

 満洲軍参謀・田中義一中佐に見込まれた貴志は、三十八年十二月に参謀本部員となった田中義一に抜擢されて参謀本部員になったようであるが、防衛省の記録には、その記載がないらしい。ともかく、三十九年三月に陸大に復校した貴志は、十一月に卒業して陸軍省軍務局出仕となる。参謀本部員田中義一中佐は四十年五月、陸軍近代化のために自ら望んで麻布の歩兵第三連隊長に就き、十一月には貴志を招いて第三連隊附とし、軍隊内務書の改定を命じた。田中はこの時大佐に進級し、貴志もようやく少佐になる。陸士六期では、早い者は三十八年少佐に進級した。例えば、大分出身で同期ただ一人の大将となった南次郎は三月に、また熊本出身で陸大十四期恩賜の津野田是重は五月に、少将で退役した東京出身の佐藤安之助も七月に、それぞれ少佐に進級している。因みに『曰本陸海軍の制度・組織・人事』には津野田に関し、「先妻は陸軍中将・高島鞆之助の女」とあるが、『旧華族家系大成』の高島家の項には該当する女性が見当たらないから、庶腹であろう。秀才肌で胆力も備えた津野田は、いかにも高島の女婿らしく、三十六年フランスに駐在、曰露戦役時には第三軍参謀として乃木軍で勇名を馳せた。大正八年四月に、第二選抜で少将進級したが、直ぐに予備役編入したのは、参謀総長・上原勇作と衝突した結果という。高島の娘だった先妻と別れた(死別?)ことも影響して、いつの頃にか、高島-上原派から離脱していたのであろうか。

 四十二年、東三省総督・徐世昌から奉天講武学堂教官の派遣要請を受けた陸軍省軍事課長・田中義一大佐は、貴志彌次郎少佐の派遣を決める。『宇都宮太郎日記』二月五曰条には、「歩兵少佐・貴志彌次郎本部に来訪す。貴志は田中義一の頼により奉天の講武学堂に推薦せしなり」とあり、田中が参謀本部第一部長・宇都宮少将に依頼して、貴志の推薦を取り付けたことが分かる。このような履歴から、巷間で田中の腹心と観られている貴志は、実は前述のごとく上原勇作の「隠れ腹心」であった。陸軍特務・石光真清と同様、上原との関係を極力隠したのは、策士・上原の指示によるものである。


 ★奉天挙兵失敗が機縁に 町野武馬の張作霖工作


 川島浪速から北京警務学堂総教習の席を引き継いだ町野武馬大尉は、反革命の立場から、秘かに北京を脱出して、奉天巡防頭領・張作霖を訪ね、満洲の独立を持ちかけた。張作霖は革命に反対、溥儀の退位にも反対であったから、町野は一か月もの間奉天城内の張作霖邸に滞在し、溥儀を担いだ満洲独立の作戦を練った。ところが、一夜休養のために城外の満鉄付属地に出掛けた町野は、瀋陽館で偶然川島浪速らに出くわす。二人は種々協議したが、粛親王を担いで清朝復辟を目指す川島ら宗社党と、張作霖と組んで満洲独立を図る自分とは、方向が異なることを確認し、町野は川島と別れて北京へ戻った。

 四十二年三月から四十四年三月まで、貴志が東三省講武学堂教官として近代的軍事教育を施した生徒の中に、張作霖の馬賊時代からの腹心で、後に満洲国国務総理になる張景恵がいた。当時、張作霖は洮南府にいたから、貴志は会っていない筈だが、互いの存在を意識していたのは当然で、あるいは面識があった可能性さえある。貴志の教え子には北大営の連隊長など奉天軍の幹部がいたが、その一人の第三連隊長に貴志は、「ここで独立・反革命の烽火を挙げれば、必ず張作霖が城内から呼応して合流し、東三省の独立を宣言する手筈が出来ている」と説いたという(都築七郎『伊達順之助』)から、張作霖との間に何らかの協定が出来ていたようである。おそらく前述の町野の工作によるものであろう。

 ともかく、貴志中佐の調略によって、北営の二個大隊が決起し、旧暦五月五曰を期して奉天城に向かったが、思わぬ事情で頓挫する。奉天城を目指して進軍する北営兵が、富豪宅の並ぶ北門街に近づくや、支那兵の伝統を発揮して略奪暴行に走ったからである。城内からこれを見た張作霖は、泰天巡防統領の本分として、直ちに略奪兵に対する銃撃を命じたので、決起部隊は多数の死傷者を出して四散し、奉天挙兵は惨めな失敗に終わった。町野の意図と、貴志の思惑はこうして齟齬したが、奉天督軍張作霖顧問として大正三年に奉天に派遣された町野が、同九年奉天特務機関長となった貴志少将と手を携えて張作霖工作に勤しむ機縁は、実にこの時に生じたわけである。

  続く。                      
 
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