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●疑史第58回 甘粕正彦と大杉事件の真相
 ●疑史第58回 甘粕正彦と大杉事件の真相   評論家・落合莞爾
 
 
 甘粕が入所してから一年以上経つ。以下は前月号を受けて、『周蔵手記』の十七回目の甘粕記録たる大正十四年三月末日条の続きである。「薩摩ハ帰國シテヰルト 憲兵隊カラ知ラセ受クル。嬉シカッタ。自分ノ解読ガ正シカッタコトニナル。甘粕サンガ満点ヲ下スッタノダカラ 誤リハナイト思ッテヰタガ 薩摩ノ帰國ガ分ッテ 安心ス。後ハ コレカラノ動キダケダ」。憲兵隊が薩摩治郎八の帰国を周蔵に知らせてきたのは、むろん獄中の甘粕の手配である。

 同じく三月末日条の続きは、藤田嗣治からの暗号手紙の解読である。「對ノ金時計ヲ買フヤフニ勧メラレテヰル。ソレカラ 高イ山二登ル樂シミヲ 覚ヘタヤフダ。→同志ハ 大金ヲ遣ハセル情報=示唆ヲ与ヘタ。ソレハ 莫大ナ金額ヲ必要トスルモノダ。→ 要ハ 金ヲ使フ道ヲ作ッタコトダラフ。コノ人物ハ 金ガ無ケレハ 百姓ノ小作ヨリ始末ガ悪イ。裸二 金ヲ着テヰルダケダ」。フランスで薩摩治郎八に大金を遣わせるように示唆を与えたのは同志・藤田嗣治である。裸に金を纏ったような治郎八は、秘密結社に入って得意であるが、その資金が日本の国益に反して使われることを警戒した上原は、薩摩家の金を遣い果たさすべき策を立てて、工作を藤田に命じた。パリ日本文化会館の建設と寄贈である。周蔵は、同志・藤田に返事を出した。「今回ノ地震ハ 下町カラ特二御茶ノ水上ノ旧大名屋敷ガ 被害ニアッタサフダ。初台ノ櫻ガ美シイト 初台ノ下屋敷二移ッタ 新大名ト知り合ッタ云々」とは、震災前に御茶の水上の駿河台に在った薩摩邸が震災に逢い初台に引っ越したこと、及び【新大名】薩摩治郎八の帰国後の動静を、藤田に書き送ったのである。出す前に一応、刑務所の甘粕に見せに行ったところ、「甘粕サン十分二意味通ヅトノコト。安心ス」。

 同年七月条に十八回目の甘粕記録がある。「甘粕サンハ 元気ニシテヲラレル。所内ノ評判ハ抜群ノヤフダ」。千葉刑務所通いを欠かさぬ周蔵は、甘粕が元気で、所内の評判も抜群なのに喜んだ。同じ条に、直接甘粕のことではないが、下の記事がある。上原邸で「ポンピダフ氏ト 出合ッタノデ帰リハ一緒二帰ル。ツイデニ寄リマセンカト云ハレ 夜ヲ御馳走ニナル。コノ人物ノ生活ヲ見テヰルト 日本ノ文化ノレ遅レト 加藤君ノ云フ物真似思想ノコト ツクヅクト思ハズニハ ヰラレナイ。アルザス料理ヲ馳走ニナリ、宗教ノコト、人種ノコト、國ノコト、文化ノコト 色々ト伺フ。立派ナ人物デアル」。

 報告に伺った上原邸で、周蔵はたまたまポンピドフ牧師に出会った。牧師は大正元年八月に帰国したと警視庁外事課資料にあるが、いつの間にか再来日していたのである。自宅に誘われた周蔵は、話のなかで牧師を立派な人物と思ったが、「然シ迷ヒモアルヤフダ。當然デアルガ 本人云ハルヤフニ 何時カ 對フランストナッタ時 迷ハレルデアラフ」と観察した。独仏両強に挟まれたアルザスは歴史的に両強の綱引きの対象とされてきて、今はフランス領である。ユダヤ系としては珍しく農業に携わる住民は、国籍はフランスであっても本音はどうか。いつの日か、フランスに敵対しなければならぬ状況もあり得る。その時には迷いが生じるのではないか、と思ったのである。

