カウンター 読書日記 ●岩屋天狗と千年王国 <22>
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●岩屋天狗と千年王国 <22>
 『ザビエルの同伴者アンジロー』から続ける。 
 

 ■貴久☆の禁教とアンジローの出奔 p198~
  ☆島津貴久(たかひさ):島津家第十五代、「名君」・忠良(ただよし)の嫡男。 
 
 ★キリスト教禁教の理由と経緯 

 
 ザビエルの布教活動について当初は好意的であった貴久がやがて禁教へと変わった理由と経緯について、ザビエル書翰は次のように述べている。

 ・・・これらの坊主(ボンゾ)たちは領主に対して、もしも家臣たちに神への信仰を許すならば、領地は失われ、人々によって寺院は破壊され、冒瀆されるだろうと言いました。というのは、神の教えは彼らの教えと反対であり、神の教えを信ずる者はかつて彼らの教えをつくった聖なる人々に抱いていた信心を失ってしまうからです。そしてついに坊主たちは、その地の公爵〔貴久〕に対して、死罪をもっていかなる者も・キリスト教徒にならないように命じるようにさせました。
かくして公爵はいかなる者も信者にならないように命じました。(一五五二年一月二十九日付書翰)

 すなわち、キリシタンの教えは社会の根幹を揺るがす危険思想であるという仏憎の働きかけによって貴久が禁教へと変わった、としている。貴久の禁教の理由は後述するが、その実態がどのようであったか見ておきたい。内外ともに史料が乏しく、よく分からないのが実状であるが、禁教体制は続いていたようである。次にいくつかの例をあげてみよう。ザビエル鹿児島退去後、同地にキリシタンが存在することが分かっていながら、一〇年間以上も宣教師が派遣されていないことは、貴久の禁教体制が継続していたことを示している。またヴァリニャーノ『東インドにおけるイエズス会の起原と進歩の歴史』に「彼ら〔サビエルー行〕はそこ〔鹿児島〕でとてもひどい迫害を受けたので、もはやなんらかの成果も期待できないことを知り、退去を余儀なくされ、信者たちを大いに悲しませた。そして彼らは平戸へ赴いた。・・・薩摩の信者を慰めるためパウロ・デ・サンタフェが残った。のちに信者の一部は死亡し、一部はパードレから援助を与えられることなく迫害を受けて死亡し、一部はまだ上述のパードレ〔ザビエル〕の偉大な徳と聖性をはっきりと記憶して生きている」とあり、貴久の禁教と迫害の事実を伝えている。なお、文中のザビエルのことを記憶している人々とは市来のミゲルらのことであろう。

 市来も一五六〇年代禁教下にあったことは上述のアルメイダ書翰からも分かる。すなわち夫人も子供たちも信者であった市来城主・新納康久についてアルメイダは「彼〔城主〕がキリシタンとなって信仰をあえて表明しないのは、国王〔貴久〕の許可を得ず他の教え〔キリスト教〕を信ずることが国王に分かったら、やがてこうむることになる損失を彼が恐れているからである」(ローマ・イエズス会文書館、日本・中国部四、二三七葉)言記しており、城主は、貴久の処罰を恐れて、あえて洗礼を受けなかったことが分かる。
 
 
 ★『日新菩薩記』とキリシタン
 
このように島津家の禁教体制は一貫していたのであるが、貴久ら支配者層はキリシタンをいかなる宗教と捉えていたのであろうか。これも史料がなく確かなことは分からないが、貴久の父・忠良の伝記(一五九七年、泰円守貝による)とされる『日新菩薩記』にある忠良の次の御詠歌をもとに推測してみよ

 魔の所為か、天眼拝み 法華宗
 一向宗に  数奇の小座敷

 これらは忠良が魔のなすところとして排斥したもので、ここには法華宗、一向宗と並んで「天眼拝み」があげられている。「天眼」はキリシタンと解されているので、キリシタンは禁止さるべき宗教の一つとされていたのである。このうち一向宗禁止の理由は「父母を軽んじ、仏神を疎んずるもので、神明仏陀を忘れ、父母先祖に背くから、天下国家を乱す」と明白に記されており、キリシタンも、「彼〔忠良〕の鎖国第一義の思考様式、封建的な規範の確立、固定的な臣従関係の確立という当面の目標に合致せぬと判断された」(三木靖『薩摩島津氏』一九七一年)宗教として、一向宗と同類と見なされたことが分かる。確かに、キリシタンの教えには、唯一にして絶対なる神のほか、日本の伝統的な神・仏を認めず『ドチリナ・キリシタン 第七』に「親、主人、司たる人によく随へと云う事は、科にならざる事を云はれん時の事也」とあるように、親・主人への服従も神の掟に反しない限りである、とあり、これは封建体制確立をめざす支配者にとって鎖国の存立基盤を危うくすると
教えと考えられたのである。これまで貴久は父・忠良の指導の下、父子一体となって薩摩統一事業をすすめ、忠良のの貴久への指導力は絶大なものであった。こうした忠良・貴久のキリシタンへの姿勢と仏憎からの要求があいまって貴久の禁教方針が定まったと考えられる。
 
