カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30)-2
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30)-2 

 ★白雲荘主人・『張作霖』に描かれた虚虚実実の関係


 昭和三年、張作霖の爆死直後に公刊した白雲荘主人著・『張作霖』は、張作霖の鎮魂を願った伝記であるが、秘密にされた爆殺を告発する書とも見られる。同著によれば、日清戦争で清軍の傭兵となり日本の軍用電線を切断して日本軍に囚われた張作霖は、赦してくれた隊長の姓名を聞き、生涯の恩人として拝した。馬賊仲間に勇名を馳せた作霖は、日露開戦の前年(明治三十六年)、頭目仲間を語らい、馬賊宣撫に応じて新民府の知府(市長)だった増某に帰順した。当時の手兵は百五十名であったが、新民府の兵二百五十名を併合し、騎兵五百名の隊長となって新民府の兵権を掌握した。折から日露戦争が起こり、馮鱗閣などの馬賊が日本軍の特務部隊“満洲義軍”に馳せ参じたのに対し、官兵の張作霖は新民府の増知府と議して表面は傍観に徹し、裏面では親日馬賊軍に多大の便宜を図った。白雲荘主人の右の説は、近来仄聞する「陸軍特務出口清吉が、王文泰の名で馬賊となり、張作霖と親交して、能く調略した」との伝承とは矛盾しない。

 ところが巷間の張作霖伝奇に謂う所は、大分之れと異なり、作霖の帰順は明治三十八年で、東三省総督・趙爾巽に、それも形式的に帰順したと言う。清国の官兵ながらロシア軍に雇われた作霖は、日本軍をスパイして捕まるが日本軍人により助命され、以後日本に寝返ったと唱える所説は、今や教科書的史実となっている。しかしながら、その恩人の名も児玉源太郎とか田中義一とか言うがはっきりせず、田中本人の説明にもどこか照れ臭がる風があり、故意の曖昧化を感じる。白雲荘主人の謂う「他日の陸軍将官でしかも関軍都督府付となった」との経歴に当たるのは、宮崎出身の井戸川辰三と鹿児島出身の橋口勇馬で、共に高島鞆之助の腹心であったが、高島の引退後に上原勇作の配下になる。

 日清戦争に際しては、井戸川は近衛歩兵第三連隊、橋口は近衛歩兵四連隊に属したが、近衛師団の動員開始が遅かったため、大連には行ったが戦闘せぬままで台湾討伐に転じた。つまり、井戸川・橋口に関しては、逸話の謂うごとき状況はあり得ない。尤も、日露戦争時の井戸川少佐の軍歴は、三十七年三月北京発・特別任務従軍、七月満州軍司令部付、三十八年三月に新民府軍務官、十一月に関東総督府付で、橋口少佐も三十七年一月諜報のため満洲派遣、以来特務活動に携わって馬賊を指揮し、三十九年三月に関東都督府付とあり、いずれも張作霖との接点はあり得る。要するに、白雲荘主人の日清戦争説よりも、巷説の日露戦争説の方が真相に近いようで、救命の恩人を井戸川と観る通説が妥当である。にも関わらず、私(落合)が巷説よりも白雲荘主人の説を重んじたいのは、『張作霖』の緒言に、「本書は自分が従来張氏を中心に、東三省のあらゆる方面を直接、間接に研究して・・・」と明言するのが第一の理由である。第二は、出版時期の昭和三年にはまだ多数の関係者が生存していたから、関係者の注目を浴びることが必至のこの著書に、丸きりの嘘は書くまいと思うからである。つまり、これには深い訳がある筈だ。

 特別任務に従軍した井戸川・橋口の両少佐は、対露諜報活動の際、王文泰(出口清吉)ら日本人馬賊を通じて満人馬賊を使っていたから、張作霖がたとい露探であったにせよ、王文泰に頼まれて二重スパイとなったとも考えられる。即席の官兵となった張作霖が、王文泰の頼みで、元の馬賊仲間を露軍に潜入させた処、その元締めとして作霖自身が日本軍に睨まれ、咎めを受けた事だって大いにあり得る。それならば助命はむしろ当然で、張作霖に二重スパイを依頼していた事実は軍事機密として、日露戦が終わっても永久的に隠し通さねばならないのである。

