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●アナーキスト群像回想記
                      アナーキスト群像回想記_1


 ●『アナーキスト群像回想記-大阪・水崎町の宿』 宮本三郎

  発行所 あ・うん 2006年5月復刻版

 著者・宮本三郎は前出の逸見吉三の実弟で、大正10(1921)年大阪・水崎町で【借家人同盟】を結成した逸見直造の子息である。

 明治40(1907)年生まれの宮本三郎(サブロー)だから【借家同盟】結成時に14歳、震災時に16歳で時代の証言者の資格はあるはずで、私家版刊行は74~76歳時のこと。

 
 それにしては文意「??」の箇所多く、訂正・補筆もない(刊行・編者の責任も大)のは一体どうしたことだろう。

 寺島珠雄・『南天堂 松岡虎王麿の大正・昭和』(皓星社、1999年)という見事な、奇跡とも言うべき証言を読むことの出来る者としては、疑問以上のものがある。


 それはそれとして、難波大助と前記、小池薫についての小文だけは、紹介しておこうと思う。

 新証言とは行かないが、難波大助、小池薫のヒトと時代の雰囲気は感じられるので、以下紹介していきます。

 **************

 
 ●しせき なんばだいすけ
  (死赤)難波大助(一八九九~一九二四 深川富川町住人)   
  -天皇の存在は社会革命の最大妨害物として
  皇太子暗殺を決起、絞首刑に処せられる。


 夏の陽ざしの厳しい頃でサブロー(宮本三郎)は二階で母や女工さん等と紙函張りに一生懸命に仕事の最中に(逸見)吉三兄を訪ねて来ましたが、吉三兄が階下に降りていましたが、話は短かゝったのか直ぐ上って来て母に十円札を二枚渡して、小池薫さんの東京の知り合いの人が名はシセキさんで中浜やギロチン社の人に食べる物でも差入れしてやってくれと云って上らず帰っていったが、直して(仕舞って)おいて、と預けていました。二十円とは少し大金でした。借家人同盟の演説会の折に水崎町の宿に異様な風体と長髪の小池薫とはビラ張りに大阪の街を三ケ日、夏の日中を、サブローは一緒に歩き過した方(頃?)でした。吉三兄も二十円もの大金の思わぬ差入れの金が這入って大喜びしていました。

 「小池さんが大阪に行ったら水崎町の逸見の吉っちゃんの家へ是非寄ってみなさいと言われて寄りました」と死赤(難波)さんが言ってたそうです。富川町のドヤ街で死赤さんも中浜等を知っておられたのでしょう。運動歴はなく放浪生活の頃だった様です。

 深川の富川町、菊川町のドヤ街の立ち坊労働生活の中で中浜哲等ギロチン社の活動家と小池薫を通じて、僅かの間であったが社会主義運動に関心を持ち、自から墓山死赤(はやましせき)と名乗っています。

 大阪の至る処に、いや日本全国に隅から隅まで新聞売子の、ジャランジャランの鳴る走り乍ら号外、号外と声を出して配る。号外は大正十二年十二月二十七日附、大事件を報じた号外。

 摂政宮皇大子殿下貴族院開院式に臨むため、十時頃に虎の門付近に狙撃さるるも、お召車のガラス窓に当たり、御負傷なく犯人は取押さえられ、難波大助と名のり山口県の明治の勤王の由緒ある家系で代議士・難波作之進の三男にして、云云と報じています。

 吉三兄は号外を見て写真の難波大助を見て、アッと一言漏らしておりましたが、四、五日前に水崎町に吉三兄に二十円の金を差し入れに頼んだ?見すぼらしい青年の墓山死赤その方が、難波大助でした。運動に少しは国家権力に抗し乍らにも筋金の這入った吉三兄も何か不安な気持だった様です。サブローには判る様でした。あの幸徳等の大逆事件に地方の方の家に訪ずれて世間話を交はした丈が、訪れた方、会われた方が、デッチ上げられて大逆罪で絞首台に十数人の方方が露と消えておられます。

