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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)-2  ◆落合莞爾  
 
 ★杉山茂丸、堀川辰吉郎へと繋がる大江山衆・出口清吉  

 王文泰こと出口清吉のその後は、出口和明が『出口王仁三郎入蒙秘話』に述べるが、会員制情報誌『みち』に平成二十年九月一日号から連載する栗原茂の「大江山系霊媒衆」が、背景を詳細に解説している。甚だ難解な内容だが、これほどの超深度にまで達しないと、歴史の闇は見透かせない。超深度と呼ぶのは、王仁二郎曾孫の出口和明でさえ知らない事実を述べるからであるが、表現が晦渋なのは、真相の全面公開を憚って当座は黙示の形にしたものと思う。

 その中の一節を抄出してみる。「出口ナヲの次男・清吉は、並みいる〔草〕と異なり、少年期に表芸から裏芸まで、徹底して仕込まれていく資質を持ち合わせることから、杉山茂丸ラインを経由して堀川辰吉郎に達していたのだ」。これは「清吉が少年期に、諜者としての表芸と裏芸の徹底的な習練を受けていた」との意味である。出□和明が一族と周辺の伝承を拾って理解した処とは全然異なるが、それこそ真相の深さを示唆しているのである。続けて「さて史家としては、出口の氏姓鑑識が必須の心得であり、大本教を論ずるには、何故に霊媒衆を出口姓としたのか、また王仁三郎(上田鬼三郎)を養子とした背景にどんな企みが潜んでいたのか、などの問題とともに、最大の課題は大江山系シャーマニズムを解く能力が問われよう」と言う。つまり、清吉を生んだ出口家の氏姓を解いて初めてすべてが分かると説くわけで、「ナヲの出た綾部出口家も、王仁三郎の出た穴太上田家も、共に大江山系シャーマニズムの霊媒家系」たる事の意味を強調するのである。さりながら、スサノヲ信仰の大江山系は霊媒系としては亜流であって、本流は役行者・小角の流れを汲む修験道であると栗原はいう。

 右(上)に抄出した一節「杉山茂丸ラインを経由して堀川辰吉郎に達していた」との指摘は重大で、堀川-杉山の行状が日本近代史の底流を規定することを意味するが、一般には理解の外だろう。諸賢の中には、杉山茂丸はともかく堀川辰吉郎の名を出すだけで、眉を曇らし目を背ける向きも在ろうかと思う。歴史感覚が学校歴史の延長上から抜け出ぬ以上、詮ないことだが、そろそろ気づいて貰いたいものである。本稿はこれまで繰り返し、杉山の実像を追ってきたが、杉山の根底が堀川辰古郎に繋がっていることを、今後は明らかにしていきたい。因みに、東条英機と陸士の同期(新制十七期)で陸軍少将に昇った古野縫之助の子息に、古野直也という作家がおられる。この方から私(落合)が幾つか教わった中に、堀川辰吉郎の後妻になった叔母の話として「堀川の銀行口座の残高は常に二百万円で、その月に引き出したのと同じ金額が、月末に何処かから振り込まれ、残高は常に二百万円を維持していたが、昭和四十一年十二月に堀川が亡くなると実行されなくなり、未亡人が問い合わせた処、「あれはもう終わりました」と言われた。相手は日本銀行総裁・宇佐美洵と伺ったが、疑う余地の少ない話で、堀川辰吉郎が只者でないことはこれだけでも察しが付くであろう。

 出口清吉が「並みいる草とは異なり、少年期に表芸から裏芸まで徹底的に仕込まれた」のは、個人的資質もさることながら、出自の大江山霊媒衆が杉山茂丸-堀川辰吉郎ラインに繋がっていたからである。前掲の栗原「大江山霊媒衆第十二回」に拠れば辰吉郎は嘉仁親王(大正天皇)御降誕の翌年すなわち明治十三年に京都堀川御所に降誕した貴公子という。京都行幸の折に使用さるべく造営された堀川御所で生まれ、そこで幼少期を過ごしたと知れば、辰吉郎が姓を堀川と称した次第も理解できよう。その御血統については、辰吉郎が孝明天皇および岩倉具視と深い関係にある、とだけ申し上げておく。後は栗原氏独自の晦渋な解説から、読者が想像力と推理を尽くして真相を汲み取るべき段階であろう。

 ★軍事スパイ・日野強の☆『伊犂(イリ)紀行』を読み解く

 出□清吉と陰で協働した陸軍軍人が日野強である。慶応元年旧十二月(新暦一八六六年一月)に伊予国小松町に生まれた日野は、県立師範学校から陸軍教導団に入り、陸軍士官学校に進み、旧制士官生徒第十一期生となる。同期には菊池慎之助(教育総監)、奈良武次(侍従武官長・男爵)の両大将のほか、関東都督府参謀長・西川虎次郎中将、初代奉天特務機関長・高山公通中将など、満洲に縁の深い将官が多い。軍事スパイとして有名な石光真清も同期生徒二百七名の内だが、日野の文にも石光の手記にも、互いの名を見ないように思う(未確認)。十一期士官生徒は、明治二十二(1899)年七月二十六日に卒業し、同日付で陸軍歩兵少尉に任官した。石光は即日近衛歩兵第二連隊付少尉に補せられたが、日野のついては「それから三年間ほどはどこに居たのか明らかでない」と日野の労作『伊犂(イリ)紀行』末尾に付した東京外語大教授(当時)・岡田光弘の解説は言う。岡田によれば、「防衛庁防衛研修所戦史室が親切に調べてくれた履歴」にも出て来ないのだから、そこには或いは特殊事情が存在するのかも知れぬ。大尉・中隊長までの日野の軍歴は省略するが、特務活動の始まりは明治三十五年七月一日参謀本部出仕として満韓国境に派遣された時で、義州方面を根拠にして清人スパイを使役して諜報任務を果たした。三十七年二月の日露開戦後は、黒木第一軍に属して通常の任務に服し、十二月十四日付で少佐進級、歩兵第三十連隊隊長になった。前述の橋口勇馬が開戦直前に渡満して諜報活動に就き、開戦後にも辺見勇彦ら馬賊を指揮していたのとはやや異なる。

