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 ●疑史(第56回) 甘粕と大杉事件の真相 
 ●疑史(第56回) 甘粕と大杉事件の真相 

 元帥・上原勇作は類まれな謀略家であった。それは生来の性格に加えて、叔母・吉薗ギンヅルに鍛えられ、更に砲兵少尉として留学したフランスでワンワールド結社に入会して以来、身に染み込んだ性癖であった。吉薗周蔵は上原を「頭脳回路は抜群」と讃えつつも、「何事も斜め斜めにあてがう」と評して、その性癖に潜在する危険を指摘している。

 上原は参謀総長に就き、陸軍を統帥しながらも、なお憲兵隊を個人的に支配して特高警察の情報に目を光らせる必要を感じ、大正七年六月股肱の石光真臣中将を憲兵司令官に就け、翌月甘粕正彦の憲兵科転科を命じたものと推察される。甘粕の憲兵転科に関しては、脚部を怪我した甘粕が国家奉公の観念から歩兵科を去るに忍びず、陸士時代の指導教官だった東条英機に相談したところ「憲兵も軍人だ」と励まされて転科した逸話を、巷間の甘粕伝奇はさも重大事のように繰り返すが、これは本人が喧伝した一種の作り話で、東条も片棒を担いだのかも知れぬ。何しろ怪我の原因についても家族の中で言を異にしており、誰も実状を知らないことが分かる。

 上原と甘粕の関係の原点が何処に在ったかは、右(上)の作り話とは比較にもならぬ重要点で、近来仄聞した大谷光瑞紹介説は、確証はないが甚だ肯綮に当たる。浄土真宗の法主ながら国事を旨とした光瑞師は上原勇作とは殊に睨懇で、大正時代の重要国事は両人で遂行した感さえ抱くが、光瑞師の国事癖は宗教ワンワールドの本山イエズス会に倣ったものかも知れぬ。

 大正九年夏、光徳寺の次男で西本願寺の「草」になった佐伯祐三に一流画家の表看板を立てるため、東京美術学校に入学させる工作を光瑞師が相談した相手も上原であった。上原が周蔵に美校工作を命じたのは、美校が薩摩海軍の縄張りであることから、美校を左右する山本権兵衛に太いルートを持つ周蔵を使ったのである。周蔵は後日光瑞師本人からそのことを関いて合点がいったが、かかる人事の機微を上原参謀総長が光瑞師に洩らしたこと自体、両人の密接な間柄の証左と観るべきであろう。

 大正九年三月二十九日、知り合ったばかりの憲兵中尉・甘粕正彦から伊達順之助の身柄隠匿を頼まれた周蔵は、手配を完了してから上原の私邸を訪れた。本件に関する意向を窺うためだが、上原が神戸の労働争議で気分消沈なのを見て、知人・徳田球一が社会運動家として一歩踏み出したことを実感し、また上原が「宇垣が小意地の悪い男でねえ」とこぼすので、「(陸軍の)内部もめが激しいようだ。政友会のことなど色々あるようだ」との観察を、『周蔵手記』に記した。

 大正七年九月本邦初の政党内閣が成立し、首相に就いた政友会総裁・原敬は元老・山県元帥に急接近、山県もまた原を支援した。明治末年の陸軍改革運動で上原を担いだ田中義一は、陸相に就いて軍政を総覧し、軍令系統のトップ上原と並んだ。田中の弟分宇垣一成は、八年七月に中将に進級、参謀本部総務部長から陸大校長に転じていた。時に最大の政治課題は普通選挙で、普選法案を審議中の衆議院が九年二月突然解散するが、そのような政局に上原がどう関わったのか未詳である。しかし上原にとっては、政局よりも同年三月十二日から十四日にかけて生じた尼港事件がむしろ心痛の種ではなかったか。わが副領事を初め、守備隊将兵三百三十余名、海軍将兵四十余名、居留民約三百五十名が赤軍過激派により悉く惨殺された重大事件は、六月九日の外務省公報まで公開されず、周蔵も、尼港事件を知らないままに右の感想を記したものと想像される。

