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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)-1
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)  ◆落合莞爾
 
 ★辺見勇彦、牧口辺見、出口清吉、日野強 大陸で暗躍する「草」たち
                      
 ★馬賊「東亜義軍」を率い大陸を疾駆した辺見勇彦

 前月号で触れた明治三十三年八月十三日付の『京都日出新聞』の記事中、従軍記者の話に「軍事探偵としては、王文泰に劣らないのがもう一人いる」とあるのは辺見勇彦であろう。辺見勇彦の父・辺見十郎太★(嘉永二年~明治十年)は、西郷隆盛・大久保利通・高島鞆之助らと同じく鹿児島城下で下級武士の住んだ三方限に生まれた。十郎太は性剽悍で、戊辰役では十八歳で小隊長となり、戦功を挙げて 名を馳せた。四尺四寸の大刀を自在に揮い、身長六尺、顎髭は悉く赤かったとなれば、他の薩摩功臣と同じくポルトガル鉄砲鍛冶が混じった血筋で、日本版マカイエンサと見て良い。私淑する大西郷に従って上京した十郎太は、四年七月御親兵に応じて初任大尉、六年に職務上の失敗で免官された後、帰郷する西郷に伴して鹿児島に戻る。

 ★ブロガー註:辺見十郎太については、昔こんなエピソードを読んだ。

 『明治の群像3』-明治の内乱 谷川健一編 三一書房 1968年刊 

 コラム・15(p209)<辺見十郎太とひえもん取り>というもので、以下のようにあった。

 作家の里見氏が〔ひえもん取り〕のことを書いておられる。お父さんが薩摩藩士であったから聞かれたのであろう。これは藩の重罪人を近郊の境瀬戸の刑場で処刑するときに屈強の若侍達が近くに居て、処刑されると罪人のところに飛んで行って耳、鼻などにかじりついて試し斬りの順番を得るのである。似たようなことを学生時代に西郷隆盛以下を祀る南洲神社の例祭の折、(九月廿四日の城山落城の日)、薩軍生残りの古老から聞いた。それによると辺見さんは薩軍随一の豪傑で、味方が退却すると逃げないように斬り殺したといわれているが、実際はそれより乱暴だった。逃げたものを斬っただけでなくその生き肝を私等部下に食べさせて、お前達も逃げるとこのようになるぞといわれたのにはびっくりしたものだ。辺見さんはそのような気性のはげしい人であったとその従軍した古老は語ったという。ある友人から聞いた辺見十郎太の一面である。

 ************

 この機会に次のコラムも紹介しておこう。

 17 大山綱良と遺書

 鹿児島県令大山綱良は長崎裁判所に送られ、城山落城の数日後の九月三十日処刑された。この大山が獄の誰かの便で家族に送った小さな字で言いた紙片を大きな紙にはりつけてあるのが遺言である。

 「墓所 右松原神社境内エ御建立給わるべし。但し世の治て後然るべし。
 沖ノ村屋敷小クラ建立ノ事大松の下へ」

 この大松の下に墓碑の図を描いているが、この松には蝉も止っている。死を前にして落着いた心境であろう。
 「老体の姉三人これあり候間藤安よリ受取の内にてもお郡合を以て金二百円宛直に御渡形見に御送り下さるべし。」

 年老いた姉達を大事にする考えが形見わけのことを遺言している。
 「五十年来、世に生れ生涯苦心の身終にかかる身に終り候儀数度の戦場怨霊の報いと何れも御明らめなさるべく候、只々死に近き遺言を差送り候也」

 大山のような剛胆な大物であってもこのようになったのは数度の戦場で殺した怨霊の報いと考えているようである。これは人斬り半次郎といわれた中村半次郎が夜怨霊にうなされていたというのと一脈通ずるものがあるようだ。
 (鹿児島市立美術館長・坂元盛愛氏御教示による)

 ***************

 その〔人斬り半次郎〕桐野についても。

 14 桐野利秋の「京在日記」

 これまで「教養がひくい」「自分の名がやっと』書けるほどの あきめくらであったと」いわれる桐野利秋の曰記が上の写真で ある。字もたしかであるし、曰記中に和歌や漢詩なども、もの しているのである。また彼の画いた絵もあるが、多趣味な人物 であったようだ。幕末期の武士、明治の軍人としては普通以下 の教養ではないと思う。また曰記は慶応三年の九月朔日から十二月十曰までの約百曰間のものであるが内容も興味深い。信州上田藩士赤松小三郎は薩藩に招かれ英式兵学を教えていたが、
 慶応三年九月三日京都において暗殺されたが、一説に薩藩士の 手に掛るという(『鹿児島県史』)とあるが「京在曰記」の九月 三曰の条に[上田藩赤松小三郎此者洋学を治候者にて去春よリ 御屋敷に御頼に相成り・・・今度帰国之暇申出候に付段々探索方 に及候処弥幕奸の由分明にて」とあり、途中行き会ったので田代氏と追い掛けて遂に天誅を加えている。この曰記で桐野がはっきり暗殺したことがわかる。人斬り半次郎と呼ばれる通りである。日記には彼と連絡のあった人名が多く出てくるが、十一月十曰土州の坂本竜馬に行き逢っている。十八曰にはその坂本が暗殺されたことを聞いて墓参に駈けつけているなど、時期が慶応三年の大政奉還、王政復古の大号令の直前であるだけに興味深い。