 吉三兄も大正十三年十一月に天皇病気快癒祈願に皇后が京都桃山御陵に参拝の折関西の運動家の一斉検束されて、その数日前に新谷與一郎-「自由労働者」発行人-が寒い晩、水崎町の宿に寄って吉三兄と暫く話の後に、京都に帰る電車賃がないので吉三兄が一円渡し寒かったのでサブローの一張羅のオーバを着て帰ったのが、後の倉地啓司と爆弾製造事件として京都府警本部特高課連日連夜に亘る厳しい取調べ、拷問で阪谷貫一、八木信三、川合筆松が起訴され新谷與一郎は東京へ送られて、福田大将狙撃事件の和田久大郎、村木源次郎、大阪小阪事件の古田大次郎と合流されて起訴されています。京都のこの事件では吉三兄は新谷に一円の電車賃が特高と検事調書では金高(金額)も変えられ爆弾製造ケースに費われたとなり、阪谷、八木、川合等も爆弾製造にも全然関りない者が、皇后京都西下を理由にデッチ上げ(られ)ました。この京都事件の時、サブローは東京神田神保町、東京堂書店発送部に働いておって、錦町署の高等係り二人が発送部・高橋主任を通して二回、吉三兄の事で調べに来ましたが、その後何もなく主任はどうしたんだいと云った切りで働き(勤務は続け)ました。

 正進会の和田栄太郎さんが発送部に訪ねて来られて吉っちゃんが京都で爆弾を作って捕まって、皇后が西下中で心配していると云われて驚ろくのと心配もしましたが十日程して、水崎町の大阪印刷工組合の生嶋繁からの便りで、大した事もなく安心しました。数年後に一年六ケ月の服役をした阪谷貫一さんが加古川から水崎町に見えられ、紙函を張り乍ら吉三兄や、久保譲、中尾正義等と話しましたが、京都の警察では取調べ中に高等係の三、四人に正月用の荒巻鮭の様に刑事室で足先が畳から一尺位はなれて吊し上げられ竹刀で三人で叩かれた時は音をあげたナー。八木も河合も吉三兄もこの拷問で、ありもしない調書を作られ捺印しており、阪谷の話は更にブタ箱の看守が「阪谷さん、今な署長も高等係りの刑事も会議室で集って爆弾事件の調書が検事局に送って今切り納め酒を呑んでいて皆なの顔は赤色で崩れそうな顔やで」と。その時僕は「何くそたれ奴」と怒りが胸に込み上げてきてナー。

 摂政宮狙撃事件は新聞報道も大々的になり、翌日山本権兵衛内閣も潰れ難波大助の連累共犯者に警視庁特高課の総力揚げての社会主義運動家の広い捜査にも一人も出ずに、大逆罪で起訴されたが、難波大助の名を知る者はなく深川富川町、菊川町ドヤ街の労務者時代の★小池薫等数名の運動家との僅かの交流の中で誰もが、墓山死赤の名は知ったが(知っていたが)難波大助が運動家の誰一人として警視庁の連日の厳しい取調べにも名を言わなかったのでしょう。

 難波大助が富川町菊川町ドヤ街に交流した運動家の氏名を言っておれば幸徳等の大逆事件の様に結果的になったかも判りません。虎の門狙撃後十ケ月目に一人(の)連累者もなく大正十三年十月一日大逆罪として裁判が非公開に行われ、同十三日死刑判決が出て同十五日、中二日をおいて絞首刑を市ケ谷刑務所で執行されました。大逆罪は、控訴を認められず、一方難波大助只一人の大逆罪に十ケ月も要したのは連累者を聴き出す事もあったが、仕込銃で発射して捕えられた時、警官、憲兵、沿道の群衆に叩きのめされて、数人に担がれて、警視庁に連れてこられた時は、顔も潰れて服も血みどろで労働運動社の村木源次郎が特高課室から出て来た処を廊下で会って見ている。この大負傷の回復にも、月日を要していたのと思います。数ケ月も過ぎ特高からも、戎の高等係りも何にも言ってこないので吉三兄も安心をした様でした。