 大正十五年正月末日条に十九回目の甘粕記録がある。「甘粕サンハ元気デヲラレル云々」とあり、周蔵が相変わらず千葉通いを続けていたことが分かる。二十回目は同年七月条である。シベリア金塊事件に触れ、新聞が陸軍の不正を攻撃しており、石光真清の弟で昨年予備役入りした石光真臣中将が告発状を出したが、黒幕は上原である。「閣下ハ 自分ハ皮ヲ切ラセ、然シ軍部ノ責任ニセズ、田中(義一・元陸相・現政友会総裁)ガ責メラレテヰル。結局、政府内二 人ガ必要トナルモ 中野(正剛代議士) 一人デ充分 ト云フコトダ」。シベリア金塊事件を上原は、参謀総長として多少の非難を受けることを厭わず、しかし陸軍全体の責任にはせず、当時の陸相田中義一の全責任に持って行った。田中を攻撃するための人材が政界内に必要となるが、玄洋社系の代議士・中野正剛一人で充分間に合うとのことである。上原は、対立する田中・宇垣(一成・現陸相)から昼行灯と影口されているのは百も承知で、自らそれを決め込み煙幕を張りめぐらしたが、「新聞ニハ一行モ載ラズ、誰一人言ヲシテヲラズハ、気ガツカナイト云フコトト、何ヨリ中野正剛の弁舌ノ巧ミサニアラフ」。世間が誰一人上原が黒幕と気が付かないのは仕方ないが、「アノ宇垣スラ 気ガツカナイハ 将来ガ思ヒヤラレル。結局、泰山鳴動シテ、鼠モ出ズ。然シ 田中ハ打撃ヲ受ケタデアラフ」と憫笑した周蔵は、面会した甘粕にそれを話すと、「ウッカリ甘粕サンニ云フト、三年前ナラ 自分ガ首ヲ取リ二向ッタヨ ト笑ハル」。権力者の失墜を図るには、義憤をかざす暗殺が最も効果的で、成否を問わない。結局鼠一匹出なかったが、山県も田中も確実に打撃を受けたのは、上原の策謀である。三年前の甘粕は渋谷憲兵分隊長で、上原の特命の下に跳梁していた。三年前なら中野正剛の演説でなく、自分が田中暗殺計画を企てたとは、大正八年の山県暗殺計画は自分だと自白したに等しいが、囚人面会にしては際どい会話も国事犯の特典で大目に見られたのである。続けて「甘粕サン 出ラレルラシイコト 閣下カラ聞クガ、マダ云ハズ」とある。上原から甘粕の仮出所を耳にしていたが本人に告げなかったのは、さすがに場所が刑務所だからであろう。十月九日、甘粕は出獄した。十三年一月の皇太子御成婚の恩赦で七年六ケ月に減刑され、その後の模範囚ぶりから仮出所を認められた。実質二年十ヵ月で出所したのは、まさに上原の言った通りになった。

 十月末日条、二十一回目の甘粕記載は、「コノ月ノ何ヨリ喜ビハ、甘粕サンノ特赦減刑ニテ、仮出所サレタ。フランス留學モ一緒ニサレタト云フ妻君ガ イカバカリ喜バレタデアラフ。自分モ非常二心強イ」とある。当時の周蔵は、甘粕の秘密渡仏に同伴した女性を甘粕の正妻と誤解していた。ポンピドーの姪で上原の隠し娘という真相を知るのは、後年のことである。

 甘柏記録の二十二回目は昭和二年十月三日条で、周蔵は救命院の事務員池田巻との結婚をさりげなく記した後、「閣下カラノ命令ノ計画ヲ練ル。甘粕サンニ依頼シテモ良イカト云フト、甘粕ニハ別ノロヲヤッテヲル。何レ合流トハナルデアラフガ、トノコト。安太郎氏二関シテハ 大イニヨカ トノコト」とある。

