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●疑史(第57回) 甘粕正彦の暗号解読
 ●疑史(第57回) 甘粕正彦の暗号解読 

 『周蔵手記』の甘粕記録の十一回目は大正十二年九月末日条である。周蔵は、その条を「何ト書ケバ良イカ分ラヌガ、大杉榮終ル」と始めた。続けて「甘粕サンガ全テヲ被ラル。自分ノ知ル限り 無政府主義ハ 下向キニナリツツアル。マフ長クハ続クマヒト 聞イテヰタ。敢ヘテ甘粕サンガ先ニナリ ヤル必要ヲ良シトシナイ位ハ 自分ニモ分ル」とある。無政府主義者大杉栄が、愛人・伊藤野枝とその甥・橘宗一少年と共に、震災下のどさくさの中で憲兵隊に殺されたが、実行役でない甘粕がそのすべてを被ったことを、周蔵は当時から知っていた。事実を具さに見たからでない。「無政府主義は既に下火で、大杉のごときを、甘粕が敢えて先走りして殺る必要のないこと位、自分でも知っていた」からである。だからこそ、この暗殺は訳ありと考えて、右の書き出しとなった。

 読者諸賢にはいかがであろうか。この洞察の有無こそ、洞察史観(俗流は陰謀史観と呼ぶ)と資料史観(私は通俗史観と呼ぶ)を分けるものである。一介の不良文化人で、社会的には殺す必要なぞさらさらない大杉を、甘粕が敢えて殺したことに事件の鍵がある。結論から言えば、
大杉暗殺の真相は「上原と甘粕が共謀し、震災下のドサクサを利用し、憲兵隊を使って大杉を殺らせた」のである。その理由は、「大杉が後藤新平の依頼を受けて渡仏し、両人の秘密結社関係を調べて帰国してきた」ことに尽きる。昭和四年別紙記載によれば、伊藤野枝も、大杉の指令で青山教会に潜入してポンピドー牧師を洗っていたというから、単なる巻き添えではなく、標的であったのである。

 甘粕が全てを被ることを前提に、上原元帥→石光憲兵司令官→甘粕憲兵大尉のラインが、憲兵隊に暗殺を実行させたのが、事件の本質であった。憲兵たちが暗殺を実行している間、甘粕本人は大杉と伊藤の家捜しをしたと仄聞した周蔵は、「おそらくその時に、後藤が大杉に与えた何かの証拠を、甘粕が発見した」との推測を、昭和四年別紙記載に記している。挙世滔々無政府主義に流れんとする危険を、甘粕が捨身の一殺を以て食い止めた、などと世間が思い込んだのは、偏に通俗史観による大杉の過大評価の影響である。通俗史家だけでなく、陸軍全員が甘粕に借りを作った気分になったのは呆れるばかりであるが、それを予め読み切っていた上原には感嘆する外ない。

 十二回目は同年十月条である。「初メテ閣下二伺フ。甘粕サンハ ダフナリマスカト聞ク。“心配ナカ。四、五年ノ辛抱デアラフカ”ト云ハル。加ヘター言デアル。“ワシノ目ノ黒カ内ハ 何トデモナリモス”』。陸軍トップの上原は、世間体があるから数年の服役はやむを得ぬと言いつつ、一言を加えた。「濃がその気になれば刑期など何とでもなる」とは、直属特務たちを安心させるための言であろう。続いて
「子供モヤッタト悪ク云フガ、人ノ目二戸ハ立タン。云ヒタカ奴ハ 云ハセルシカナカ。然シ、イツノ世デモ 軍ノヤル事ハ同ジデアル。ドンナ争ヒデモ 終結スル時ニハ 細ンカ命ヲ奪フハ 決リノコトデアル」とは、少年の殺害を軍事学的に正当化した強弁である。その後したり顔で「無政府主義ハコレデ終リモッソ」と言ったが、無政府主義との攻防も強弁で、大杉に対する私怨のすり替えであるが、周蔵は当時そこまで知らない。「自分ハコノ言語デ 甘粕サンガ 誰二従ッタカヲ判断シタ。仕方ナイ。自分モ何時 何ヲシナケレバナラナイカト覚ユ」。殺害が上原の指令であると覚った周蔵は、自分もいつか上原の命令の下に何かをせざるを得ない立場を自覚し、一種の幻滅に陥ったのである。