  上原から時折顔を出すようにと言われていた周蔵が、四月二十一日に訪ねると、満洲出張命令が待っていた。以前上原に紹介された貴志彌次郎が、来月開設の奉天特務機関長に就くが、そこに届ける物があり、又貴志少将も何かと民間の手を必要としているから、是非行って欲しいと頼まれたのである。五月四日に届け物(張作霖への親書)を預かった周蔵は、満洲では石光真清に会いたいと希望して許可され、帰途東京憲兵隊に寄って甘粕に石光の居所を聞く。翌日昼過ぎ、石光が内蒙古の錦州に居ることを甘粕が知らせにきた。これが『周蔵手記』の記載に甘粕が出てくる三回目である。

 四回目は、周蔵が満洲から帰還した後の九月十日条である。
「巻サンニ甘粕サンノコト聞ク。大丈夫ト云ハレ安心ス。近イ内 會ハレタラト云ハル」とあり、甘粕から頼まれた伊達順之助の世話を、巻がずっとしていたことが窺える(『日本陸海軍の制度・組織・人事』には、甘粕中尉は憲兵隊副官から八月に東京憲兵分隊長に転任とある)。

 五回目は十月二十四日条で、夜に甘粕に会うと「前ニ云ッタ尾行ノコト、詳シク聞キタイ」と言われた。徳田球一と佐伯祐三のことと思い、一応現状を話すと、甘粕は「誰カラノ何ノ目的デ 佐伯ハ来テヰルト思ハルルカ」と問うた。
周蔵は、「ハヂメハ 自分ノ観察ノタメカ ト思ッタガ、ツマリ熊谷(守一)サンノ推察通リカト思ッタガ、今ハ還ッタコトヲ考ヘテヰル。自分ノ建前ヲ保全スルタメニ 閣下ガ作ラレタ道カモ知レント思フ」と答えた処、甘粕は「分ッテヰルヂャナイデスカ」とからかう口ぶりになった。
「佐伯ナル人物ハ結局 芝居小屋ノ役者トシテ必要ナノデスヨ。貴方ガ罌粟(ケシ)ヲ廣ゲルノニ 目立タナイ為ニデス。現在罌粟ハ 大阪ノ三島辺デ大量二作ッテヰマスガ、焼石二水デスシ 有ッテ無イガ如シナノデス。然シ 政府ガ表立ッテ奨励スル訳ニハ イカンノデスヨ」と、周蔵の任務の背景を分かりやすく説明してくれた上、「マサカ 軍ガソレヲヤッテイク訳ニハイカナイカラ 貴方ガ廣ゲテヰルコトハ 重要ナコトデスヨ」と励ましてくれた。

 二人は、明日伊達順之助の隠れている弁天町で会うことを約して別れる。甘粕の話で、罌粟栽培についても佐伯についても任務の意義を知った周蔵は、心身共に余裕を感じた。翌日上原を訪ね、奉天で会った張作霖の話をしながら土産の汝窯壷を進上し、今後は外国秘密結社の悪影響が懸念される薩摩治郎八を偵察したいと申告し、諒承を得た。

六回目の九年十月二十五日条は、伊達を匿った牛込弁天町のアジトで、その夜甘粕と三人で会った時の様子を記す。驚いたことに昼間の事をもう耳にしていた甘粕は、薩摩の調査を応援すると言いながら、「実は」と手帳を広げて見せ、「一応、要人物ノ名前ニハ 上ゲテヰタ」と言って周蔵を驚かせた。


 その後に「★甘粕サンハ閣下ト同ヂク フランス留学ヲサレテヰルヤフダ。何事ニモ心強イ。自分トシテハ 石光サンノ教へ随分役二立ッタガ 何セ遠イ支那ニヲラレル。何ヲ教ハルニモ遠過ギルガ、甘粕サンハ心強イ」と記したのは、甘粕本人からフランス留学の事を聞いたからで、
秘密留学の証拠は正にこれである。

 六回目(ママ)は『周蔵手記』別紙記載の「上高田日誌」大正十年三月条で、王希天・呉達閣の言として、「ポンピドー牧師が帰国の際に。“甘カツ”とかいう軍人を伴った」とある。ポンピドーは九年八月に帰国したが、王・呉の言は、それ以前の帰国に際し姪・ジルベールと甘粕中尉を同伴したことを指したもので、時期は大正七年の甘粕の温泉療養時と見られる。渡仏の目的も留学ではなく、ポンピドーが甘粕をワンワールドに入会させるためと見るべきである。