 **************

 寄り道はこの辺にして、吉薗周蔵の手記(29) に戻って、 続ける。                   


 辺見勇彦はその(十郎太)の長男で西南役の最中に生まれた。昭和六年刊の自著『辺見勇彦馬賊奮闘史』に身上の記述があるらしいが、目下未読のため、以下は推察を以て進め、後日必要に応じて補正したい。勇彦は陸士の入試に落ちて軍人を諦め、日清戦役末期に満洲に渡ったというが、明治十年生まれの年代は陸士新制(士官候補)九期に該当し、荒木貞夫・真崎甚三郎・本庄繁・阿部信行ら大将六人を輩出した当たり年である。幼年学校ならば二十六年に入校、中学年ならば二十八年八月の陸士入試に合格せねばならぬ。日清戦争は二十八年四月に講和したが、その後に台湾土匪の平定が本格化したから、台湾副総督・高島鞆之助が匪賊掃討を終えて帰国した二十八年十二月を以て実質的な終戦と見ることもできる。これからすると、辺見勇彦は二十八年八月の陸士入試に失敗して、間もなく満洲に渡ったものであろう。

 高島鞆之助の腹心宇都宮太郎(後に陸軍大将)が遺した『宇都宮太郎日記』の明治四三年二月二十八日条に、「満州長春にて実業に従事せる辺見勇彦来衙(元と高島中将の書生たりしことあり。二十七・八年戦役には馬賊を率て功あり。目下は長春に賭場を開き成功、何か御用に立ちたしとの申出なり)」との記載がある。高島鞆之助は二十五年陸相を辞任して以来、枢密顧問官の閑職に在った。実際は薩摩ワンワールドの総長に就いたがそれは世間極秘であった。ところが、二十八年八月二十一日に突如現役中将に復帰し、台湾副総督に補せられて渡台する。高島はそれまで勇彦を書
生に置いて受験準備をさせていたが、八月の入試に勇彦は落ちた。勇彦が高島の後に上原勇作の書生になったというのも、高島が台湾赴任にあたり勇彦の身柄を腹心上原中佐に預けたのであろう。日清戦役で第一軍参謀副長を務めた上原は二十八年五月に凱旋、その後休養の体であったが、二十九年二月から伏見宮貞愛親王のロシア皇帝戴冠式参列に随行し、八月まで渡欧した。ともかく勇彦は、二十八、九年ころに上原の書生を辞めて渡満したものらしい。

 陸士不合格で軍人嫌いになった勇彦は、満蒙を放浪して地誌・地要を極め、緑林(馬賊)に混じって頭目となった。正規軍人の志を捨てた勇彦に馬賊の道を勧めたのは、高島か上原と見て良い。彼らは、対露戦争の際は満蒙における後方撹乱が必要で、それには馬賊の活用が必須と考えていたからである。因みに、インターネットで検索した処、北海道某学校の舎監日記に、「明治三十二単一月十四日、辺見勇彦(鹿児島の人 土木科一年入舎」と出ているようだが、これは、勇彦が諜者の表看板として土木技師の肩書を取るために、一時的に籍を置いたものであろう。因みに、熊本高等工業の受験を放棄した吉薗周蔵も、陸軍大臣・上原勇作の命令で大正九年から東亜鉄道学校土木科に形だけ籍を置いたが、目的は、土木技師だと外国に入国する理由が立つからである。明治二十八年当時の辺見勇彦と大正元年の吉薗周蔵の立場は、良く似ている。

 近衛上等兵・出口清吉は二十八年夏、入院中の台湾病院を秘かに抜け出し、或いは帰国の船上で包帯で巻かれて水葬されたと伝えられたが、五年後の満洲で北清事変の功労者として、〔元気の良いチャン〕王文泰として『京都日出新聞』の従軍記者の前に現れた。清吉は満洲に渡り、身を緑林に投じた五年間に馬賊仲間の信頼を得たのである。清吉が台湾征討軍を抜けたのは、台湾征討軍司令官・高島鞆之助の指示と見るべきであろう。前掲『京都日出新聞』の記事中、「軍事探偵としては、王文泰に劣らないのがもう一人」とは辺見勇彦と見る以外にない。勇彦と清吉は同じ頃に、高島の筋により特務の道に入ったものと考えられる。