 張作霖が大正末年に北京政府入りして、中華民国を代表する立場になり、思う儘にならなくなったのを忘恩反日の徒と観た日本陸軍が、故意にその過去を貶める巷説をこさえて流したフシもある。目的は爆殺を正当化するためで、それならば、緒言の「張作霖の一生を叙し、併せて東三省の天地を弔う意味で執筆した」という本意は、陸軍が被せた汚名を濯ぐと共に関東軍の愚行を告発する趣旨とみてよい。白雲荘主人の正体は未詳だが、茂丸が台湾銀行総裁に就かせた中川小十郎は、別荘を白雲荘と称した。台銀総裁として、茂丸の台湾政策に大いに貢献した中川は、出自が丹波弓矢隊で、丹波地下衆と観られるから、もし白雲荘主人が中川ならば、張作霖と茂丸の関係の証左とみて良いと思う。


 ★満州覇権・奉天軍閥形成へ踏み出した張作霖の大出世


 日露戦役後、奉天巡防営務所総弁として赴任した将軍・張錫鑾に良馬を贈った張作霖は、直ちに連隊長(中佐)に相当する巡防五営の紐帯官に挙げられ、張作霖自らが中営の営長を兼ね、内蒙古に近い鄭家屯に駐在した。他の営長は、一営が湯玉麟、二営が張景恵、三営が張作相、四営に鄒芬という顔触れであった。元は馬賊の頭目連であるが、後年には満洲国国務総理に就く張景恵を筆頭に、満洲国で大出世した。

 その後張作霖は、軍事費不足に悩む張錫鑾に銀一万両(現価1。6億円)を贈り、奉天前路巡防隊の統領に挙げられる。以後作霖は、実質的な東蒙古の一部たる洮南府に移り、孫列臣の二営を加えて都合七営、三千五百名の長となる。明治四十年六月、北洋軍閥の統帥袁世凱が、東三省総督に送りこんだ腹心の徐世昌は、将軍・張錫鑾の推挙で、奉天で猖獗を極める蒙古馬賊の討伐を張作霖に命じた。之れを出世の好機と見た作霖は大いに奮戦、一年がかりで頭目・パイオンタライを殪し、赫々たる戦果を挙げて、四十一年七月十日に凱旋した。以後、奉天の治安維持者として張作霖の声望は日増しに高まった。徐世昌が奉天を去った後、錫良を経て、東三省総督に趙爾巽が再任された時、辛亥革命が起こった。革命の波は満洲にも押し寄せたので、趙総督は作霖を洮南府から奉天に転勤させ、城内外の警戒を命じる。奉天の治安維持を一人で担った張作霖は、革命党を弾圧し、張榕以下の領袖を殺害したので、その権威は趙爾巽を凌駕するまでになった。

 革命の翌年が民国元年、即ちわが大正元年である。兵制は日本式に改まり、張作霖の率いる奉天巡防隊は、九月十九日を以て第二十七師団に改組、陸軍中将に任じられた張作霖は二七師長に補された。大正三年、張作霖は奉天の兵権を完全に掌握したうえ、広大な耕作地を所有し、商工業・金融分野にも参入した。穀物商社、精油所、質屋、銀行を営んだ財力は、すでに百万両(テール)と言われたが、これは日貨で百数十万、現在の物価で百数十億円に相当する。こうして、満洲の政治的軍事的空白を埋める地域覇権、奉天軍閥の形成に向かって踏み出した張作霖は、大正四年日本の対華二十一箇条要求に対する強硬反対を大総統・袁世凱に申し入れ、そこで懐柔のため勲四等一等子爵に叙せられた。

          
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(30) <了> 


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