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●虎ノ門「事件」 古書散策。
 「難波君の私信は二十数年来筐底に秘めていたもので、これを世に出すべきか否かについて、終始迷いつづけてきたのだが、こんにち偶然の機会から公表することになって、地下のかれに対する義務をようやく果たしたような気がする。

 それはほかでもなく、かれの品性と思想を、こじつけや歪曲のまじらない、かれ自身の生のままの姿によって直接わかってもらえるからである。 (略)

 わたしの記憶に残っているかれは、無口な、どちらかというと控え目な男だった。いつも教室の片隅にすわって講義を聴いていた。 (略)

 読書欲の旺盛なことはおどろくばかりで、原書なども特に思想的なものはよくあさっていたようだ。当時海外のものは未紹介のものが多かったし、来ているものも大部の書籍となると買う金がなかったから、われわれが手に入れえたものは多くはパンフレット類だった。そして買えない本は図書館で、倦むところを知らなかった。下宿などでも別に悲憤慷慨するというふうではなく、一つのことを話すにも言葉少なに口を切った。

 そのかれが、二学期の半ば過ぎころから、パッタリ教室に現われなくなった。もともと自分で好きな本を読んでいる時間が多く、教室への出席はいい方ではなかったが、それが全然出てこなくなった。 (略)

 結局かれは自分の決意(思想と在学続行の矛盾を解決するため「廃学」する)を実行に移した。まもなく富川町の木賃宿の生活が始まり、踏み切ろうとして踏み切れないでいた社会運動への第一歩を印した。 その後のことはかれの通信が、かれ自身の言葉で正確に語ってくれるだろう 

 かれがテロリストであったことは議論の余地がない。 (略)

 かれの手紙のうちに最も頻繁に現われる言葉のひとつは<呪い>である。しかしそのことから、かれを冷徹無残の非人間のように考えることは非常な誤解のように思われる。無残どころか、かれはむしろ、わたしの知るかぎり、情宜に厚い、純情な、いつも人間愛にあふれた男だった。

 かれの社会的功罪は、人それぞれの観点から批判されるであろう。わたしとしてはただ、初めてありのままのかれを世に出すことをもって、地下の友へのひそかな餞(はなむけ)とするのみである。」

 **************


 上の小文に出会ったのは、三一書房・青春の記録シリーズの第3巻(全8巻)『自由の狩人たち』ー編集・解説 秋山清ー。


 蔵書の刊行は、1973年となっているが「新装第一版」とあり、今回念のため確認すると元本は1967年刊ということであった。事件から40余年後の難波大助の手紙の一般公開となった。

 ●難波君と私 と題した小文の著者は、難波大助の親友(早稲田第一学院同窓)・歌川克己氏である。

 歌川氏は「虎ノ門事件」後これら難波大助からの全書簡を押収されたが、事件直前の12月26日付けの手紙の「×革命家にあらざる歌川克己君ー」「俺は君に絶交状を送る」という文言によって有罪を免れる。

 ****************

 甘粕正彦との奇妙な因縁といえば満映時代の部下・大塚有章(1932年大森銀行ギャング事件)と難波家の縁戚関係があり、大塚氏はその著・『未完の旅路』(全6巻)で、第1巻に〔難波大助君のことー虎ノ門事件の真相〕と第5巻に〔甘粕正彦氏の人間像〕とを設けているが、注目すべき記載は皆無だ。特に、〔甘粕氏の人間像〕。

 ただ、〔難波大助君のこと〕で言う【デマ】についての感想は興味深いものがある(後述)。

 ****************

 さて、難波大助とその友人・同志のひとりに、小池薫というアナーキストがいた。

 難波大助の「配慮」で窮地を脱しえた歌川克己氏とは対照的な彼・小池薫氏の事件後の「運命」を読んでみる。


 ★笠原和夫・『破滅の美学』 幻冬舎アウトロー文庫 1997年より。 


  以下、笠原著に沿って、紹介する。

 笠原はギロチン社結成の主要メンバー、後藤謙太郎の『労働・放浪・監獄より』という詩集を読み、その「怨嗟、呪詛、反逆の呻き」にみちた詩に打たれ、「彼の詳しい生涯を知りたくなって、詩集の発行人である逸見吉三(へんみ・よしぞう)を訪ねる」ことにする。「逸見氏もまた【ギロチン社】の最年少の同人だった人である。」

 一間間口の逸見氏(当時71歳)の家=仕事場を訪ね当て、裸電球で暖房設備もない(11月の冷え込む日だったが)「失礼だが独房とも呼べそうな侘しい」部屋で笠原は四方山話を拝聴していた。

 「4時間ほど経って・・・逸見氏はひとつの体験談を語ってくれた」・・・

 ***************

 前述のように「虎の門事件」後、難波大助の背後関係、交友関係は徹底的に洗い出されたが、難波は周到・慎重な配慮で友人・同志との縁を絶っていたので、事件は難波の単独犯行と認定された。

 しかし、難波の周到な準備工作も思わぬところから水は漏れる。
 
 逮捕されて3日目、以前難波が深川のスラムに住み、中浜哲の自由労働運動に参加していたころ、難波の世話を看たことのある小池薫というアナーキストが、せめて弁当でも差し入れてやろうと、警視庁を訪れた。

 そしてそれきり、小池は消息を絶ってしまった。・・・

 1年ぐらいして、大阪に逼塞していた逸見氏のもとの、小池からのハガキが届いた。それには、
 「松沢病院(精神病院)に入れられている。おれは正気だ。助けてくれ」
 という内容が書かれてあった。

 逸見氏は早速山崎今朝弥弁護士に相談するが、時期が悪すぎる。いまは静観するしかないと説かれ、救出を断念せざるを得なかった。

 小池のハガキは、悲鳴のように、半月ごとに逸見氏のもとに届いたが、逸見氏は黙殺した。やがて断念したかのように、来信は絶えた。

 難波が処刑され、逸見氏もギロチン社事件で1年の刑を受け、悪夢がようやく消えかけた昭和10年前後、ふたたび小池からのハガキが舞いこんだ。やはり「助けてくれ」というものであった。逸見氏はそれでも動くことが出来ず、山崎弁護士がひそかに調べてみたが、松沢病院では、小池に該当する患者はいない、という返事だった。

 それが最後で、小池の生死はついに不明となった。【小池】という名前は通称だったので、本名も出身地もわからずじまいで終ったという。・・・

 ****************

   続く。
                      
 
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