 難波大助の公判は(大正13-1924年)十月一日第一回公判(傍聴禁止)で始まり(十一月)十三日死刑判決迄、四三(43)日間その間二・三回非公開で行われ、弁護を担当された国選弁護士の知名な★今井(今村)力三郎は、後年回想記(★昭和25(1950)年、『文芸春秋四月号』の今村文など)に難波大助は、公判廷で「皇室に対する思想は」の裁判官の問いに、「皇室には反逆の意志などない」と言っているが、又、一貫してニヒリストとしての態度は崩さず、今村弁護士も公判中度々面会して反省上申書の提出を勧めたが聴き入れられなかったが、司法首脳部の中では明治の由緒ある勤王家系で、父作之進も代議士であり、山口県人と云う事もあり、強いて言えば、お召車のガラスに僅かな微(疵)丈(だけ)であり、難波大助の反省上申書でも出れば刑を終身刑に止めたい方針の動き(のよう)に感じられたが、十三日死刑判決時、難波大助は判決言渡しと同時に起ちあがり、無政府共産主義万才、更に無政府共産主義万才と絶叫し退廷しており、今村弁護士更に上申書提出に望みに市ケ谷刑務所に十五日午前面会に行った処、絞首台上に露と消えた二、三時間前に、判決後の僅か十三日死刑判決言渡し十五日絞首刑執行され、十四日一日丈(だけ)の死刑判決後の生命に終っております。

 **************

 
 ●小池薫(一八九六頃~ ) 深川富川町ドヤ街住人
  -難波大助の差し入れと面会に行き、理由なく逮捕され、
  精神病院に入れられる。


 小池さんは、水崎町の宿にお見えになったのは、夏の七月の終り頃で父や吉三兄を(見るのは)初めての様でしたが、この小池さん程名簿の多くの方々の中で一番何よりも強烈に今でも忘れられない方はありません。又小池さん程社会主義運動家の内に悲しみ訴え怨念を深く残して若き生涯を終えた運動家も又数少ないでしょうと、サブローは六十数年も経つのに、憶いは尽きない。

 小池さんの服装もこれ又一言で変ってるナーどころか実に風変りで驚きました。頭の毛は由比正雪の様に黒々した毛と云うより髪を首筋より後ろに長く垂らして、顔は細い上に凄い程色白で鼻筋の端麗な容で、もしフランスルイ王朝時代の貴公子族の服装でもすれば、実に立派な美公子を想はせる方の様ですが、惜しいかな、お見えになった姿は、印法被に腹掛け、襟のない袖口の絞った木綿の白シャツ、下は白の細い股引に地下足袋。車夫姿は同じでも和田久太郎とは、桁違いの美男車夫姿でした。

 惜家人同盟の何回目かの社会労働問題-演説会が天王寺公会堂で一週間後に開かれる時で、開催宣伝の辻ビラ、四六版半裁刷りで、二千枚が出来ておって、若い活動家やサブローも辻の軒下に(貼り出を)頼んだり電柱に吊り下げに廻った一日目でしたが、小池さんが東京に帰る汽車賃がないので何処か働く処があるかと言われ、父が三日程ビラ吊りを手伝ってくれる様に、話も決まり、翌日から九時に、サブローと一緒に二百枚程持って出掛けてビラの上に細い割竹の中心に糸があって、一寸位折り曲げて糊で貼って、まん中に糸に釘を入れて、金槌で叩くのですが、この金槌は貴重な物でステッキになって最中でたたみ、長くにもなり、金槌は先がエレキ(帯磁気)で釘が密着するので打ちやすく、小池さんが手に持つから風体と共に変ったマーチで人々が見るのです。(電柱に)吊るにしても、人眼に付く処、十字路にしても角に見定めの効く様に一枚も無駄のない吊り方で小池さんは気を使っておられました。四時頃迄には吊り終って晩には深川富川町や抹殺社、無軌道社の運動家の話など、ドヤ街の労働者の話も面白く語っておられて、四、五人の活動家を笑わせておりました。近所の銭湯に三、四人連れだって行くと、番台のおばさんが不思議そうな顔をして見ているのです。細い均整の取れた体が実に白く絹膚(きぬはだ)そのものでした。風呂から上って帰りがけにおばさん、「サブローさん、あの人なんする人やノー」と尋ねます。