 甘粕記録の十三回目は、同年十二月末日条にある。「甘粕サン懲役十年トノコト。閣下云ハルニ長クトモ四、五年トノコトデアッタガ 残念。恩赦デアレバ良イガ 十年ハ長イ」と上官の不遇を嘆いた周蔵は、「思ヘバ 罌粟(ケシ)ノ栽培カラ収穫、別ノモルヒネヲ作ルタメノ煎ジ、山歩キ。ソノ間二畑ヲ廣ゲ 周サンノ所 呉先生ノ所、加ヘテ外国語學校ト ヤッテヰルコトヲ 非常二馬鹿ゲテヰルヤフニ思ハル」と、止むことのない特務活動から滲み出る無常感を吐露した。任務を並べた中に薩摩治郎八偵察の一件が抜けているのは、「フランスの事なら自在」と嘯いた甘粕に任せたからだが、その甘粕がこうなってはどうにもならぬ。また、佐伯祐三支援を列挙任務のなかに加えていないのは、それが上原の直命でなく、大谷光瑞師からの依頼だったからである。

 甘粕記録の十四回目は、大正十三年正月条にある。「甘粕サン 千葉ノ刑務所トノコト。相談事アリ、面会ノ方法ヲ調ブルコト」。懲役十年の判決を受けて服役した甘粕正彦は、獄中でも、上原元帥の意思を周蔵に仲介する「中途半端ナ上官」の関係をいまだに保持しており。周蔵に面会に来いとの指令が届いた。これを受けた周蔵が、千葉刑務所に訪ねると、甘粕は元気で面会を大層喜んだ。

  十五回目は同年同月末日条で、右の面会の状況を記したものである。「甘粕サンヲ訪ヌル。元気サフデ大層喜バル。“時間ガアッタラ ヰラッシャイ”ト云ハルル。有難イ。救ハル」。獄中でも甘粕は明るく堂々としていた。「時間があれば何時でも面会に来なさい」と語りかける上官の快活な態度に周蔵は救われた。「話シハ。“佐伯ガフランスヘ行ッタカ”ト聞カル。去年十一月頭頃 行ッタト云フ」。甘粕の用件は佐伯渡仏の件で、大震災で渡仏用荷物をすっかり焼失した佐伯夫婦は、改めて調達し、十一月初めに渡仏した。一昨年の大正十年十一月末日条で、佐伯の遊学に関して段取りを整えることを請け負った甘粕が逮捕され、その後どうなったのか、周蔵には分からない。しかし逮捕の直前まで佐伯渡仏と薩摩治郎八偵察の件を進めていた甘粕は、獄中に在ってフランスからの連絡を待っていたのである。「知ラナイ人間カラ 手紙ガ来ルカモ知レナイカラ、ソノ時ハ 持ッテヰラッシャイ」とは、フランスからの連絡が周蔵宛に来るの意味で、「行ッタ人間ノ様子ニヨッテ 手紙ハ来るカラ 疑問ナクバ来ない」との説明を付け加えたが、「行ッタ人間」が、佐伯か薩摩かははっきりしない。どちらとも取れるからである。

 十六回目は大正十四年三月末日条である。甘粕入所から一年以上経つ。「二十日過ギ 小菅村二移ル前二 幡ケ谷二戻り 朝一番デ千葉二訪ヌル。甘粕サン 元気サフダ。相変ラズ色白ノ 鉄ブチノ眼鏡ハ同ジデアルガ 以前ノ鼻ノ下ノ短イ髭ハ 剃ラレテヰルシ 丸坊主デアルカラ若ク見ヘル。兵學校ノ學生ノヤフダト云フト ソノツモリデ ヰマセフト云ハル」。一年前に甘粕が言っていた手紙が、やっと周蔵に届いたので、それを持参して面会しに行った。手紙は暗号によるもので、甘粕に見せたら解読法を教えてくれ、解読そのものは宿題にされた。帰途、甘粕の指令通り、憲兵隊に立ち寄って手紙を見せたところ、押印してくれた。
つまり治郎八内偵は、憲兵隊も関与していた。