 日露戦争に際し、辺見勇彦は江崙波の名で馬賊集団「東亜義軍」を率いてロシア軍を悩ますが、正式身分は陸軍軍属で、橋口勇馬の指揮下にあった。宇都宮太郎の親友で共に高島の腹心を自任した橋口少佐は三十七年一月清国差遣(諜報)、三十七年二月兼大本営附仰附、七月満洲軍総司令部附、三十八年三月中佐進級、十一月に参謀本部附となる。二月の日露開戦の直前から満洲に渡り、諜報活動に当たって馬賊を指揮していたが、当時の出口清吉は、辺見勇彦と同様馬賊の頭目となり、王文泰ないし別名で橋口少佐の下で活動したのであろう。その馬賊仲間の一人が張作霖だった。 


 ★吉薗周蔵を「親方」とした牧口辺見なる人物の正体

 大正八年十月、上原勇作参謀総長から大連阿片事件の調査を命じられた吉薗周蔵は、知人・布施一の紹介で、辺見と名乗る男を調査員として雇った。

 その男は明治四年、越後国刈羽郡荒浜で倭族(海女)の渡辺ヰネの双子として生まれた。後に創価学会を創った牧口常三郎の双子の兄に当たり、本姓は牧口で、元は山梨で教師をしていたが、辺見勇彦を名乗る友人と土佐で知り合い、日常の交りのうちに薩摩弁を覚えた。ついでに姓も借りた理由は、本名は名乗りたくないのでと弁明したが、特務同士の姓名貸借は通常のことである。吉薗周蔵も、最初の渡欧では久原鉱業土木技師・武田内蔵丞を名乗り、二度目は煙草小売商・小山建一の名を借りるが、一方では吉薗収蔵の名前で誰かが特務活動をしていたわけである。

 布施の説明では、姓は辺見を名乗るが名は分からぬとのことなので、以下では一応「牧口辺見」と呼ぶことにする。周蔵が上原参謀総長に、大連阿片事情の調査は牧口辺見に頼むことにしたいと申告すると、上原が「コノ船二乗セタラ良カ」と世話してくれたのが、大谷光瑞の自家用船であった。船名の「寺丸」はいかにも滑稽と思った周蔵だが、後年牧口辺見から船内に「沈ムデモ南無阿弥陀仏」と者いてあったと聞いて、大いに呆れた。牧口辺見は、阿片の大物運び屋の元樺太長官・平岡定太郎(平岡公威=三島由紀夫の祖父)を追い詰め、大正八年十二月三十一日に満鉄列車内で地元警察に逮捕させたが、相手は何しろ元内務省高官で、すぐに釈放されてしまう。九年五月に上原から満洲出張を命ぜられた周蔵は、「大連(の牧口辺見)が心配だから、ついでに様子を見てくる」と申告した処、上原から「その男は信用できるか?」と念を押された。五月六日に東京を発った周蔵は、上原の手配で、途中五日ほど大連の大谷別邸に滞在する。その際に牧口辺見に会ったものとも思えるが、記録は見つからない。

 一年後の大正元年十月、帰国した牧口辺見は直ちに周蔵に報告に来た。それを四十三枚の聴書にして、上原に提出した処、「これで満足」と褒められ、報奨金を下さることになった(聴書は後年松本清張が小説『神々の乱心』のネタにした)。周蔵は、本人の要求額二千五百円を上原から直接受け取らせようとしたが、本人は上原に会いたがらず、「俺のような人間は、これ以上に上がってはいかんのだ。こうしておれは金になる話は幾らでも掴むから、金にすることは幾らでもできるが、それはやってはいかんのだ」と言い、「平岡の出自は俺と同じさ。そこで平岡を脅かせば、そこそこ金は出すが、それをやっては癖になるから、困った時はすぐやろうと思うようになる。そうなると、俺は悪戻りする事になっちまうから」との説明に、牧口辺見を礼儀正しいと見た周蔵は、今後も使うことにする。

 五月時点では半信半疑だった上原も、今は「ソン男デ良カガ、ウマフヤレ」とすっかり信頼した様子、と周蔵は記している。思うに、かつて辺見勇彦を書生としその後も橋口勇馬の下で「草」として使った上原が、その同県の牧□辺見を知らぬ筈はないのではないか。尤も、牧口辺見は正式軍属でなく、周蔵と同じような独立特務だから、上原の念頭になかったのかも知れぬ。後年のことだが、牧口辺見は「うちらの種は、頭は一人と決まってるんですわ,あの時、言い値の二千五百円をポンと出して下さったあんたが今でもワシの親方や」と明言したが、以後も周蔵を親方と呼び、満洲で椎名悦三郎に雇われながらも、その周辺の事情を時々周蔵に報告してきた。仄聞するところ、辺見勇彦と牧□辺見の接点は、土佐に在った諜者習練所(*前出)らしいが、出口清吉も幼少時代にそこで修業したというから、三人はいわば同窓生である。

  続く。    
 
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