 これに先立つ九月条に、「(閣下カラ)今年暮レカ来年ニカケテ、フランス、スイス二行ッテ貰ヒタカ ト云ハル。仕事ノ内容 聞イテ驚ク。計画自分デ立テテミルト傳フ」とあり、上原から渡欧命令を受けた周蔵が、計画を練っていた。工作には協力者が何人か必要で、第一候補は若松安太郎である。上京以来の周蔵の教育係であった安太郎は、今では妻の巻の縁者でもある。若松は海軍関係で用いる仮名で、陸軍関係では本名の堺誠太郎を用いていた。ニコライエフスクに漁場を関いた北洋漁業の大手・島田商会の支配人として活躍、自身も函館に沿海州漁業のウロコボシ北星組を興していた。巻に連絡を取らせた周蔵は、十月十二日内幸町の堺誠太郎の水産事務所を訪ねて、安太郎と計画を練った。「目的―スイス、ベルン 人物ニツイテハ ネクル氏ガ手配シテアルトノコト。ネクル氏ノコトハ 訪ネルコトガデキル。連絡ハ済ムデイル。少クトモ一月下旬ニ パリ到着予定トス。ネクル氏ノ指示二従ッテ、スイスニ入レバ良イ」。目的地はスイスのベルンで、相手についてはネクル氏すなわち藤田嗣治が既に手配してある。藤田をこちらから訪ねることについても連絡は済んでいる。一月下旬パリ到着の予定とし、後は藤田の指示に従ってスイスに入れば良い、と計画は一応できた。

 続いて「問題ガアルトスレバ 邦人デアル。佐伯スラ 頭ガ誰デアルカ分ラナイ。少クトモ 妻君ハ海(軍)側デアルコト 間違イナシトダケハ 安太郎氏モ一致ス。然シ、海ハ気ダルイカラ 厄介ト云フ程デハナイト 一致ス」とある。渡欧の真の目的を厳秘するに、問題は外人よりもむしろパリ在住の邦人にある。目下パリで画業研鑽に苦闘する佐伯祐三の陣中見舞いを渡欧の表看板にするが、そこからバレる心配はないか、というのである。佐伯祐三支援は大谷光瑞師の要望によるものだが、今では佐伯の本当の頭が誰かよく分からないのは、中野小淀の救命院に入り浸った佐伯が、常連の徳田球一の影響を受けて無政府主義に関心を持ちだしたフシがあるからである。光瑞師が早熟の画才を見込み、祐三の絵の師匠とするために結婚させた妻の米子は、元は佐伯の兄・祐正の愛人であったが、今は海軍発信係の芥川龍之介と連絡がある。少なくとも海軍側ということは間違いないが、海軍はのんびりしているから厄介という程ではない。見解が一致した周蔵と安太郎は、さらに検討を進めた。「問題ハ田中―宇垣ノ線デアル。實際ノ金塊ガ ドノ位在ッタカヲ、田中―宇垣ハ知ッテヰルカ?知ッテヰル場合ハ 誰ガ、何処二隠シタカヲ 知ッテヰルカ否カ」。

 渡欧の真の目的は、金塊の回収であった。この金塊は例のシベリア金塊とは別で、『石光真情の手記』によれば、大正七年三月二十一日の戦闘中、コザックがヴラゴヴェヒチェンスクの国立銀行金庫から黒河のロシア領事館に移して保管した金塊(主として砂金)である。東清鉄道総弁・ホルワット中将を首班とする反ソ臨時政府がハルビンに樹立され、之れに引き渡せとの帝政中央の命令で、四月三日午前五時、コザックと支那官憲に護られ、ハルビンを指して雪の荒野に滑り出した馬橇に載せたニ八五〇万ルーブルの金塊である。石光前掲は「当時、その行方について軍当局から暗号電報で問合せがあった。発送後、一体どこに行きついたのであろうか。私の知っていることは以上のいきさつだけで、ホルワト政府に到達して正当に使われたかどうか私にはわからないのである」と述べるが、これこそ「良く言うよ」で、上原股肱の特務・石光が知らぬ筈はない。

 黒河砂金はホルワット臨時政府の軍事顧問・荒木貞夫中佐が受領し、上原の指令で黒竜江省の各所に分散秘匿されたが、一部はスイスのベルンに匿された。上原は今、それを国事に用いようとした。だが事は微妙で、ソ連側には勿論、わが海軍にも知られてはならず、陸軍内にも上原の敵が台頭していた。

 明治末年の陸軍改革運動で、陸軍の主導権を山県閥から奪い取る運動の中心になったのは、田中義一と宇垣一成であった。その結果、彼らが担いだ上原勇作が大正に入って陸軍のトップに立ったが、その上原が、大分を除く九州軍人を糾合して上原九州閥を形成すると、田中・宇垣は勢い上原九州閥との対立を露にして陸軍が内輪もめとなったが、黒河砂金については、田中―宇垣も全く知らぬことでなかった所に問題があったのである。

 ●疑史第58回 甘粕正彦と大杉事件の真相  <了>。                       
 
 
 ★薩摩治郎八については、左のカテゴリー〔バロン薩摩〕から。
 
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