 小池さんと二日目も一緒に暑い陽の強い中を一日廻り、三日目の終りは北大阪の城北方面に吊りに廻りて昼の食事にめしやに這入って食事を取るのですが食事中のお客はんが皆んな食べずに小池さんを物珍しそうに見るのですが、何の平気な顔して食べております。道を歩けば老人は無論若い女の人は猶更振り向いて迄も異様な頭の髪と変った車夫姿に眼を見張っておりました。

 中休みに城北公園で露天の店で氷で冷やしたトマト五個位を買って腰を下ろして食べておりますと、公園に遊びに来ていた母子連れが立ち止まって見て不思議と珍しそうに三人、四、五人と起ち去ろうともしません。小池さんの真白な股引に□からポタリと真赤なトマトの雫が染っておるのに平気で人だかりも気に留まりませんでした。ビラ吊りも三ケ目でビラも全部捌(は)けて翌日東京に帰るからと言い、父は日当と別に汽車の中の弁当代も加えて渡し(たので、小池さんは)喜び乍ら「サブローさん楽しく面白かったね」と言って出ていかれましたが、一日おいて二日目の夜九時にヒョコッと這人って来られて、酒と悪い遊びに全部費って終って汽車賃がないと言い出しその晩は水崎町の宿に泊まり、翌日父が十円渡して昼前に出て行かれましたが、又晩に七時過ぎに見えられて梅田あたりの一ぱい呑屋で酌婦にたかられてスッカラカンにされて帰って来られたのです。母もポカンとして若い活動家も笑っていましたがよく水崎町の宿に二度も同じ文なしで帰って来られた小池さんを笑うにも笑えなかったのは、一緒にビラ吊りに三日間も歩いた故でしょう。

 翌日朝、裁判所に行く父が小池さんに梅田駅の時計正面の下、三時に来る様にと言っておりました。五、六人で一緒に昼ご飯の時、小池さんが母に「お母さん本当にお世話になり有難うご座居ました」と長髪を前にたらして云っておりましたが、小池さんの母への言葉が最后になるとは、三、四年目に悲しき便りに会う事になります。あの貴公子にも劣らぬ顔の小池さん。

 父が梅田駅で三時に小池さんと会って、東京迄の三等切符と弁当代を渡して改札口で別れて、階段の中程で小池さんが手を振っていたと晩に話しておりました。再び水崎町の宿には来ず仕舞い。

 ビラ吊りのビラ刷りには社会労働問題大演説会の弁士として東京の社会労働運動家の来演を連ね、人目をひいたのは、赤瀾会の娘子軍の弁士の方達で、堺真柄、九津見房子、中曽根貞代で、赤瀾会結成後まだ間のない頃でした。演説会当日朝、借家人同盟の旗を先頭に父、真喜三・兄、吉三・兄、大阪の若い活動家と小学生のサブローも交って梅田駅ホームで赤瀾会の汽車が着いて三等車の窓から皆さんが手を振られて、こちらも旗を振っておりますと、五、六人の私服と数名の巡査が走って来て汽車に近づき借家人同盟の迎えに出た人達を威圧排除して、解散して帰らなければ総検束するぞと嚇かし、父も夜天王寺公会堂の大演説も控えており解散する事にして、特高課の古い知り合いの徳久警部補主任と赤瀾会の方の演説会に弁士で來阪されたので、新世界の常磐旅館に休憩されるのでと話した様で、徳久主任が同行していた上司の加賀美特高課長に伝えたが、演説会に出るのなら、三人の赤瀾会員を検束する、出ないのなら検束はせず東京に帰らすからと、赤瀾会の方も大阪迄来て検束される様な馬鹿げた事もしたくないので演説会には参加出来ない事になり、一時近くの曽根崎警察署の高等係室で時を過ごして、夜行の汽車でお帰りになられた様です。梅田駅ホームに赤瀾会の皆さんを迎えに出て汽車の窓から手を振られていた堺真柄さんの顔を覚えていまして、(昭和)五十六年九月十九日東京神田の「竹むら」で、吉三兄の偲ぶ会の翌日「黒旗の下に」主宰者の白井新平氏に案内されて南雪谷の自宅にお伺して六十数年目にお逢い出来ましてお元気でおられたので嬉しかったです。梅田駅の汽車の中の堺真柄さんが近藤真柄さんとなられておられました。幸徳の大逆事件の方々からお父さん(堺利彦)に送られた獄中から死刑執行の直前迄送られた手紙、葉書を今日迄保存なさって此の度纏められて大版型の見事な『大逆帖』を出版され見せて下さって生々しく胸のしめつける想いでした。絞首台の露と消えた十二名の方々、お父さんも喜こばれておられる事と思います。立派な畢生に残る(ママ)『大逆帖』でした。