 ★アンジローの教会離脱・出奔理由
 
 以上、不十分ながら貴久のキリシタン禁教の理由とその展開を明ら かにしてきたが、このことを前提として、アンジローの教会離脱・         出奔について市来のミゲルと対比させながら考えてみたい。というのは同じ禁教下にあって市来のミゲルと鹿児島のアンジローは好対照の道を歩んだからである。私はこの問題をすでに明らかにした両者の宣教団における役割を通して述べることにする。

 私はアンジローの同宿的役割、ミゲルの看坊的役割を指摘しておいたが、ヘスース・ロペス・ガイ神父は二つの役割を比較してその特徴を次のように指摘している。「彼ら〔看坊〕には同宿の有する巡回者、布教者の性格はなく、常に教会内で働くものである。その聖務には、特に強調された同宿の宣教的分野はない。看坊の活動は、そのような来信者を対象とするものではなく、すでに信者となった人々の世話に焦点が置かれている」(「キリシタン史上の信徒使徒職組織」『キリシタン研究』一三)。つまり、同宿の働きは異教徒への働きかけを主とする外向きの、組織拡大型のいわば攻めのタイプの活動であるのに対し、看坊の働きはすでに改宗した信者の世話を主とする、内向きの、組織防衛型の、いわば守りのタイプの活動である。このことを念頭において改めてミゲルとアンジローの働きをまとめてみると、ミゲルは市来城の家老職にあり、約一五名の集団(のちには七〇名へと拡大)を指導する看坊役であった。その主たる活動の対象は信者である彼の家族と城主夫人とその家族であった。教会は城中にあり、初め建物がなく信者の集会(見えざる教会)であったが、やがて教会がつくられた。つまり、城中の市来集団は一般社会とは遮断された、一種の「隠れキリシタン」であったといえよう。ミゲルは城外に出て布教活動をした形跡はなく、城中の信者の信仰保持に専念し、貴久ら鹿見島在住の支配者や仏憎を刺激することもなかった。島津氏による禁教下、ミゲルは看坊役に徹することによって、市来集団を半世紀以上にわたって維持することができた。後世の看坊をみると、一七世紀になると国家的な規模で禁教、迫害が実施・徹底され、一六一四年には宣教師が国外に追放されるが、宣教師に代わって、地方の教会を支えたのが日本人の看坊であった。彼らは潜伏下の教会において隠れキリシタンのりーダーとなり、信者の世話にあたり、信仰集団を維持したのであるが、ミゲルはその先駆といえよう。
 
  ★「同宿役」アンジローの悲劇
 
 これに対し、アンジローはザビエルの行くところには常に同伴して各地を巡回し、ザビエルの通訳をし、ときには、ザビエルに代わって説教したり、教理教育をする同宿役であった。彼はミゲルとは対照的に、一般社会に向かって積極的に働きかけるタイプの役目であった。したがってアンジローはザビエルの退去のさい、鹿児島の信仰集団を委ねられてから、禁教へと向かう薩摩の政治・社会状況を配慮して、従来の同宿役から看坊肪役へと役柄・仕事内容を転換させる必要があった。しかしながら、それは実際上、無理であった。というのは、教会のまとめ役としての看坊たるに相応しい諸要素-年齢、身分、地位、
☆教養-のどれをとっても、アンジローにはほど遠かったしもともとアンジローは組織防衛型の看坊として訓練されていなかったからである。アンジローはザビエルあっての同宿役であり、ザビエルの退去により、後盾を失うことになった。にもかかわらず、以前と同じように同宿役として孤軍奮闘するアンジローに対して、社会の風当たりは強く、ついにザビエルより託された鹿児島の信者を放置して、再度、故郷を出奔せざるをえなかったのである。アンジローの出奔理由に彼の信仰心の弱さを指摘する見解があり、もちろん、それも否定できないが、主たる理由とすることはできない。
 
 註:アンジローの教養不足という点について、著者は次の章(★アンジローは「無学」か)で否定している。

 
 アンジローは市来のミゲルのように、外界から隔離された城中に留まって自らの信仰と信者を守ることができなかった。彼には、妻子や母親がおり、ザビエルから信者を託されていたので、かつての召使で独身のジョアネやアントニオのようにザビエル宣教団の一員として再度インドと日本との間を往来し、信仰を貫くこともできなかった。このように、ミゲルにもアントニオにもジョアネにもなれなかったところにアンジローの悲劇があった。アンジローの最期はメンデス・ピント(フロイスも同じ)によれば、八幡(バハン・倭寇)の一員に加わり、中国の沿岸で紛争に巻き込まれて殺害されたということであるが、本当のところは分からない。

 **************

  続く。
                      
 

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