 七回目(ママ)は同年十二月頭条で、甘粕と会った周蔵は、伊達が富坂町あたり警察署に暫く拘置された上で放免になると聞く。山県暗殺計画は結局、華族子弟の遊び話として片づけられたが、これで山県の威信が完全に崩壊したのは、上原の策が当たったのである。周蔵に対し、上原の所に行くようにと指示する甘粕は、今や上原との間に介在する上官で、以後はこれが上原・甘粕・周蔵の基本的関係となる。
九年秋から翌春にかけて、憲兵練習所通いで行動が比較的自由な甘粕は、常時上原に会い、その指令を周蔵に伝えていたのである。

 八回目(ママ)は一年余り後の大正十一年二月頭条で、十年六月に憲兵大尉に進級し市川分隊長となった甘粕と周蔵が会った記事は、それまで見えないが、会っていたことは確かである。佐伯夫妻からフランス留学の希望を聞いた周蔵は、佐伯の頭の光瑞師と兄の佐伯祐正の意向を確かめる必要を感じ、光瑞師に面会を申し込んでいた。ようやく会えた光瑞師の答は「フランスに出してやってくれ」というものであった。周蔵はこれを薩摩治郎八探索の好機にしようと考え、頼み事を口実に薩摩邸を訪れ治郎八のパリの住所を聞き出すのが良策と思い、甘粕に相談する。

 甘相は十一年一月、渋谷分隊長に転じたばかりであった。同年二月末日条には、周蔵が「フランスニ サル事デ道ヲ欲シイ」と申告すると上原は、「甘粕二頼ムノガ良カ」と指示し、「然シ マフー人ロシア人ヲ紹介スル」とも言った。上原に指示された通り甘粕に相談すると、甘粕は「フランスには自分の友人がいる。この人物に連絡を取るから、すべてそれからにした方が良い」と言う。

 九回目(ママ)は九ヵ月後の同年十一月末日条で、「佐伯 外遊学二関シテハ 甘柏サンガ 段収リヲ整ヘテ下サルコトニナル。フランスナラ自在トノコト。改メテ米ト鰹節ノ礼ヲ云ハル」とある。父の林次郎が宮崎から毎年送ってくる日向米と薩摩節を知人に配っていた周蔵は、甘粕にも先日届けたので、改めて礼を言われた。

 甘粕の在仏の友人とは、大正二年からパリに住む画家・藤田嗣治で、先年の秘密渡仏の際に知り合ったと観るべきである。嗣治の父陸軍軍医総監・藤田嗣章と親しい上原が、嗣治の画才に目を付け、フランスに送りこんで「草」を張らせたのである。フォンテンブロー砲工学校に留学中の上原がポンビドーの勧誘で入り、次いで藤田と甘粕が入ったのは「黒いマリア」を信仰する秘密結社で、コクトーが総長を務めた。薩摩治郎八が加入した秘密結社は別系のようである。

 十回目(ママ)の甘粕記録は大正十二年二月条で、「甘粕サンノ紹介デ 昔ノ伊達藩 水沢二道ガトレル」とある。罌粟栽培を全国に広げるのに必死の周蔵は、各地で耕作者を増やすために有力者を工作していたが、仙台藩支藩の水沢の地に甘粕の紹介によって道が開けた。甘粕の母が仙台藩右筆・内藤家の出で、その関係が物を言ったのであろう。それにしても水沢は、台湾総督系アヘンの元締の後藤新平の膝元で、後藤の腹心新渡戸稲造の支配下にあるのに周蔵が割り込んだのは、何か事情があったのだろう。因みに、三月上原は参謀総長を辞したが、周蔵は一言もこれに触れていない。尤も、元帥は終身現役である。甘粕は十二年八月付で麹町分隊長兼務を命ぜられる。

 甘粕が出てくる十一回目(ママ)は十二年九月末日条で、関東大震災直後の記述である。周蔵がこの条を、「何ト書ケバ良イカ分ラヌガ、大杉榮終ル」で始めたのは、この事件に不審を感じたからである。大杉暗殺は、通俗史観に立つ巷間の甘粕伝奇が謂うような、単純な構図ではない。第一、無政府主義はすでに下火で、大杉をやる必要なぞ何処にも無いことは、周蔵でさえ分かっていた。それなのに甘粕が敢えて暗殺を断行したのは、別の理由がある筈だ、何かおかしいぞと、感じたのである。           (続く)

 
 ●疑史(第56回) <了>。                        
 
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