 日野少佐が三十九年七月一日付で参謀本部附となった理由は、『伊犂紀行』の第一頁に「明治三十九年七月下旬、予はその筋より新彊視察の内命を受けたり」と記す通り、中央アジア偵察のためである。「その筋」を岡田は、「もちろん、これは参謀本部の命令であった」と解説するが、およそ軍人は指揮命令系統の中で活動するのが当然であり、参謀本部の命令を「その筋」などと持って回る必要はない。わざわざ「その筋」と言ったのは、外部からの要請を受けた参謀本部の内命と観るべきである。ともあれ、九月七日東京を発った日野は、二十日に北京に着いて準備を整え、十月十三日に北京を出発、四百七十四日に及ぶ大旅行を遂げ、四十年十二月二十五日に帰京復命した。翌年、明治天皇から召されて御前講演の栄に浴したことが、「その筋」の那辺なりしかを物語っていよう。

 その後の日野は、四十二年六月中佐に進級し、近衛歩兵第二連隊附となったが、四十五年三月袁世凱が中華民国臨時大総統に就任するや、六
月八日付で「陜西省方面二到り諜報活動二勤務シ、特二該方面二於ケル共和政反対党ノ動静ヲ偵知スルヲ勉ムヘシ」との命令を受けて、陜西省巡撫升充ら宗社党の動向を偵察した。大正二年に帰朝した日野は、間もなく大佐に進級して予備役編入、以後は山東省青島を住まいとし缶詰業や煉瓦工場を営んだが、『東亜先覚志士記伝』に「支那問題に関する志は依然として盛んで、一方には宗社党の士と往来し、一方には革命の志士と交わり」とあるのを見れば、いまだ全く国事を辞めてはいない。八年ころ既に健康を害した日野は、「そのころから大本教の教旨に共鳴し、青島における事業をなげうって丹波綾部に帰住し、大本教の幹部としてさらに新生涯に入ったのであったが、大正九年綾部において長逝した」(前掲)とある。しかし栗原「大江山霊媒衆・第一回」によれば、これは陸軍が出口玉仁三郎の入蒙を先導するため、満蒙事情に通じた日野を綾部の大本本部に送り込んだもので、真の目的は、王仁三郎とまだ見ぬ義兄・出口清吉との邂逅を実現するためであった。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)  <了>。 

 **************** 

 ☆『伊犂紀行』の紹介を少々。
 
 同書、上巻<日誌の部>は上の通り、明治40年12月25日の「帰京復命す。」

 で終わるが、その前日24日の記は、以下の通り。

 「神戸着。先着の安藤君来り迎う。午食を共にし、鉄路京都を経、
  西本願寺に大谷(光瑞)伯を訪い、長安における謝意を述ぶ。」

 その長安での「大谷伯との邂逅」(明治39年10月28日)は、次のようであった。(一部略)

 「予(日野)の陜州に着するや、たまたま本派本願寺大法主・大谷光瑞伯、同尊由師の一行(略)が布教かつ歴史研究のため、西安すなわち長安に向うに邂逅し、その後同地に到るまで相前後せり。・・・略・・・(大谷光瑞伯は日野に対し「多大の同情を寄せら」れ、また光瑞自身のカラコルム探検の体験談話、その経験からの携行品についての注意は日野にはありがたかった。)・・・
 この邂逅は、空谷の跫音を聞くが如く、予は痛く伯の懇切に感激せり。伯の好意は、これに止まらず、カシガル駐在の英国貿易事務官・マカートニ氏を初め、英領印度における紳士への紹介状を与えられ、かつ写真器械一組、時計一個をも貸与せられたり。特に記してここに伯の好意を謝す。」

 また、同書刊行時の<序>には、

 「明治四十二年四月 陸軍大将伯爵 奥保鞏(おく やすかた) 撰」とある。 

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に拠れば、

 ・・・奥は佐幕藩(豊前小倉藩)出身であり、しかも長州藩と直接戦火を交えた小倉藩士でありながら、陸軍内で異例の抜擢を受け続けた。これはひとえに奥自身の指揮統帥能力及び古武士に例えられる謙虚な性格によるものである。

 日露戦争において、軍司令官や参謀長人事は薩長出身者がほとんど独占したが、「奥だけは外せまい」というのが陸軍部内の一致した見方であった。4人の軍司令官のうち、参謀なしで作戦計画を立てられるのは、奥だけだった。奥は実は耳が不自由で、司令部では幕僚と筆談でコミュニケーションをとったとのことだが、奥の能力に影響を及ぼすことはなかったらしい。・・・

 とあるが、

 ・・・幕末は幕府側に立つ主家に従い、長州征伐に参加。明治維新後、陸軍に入営。

 明治4年(1871年)に陸軍大尉心得となり、以後佐賀の乱の平定、台湾出兵、神風連の乱の平定に参加。

 明治10年(1877年)の西南の役では陸軍少佐として熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となり、2月21日からの熊本城籠城戦に参加。4月8日未明、歩兵1個大隊を率いて薩摩軍の包囲を突破し、薩摩軍の後方に上陸した政府軍(衝背軍)との連絡に成功した。・・・

 という複雑な履歴もある。

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