  以下に解読方法の一端を記す。フランスからの手紙(現在私・落合の手元にあるが)は、幡ケ谷九六番地の周蔵自宅宛である。「私宅宛で地番を書くのは差出人が公的人物でないとの意味」で、もしこれが「中野救命院宛ならば、公的人物を意味する」と解読する。「地番無し」は「不安定・判らない」ことを示唆する。「署名ネクルハ 武田内蔵丞ノ同意語?」とは周蔵の推察で、武田は大正五年に周蔵が欧州に渡った際の借名だから、それと同じことで、差出人がネクルの名を借用したと察したわけである。手紙には便箋と名刺が入っていた。
「名刺ハ台紙ツキニテ 張リツケテアル」が「台ツキ」に意味があり、「台紙ガ名刺ヨリ大分大キイ。台紙ノ裏、上ノ方二説明ガアル」のは、「親方命令者ノ意」で、「自分ハ同ヂ命令下ノ人間デアルノ意」と解する。「名刺ノ名前ハ本名 所番地ハオソラク正シイ」が、これは「連絡ヲクレト云フ意」と解読するのである。以下は略する。

 名刺は手書きで、Foujita 17rue Henrl Martin Passy 16e とあり、その下に、Auteuil 16-29とある。差出人は紛れもなく画家・藤田嗣治で、「親方命令者」が上原で、「自分ハ同ヂ命令下ノ人間デアル」ことを連絡してきたもので、台紙に描かれた禿げ頭の漫画が、明らかに上原元帥を指している。便箋はドクター・ネクルと署名し、内容はドイツ文であるが、わざわざ独語を使うにも意味がある。「学生級ノ覚束ナイ独語→外国人相手デアリ、言葉ハ通ヂルガ 重要視サレテヰナイ。ツマリ 利用サレテヰル」と解読する。内容については「自分ハドクターデアルヨ→観察ハ怠ラナイヨ」「佐伯ナル人物二会ッタヨ→目的ノ人間ノコト 観察シテルヨ」「病気デアルガ軽イ→ソチラノ考へ通リデアルガ マダ序ノ口」との意味で、要するにこれは、ネクル医師が佐伯を診察したと装って、藤田が薩摩治郎八の動静を報告してきた暗号手紙であった。

 七回目の甘粕記録は同年三月末日条で、「例ノ宿題ハ百点ヲ取ル」とある。暗号文解読の宿題を終えた周蔵は、甘粕に見せるため千葉刑務所に行った。「ソノ場デ 追ッテ来タ 次ノモ開ク。ヤッテミナサイト云ハル。三十分ハ掛ッタト思フ。然シ満点ヲ貰フ。コレデ コノ問題ハ自分デヤルヤフニ云ハル」。宿題で百点を貰った周蔵は、持参した二回目の手紙を甘粕の面前で開封した。やってみよと言われて三十分以上掛かって解読したところ、満点をくれたが、今後は自分でやるようにと指示された。当時の監獄で、囚人の面会時間がどの程度まで許されたのか未詳だが、甘粕に対する千葉刑務所の処遇は並外れて寛大なように思える。すべて背後の陸軍と憲兵隊に対する遠慮であろう。「先ノ人間ノコト 聞キタイガ 問ハズ。トニカク質問ハ シナイコトダ」とあるのは、周蔵は差出人・藤田嗣治に強い興味を抱いたものの、甘粕に尋ねることを我慢したのである。『周蔵手記』には、この他に、解読例を二通ばかり記すが、詳細は省略する。その中に、薩摩が帰国するとの内容がある。

 同じく三月末日条の続き。「閣下ヲ訪ヌルト 七月カ八月二昇進スルラシイ軍人ノ 内定ノ前祝ヲシテヰタ(中略)。甘粕ノ所二行キモシタカ ト云ハル。正直二云フ。気折レシタ気持ガ 立チ直ルト云フ。迷フコトデモアルノカ ト聞カル(後略)」。上原邸に行くと、部下の軍人の進級祝賀会をしていた。上原から、甘粕に面会に行ったかと聞かれた周蔵は、甘粕さんは獄中でも気迫に満ちており、自分の萎えかけた気分が引き締まる、と正直に言った。

 甘粕が意気盛んだったのは、安心感が高まったからであろう。何しろ、上原と甘粕のトリックに、世間がまんまと嵌まり、大杉暗殺の真相を誤解してくれたので、自分たちの秘密結社関係がバレないとの確信がしだいに固まってきたのである。通俗史観に立つ巷間の甘粕伝奇が、獄中の甘粕の意気消沈の様子を、さも見たかのように語るのは、洞察に欠けるというしかない。彼らは、甘粕の『獄中に於ける予の感想』に騙されながら、翻って世間を騙していることになる。

 ●疑史(第57回) 甘粕正彦の暗号解読 <了>。
                
 
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