 赤瀾会の皆さんを東京に追い返した大阪府警本部特高課の課長・加賀美警部の下に徳久、鈴木、小林、三宅等課員と検事局に吉村思想検事の国家権力の走狗として大阪の社会主義運動家を最も酷く弾圧し特にアナー系思想団体労働組合活動家には泣く子も黙る悪名高く警察署も新町署と恐ろしい処で運動家の間では拷問署の異名が付いていました。新町川をはさんで附近は鉄屋の倉庫の町筋で民家もなく高等係りや泥刑事達に絶好の取調べと拷間署で活動家の間で「新町署に送られたか」と溜息が出ました。

 朝日新聞社の記者だった片岡鉄平(ペンネーム)は、プロレタリア作家となり共産党のシンパで捕まって言語に絶する拷問を受けています。加賀美、吉村、新町署の連合悪で多くの運動家が監獄に服役した事であろうか、この加賀美氏、後に助役となる。

 小池薫さんの深川富川町、菊川町ドヤ街で、日雇い働者、放浪運動時代の盟友、墓山死赤=難波大助、虎の門にて摂政宮ヒロヒト皇太子狙撃事件起り大正十二年十二月二十六日大逆事件起る。

 翌年の春の終り頃に、吉三兄宛に一通の手紙が小池さんから送られて来まして、走り書きで「俺は今精神病院に【狂い】としてほうり込まれている、俺は気も確かで変った処がないのに何処に(何故か?)市ケ谷刑務所に難波さんに差し入れと面会に行ったら、狂人扱いにされてこの病院にイヤオーなしに自動車に乗せられて来たが★病院長にも診て貰ったが正気だと話しても聞いてくれない。どうか頼むから病院に来て俺を帰らす様に運動して出して下さい、お願いします」★封筒の裏書は住所と松沢病院内、小池薫とどこも乱れた文字はありませんでした。
 
 母も真喜三・兄、吉三・兄も思わぬ手紙の内容にサブローも驚きました。手紙の内容を詳しく知るために菊川町に居る高川幸二郎に問い合わせました。次の様に判りましたのです。小池さんは市ケ谷刑務所に難波大助が収監されたのを知り、差し入れの本数冊と面会を申し込んで暫く三十分位待たされておると、警視庁の特高課の私服が三人来て、「大逆犯人に面会とは何事だ、この馬鹿野郎」と怒鳴り、イヤオーなしに警視庁に引張っていかれ取調べも受けただろうし、酷い目にも遭ったろうし何日(そのうち?)松沢精神病院に狂人扱いにされて引渡された。末尾に難波大助の裁判も審理中なので、菊川町富川町の仲間に病院から出してくれる様に二、三人に(手紙が)来ておるが、今の処は動けません、と返事です。

 市ケ谷刑務所に面会に行った折も、長髪印法被に股引の姿であって水崎町の宿に見えられた時の姿であったであろうか。 


 小池さんから、吉三・兄に度々手紙で、この手紙を書くのに苦労して見付かれば取り上げられ、患者の面会の人に内密に頼んで差し出して貰うのも大変なのだ、今迄の手紙を読んでくれてはいないのか、なぜ返事も面会にも来てくれないのか、早く病院から出る様にしてくれ、頼むと書かれておりまして、吉三・兄もサブローに来る手紙を見せていました。更に手紙が来ていくら出しても、東京の富川町の友人にも出したが面会も返事も、一つもくれない、どうしてだ、俺は気も狂っていないし、この通り正気だ、早く出られる様にして下さい、と、四、五通位(来信)の時に吉三・兄は東京の米国伯爵の山崎今朝弥弁護士に詳しく手紙に小池さんの二通も添えて出して返事を待ちました。先生から早速返事を下さいまして、内容は小池君が松沢病院に狂人扱いを受けて入れられておりますし、こちらの二、三人の同志方へも同封の小池君の手紙も来ており、松沢病院に面会に行っておりますが、病院側は警察から面会はおろか、小池宛の手紙は一さい手渡しを厳しく禁じられており、難波大助事件は大逆事件として裁判が開かれていない現時点では下手に小池君に面会、或いは救出などに動くと、当局の捜査によって第二の幸徳等の大逆事件になり兼ねないので、小池君には気の毒であろうが、逸見君も大阪の方の自重して下さって暫く様子を見守り下さる様に、と山崎今朝弥法律事務所。

 小池さんに対する救出の糸口もこれでなくなり吉三・兄も北区若松支所の未決中のギロチン社・中浜哲を始め十数名の方に本の差し入れに面会に一日おきに通っており、紙函屋の手の空いた時はサブローも一緒に行っては、伊藤孝一、仲喜一、中浜哲、小西武夫、山田正一と中浜を除いては水崎町の宿の住人であり、サブローさんと親しく声を掛けた方々です。 

 小池さんから、そのニケ月目位に、三ケ月目位に手紙が来ましたが、数も次第に少なくなり、難波大助の絞首台に露と消えた後も二通は来ましたが、ちり紙に書き文字も大きく小さく乱れ書きで文章も又ちぢれちぢれて、助けてくれ、殺されかかっている、早く助けてくれと悲しみの中からの絶叫をちぢに乱れて書いたのでしょう。手紙のちり紙に書かれたのを読んだ時程小池さんのこの絶叫とも思える心情を想えば母も真喜三・兄、吉三・兄も三日間日中共に(ビラ貼りに)歩いたサブローも心の中に哀れさの寒々と悲しかったです。 


 大正十二年九月の関東大震災後の昭和二、三年頃までの間は、実に国家権力によって運動家を失っております。大震災の前年には戦線同盟の高尾平兵衛が反動の手先に射殺、大正十二年九月、亀戸署で軍部、警察合同による平沢計七、川合義虎外五名の銃剣で刺殺、麹町憲兵隊の軍部の大杉栄、伊藤野枝、悲しき宗一幼子の虐殺、大正十三年十一月十五日市ケ谷刑務所で難波大助絞首刑、十四年十月十五日市ケ谷刑務所で古田大次郎絞首刑、大正十五年四月十五日大阪刑務所北区若松支所で中浜哲絞首刑。

 国家権力の内務省警保局とその走狗となり手先となって働いた特高課と地方の各署の高等係りの猛り狂う時代でした。 


 小池さんから手紙も来なくなって、二年位の頃に山崎弁護士から手紙が来て、世間が落ち着いたのでかねて気になっていました小池薫君の松沢病院に出向いて面会を求めましたところ、小池薫なんて、その様な患者は当院にはおりませんとの話ですでに亡くなられていると思います。誠に申し訳なく残念ですがご報告に替えまして-山崎今朝弥とありました。


 小池薫さん、親友の墓山死赤=難波大助の市ケ谷刑務所の以後も絞首台上に消えた事すら知らず、狂人扱いされて正気を訴え、病院からの出られる事のみに、友人に、吉三・兄に救いを求め、心の絶叫をちり紙に書き連ね、数年間も亡くなる迄も正気であったろうか、国家権力者に病院の職員等に、いやそれ以上に訴えた友に、吉三・兄に悲しみの中に怨念を残して亡くなられたのであろうか。サブローは小池さんの憶い出を書く前に、九月の秋の彼岸に四天王寺に経木に俗名「小池春水事薫」と筆記して吉三・兄と共にお坊さんに読経して参ったので、何卒、小池薫さん春水、怨念を持たないで安らかに眠り下さい。

 ***************

 ●『アナーキスト群像回想記』  <了>。
                   
 
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