カウンター 読書日記 ●岩屋天狗と千年王国 <21>
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●岩屋天狗と千年王国 <21>
                          ザビエルの同伴者アンジロー_1

 ●『ザビエルの同伴者アンジロー』  岸野 久  吉川弘文館2001・9・1  
 
 この著の刊行は、前掲『ザビエルとヤジロウの旅』(1999年)と『クアトロ・ラガッツィ』(2003年)のちょうど中間に位置するもので、大住氏は当然参照不可能だが、若桑史は、〔第二章-われわれは彼らの国に住んでいる 「リーズン」〕(文庫版・上・p250)のなかで少しだけ〔アンジロー・ヤジローと【デウス→大日】翻訳〕について述べている(後記)。

 タイトルに偽りなしの本で、「アンジロー」について、簡略だが要点(問題点、課題)はすべて簡潔に述べられており、以下<「アンジロー」の最後>を中心に紹介していく。

 
 ***************

 ■アンジローの末路にかんする史料

 ★アルメイダの薩摩旅行

 一五六一~六二年アルメイダは鹿児島を訪れた。そのわけは、島津貴久がポルトガルとの通商に意欲を燃やし、日本イエズス会の布教長で豊後在住のトーレスにその仲介を求めたのに対して、トーレスがこの要請を受けてアルメイダを使者として、鹿児島へ派遣したからである。そのいきさつと結果については別著『ザビエルと日本』に譲ることにする。さて、アルメイダは六一年十二月市来(いちく、現いちき)を訪れ、ミゲルに率いられた約一五名の信仰集団に会い、その足で鹿児島市内に入ったが、市来に存在したような信仰集団はなく、わずかに数名の信者の訪問を受けたのみであった。この人々の中にアンジローはいなかった。

 ★アンジローの薩摩出奔

 同じ薩摩領内で鹿児島の近くの市来ではミゲルは健在であったのに対し、鹿児島のアンジローにいったい何か起こったのであろうか。彼が鹿児島から消えた理由は何か、その行方とともに大いに気になるところである。というのはアンジローの評価と密接に関連しているからである。
 ところで、アンジローの末路を記した史料は今日まで三点知られている。第一は、フェルナン・メンデス・ピント『東洋遍歴記』(一五七八年ごろ成稿)、第二はルイス・フロイス『日本史』(第一部、一五八六年成稿)、第三はジョアン・ロドリゲス・ツズ『日本教会史』(一六二〇~二四年成稿)である。ここではアンジローの末路を論ずるさい、どの史料によるべきか、その内容と理由を明らかにしておきたい。そのために三点の史料から関連箇所を紹介しておく。
 第一はメンデス・ピント『東洋遍歴記』である。

 ★メンデス・ピント『東洋遍歴記』

 〔ザビエルは〕その教義によってそこ〔鹿児島〕で改宗させた八〇〇人のもとにパウロ・デ・サンタ・フェを残していった。パウロは彼らのもとに五ヵ月以上留まり、辛抱強く教義を説いていたが、坊主(ボンゾ)たちにひどく侮辱されたために、ついにシナに渡り、そこでリャンポー王国を跳梁していた海賊に殺されてしまった。(岡村多希子訳『東洋遍歴記3』一九八〇年)

 メンデス・ピントには誇張癖があるので、とくに数字に注意する必要がある。ここの信者の数字はゼロを一つ落として八○とすると実際の約一〇〇に近くなってくる。しかしアンジローの末路にかんする基本的なデータはそろっている。すなわち、

 (a)出奔の時期-サビエル退去の約五ヵ月後
 (b)出奔の理由-仏憎からの迫害
 (c)最期の状況-中国で海賊による殺害

 である。メンデス・ピントはアンジローをはじめ、ポルトガル商人・アルヴァレス、フロイスとも熟知の間柄であった。一五五六年メンデス・ピントはイエズス会のイルマンとして来日したが、このときフロイスとはマラッカまで同船している。

 第二はフロイス『日本史』である。

 ★フロイス『日本史』

 なぜならば、彼(アンジロー)は〔既述のように〕その妻子や親族のものにキリシタンになるようにすすめ、そして事実彼らはキリシタンになったが、その数年後、「彼は信仰を捨てたのか、キリシタンであることをやめたのか判明しないとはいえ〕、(いずれにせよ)異なった道を辿るに至った。というのは、かの薩摩国は非常に山地が多く、従って、もともと貧困で食料品の補給を(他国)に頼っており、この困窮を免れるために、そこで人々は多年にわたり八幡と称せられるある種の職業に従事している。すなわち人々はシナの沿岸とか諸地域へ強盗や掠奪を働きに出向くのであり、その目的で、大きくはないが能力に応じて多数の船を用意している。(したがって)目下のところ、パウロは貧困に駆り立てられたためか、あるいは彼の同郷の者がかの地から携え帰った良い収穫とか財宝に心を動かされたためか(判らぬが)これらの海賊の一船でシナに渡航した(ものと思われる)。そして聞くところによれば、そこで殺されたらしい。(『日本史・6』)

 フロイスは、在日イエズス会を代表する日本通の一人で、一五六三年来日し、三四年間日本に滞在し、信長、秀吉の通訳を務めた。今日までアンジローの最期を論じるさいにしばしば利用される史料である。アンジローの末路にかんするデータをまとめると、

 (a)出奔の時期-自分の妻子をキリシタンにしてから(一五四九年)数年後
 (b)出奔の理由-よりよい生活または富のための、個人的・現世的動機
 (c)最期の状況-八幡(倭寇)に加わり、中国で殺害

となる。

 ★第三はロドリゲス『日本教会史』である。

 坊主らは、パードレ達が平戸へ出発してから五ヵ月後に、パウロを国外へ追放した。すなわち、パウロはその信仰のために坊主らから受けた迫害が余りにひどかったので、日本にいることができなくなり、再び船に乗ってシナに向かい、彼らの狂暴を避けることにした。そして、フェルナン・メンデ  ス・ピントはパウロがシナに到着する前に途中で死んだと言っている。(『日本教会史 下』)
 ロドリゲスはアンジローにかんするデータすなわち、出奔の時期・理由・最期の状況についてすべてメンデス・ピントによっていることが分かる。私か注目しているのは、アンジローの末路にかんして、彼がフロイスの『日本史』によらず、メンデス・ピントを利用していることである。これはメンデス・ピントの記述に対するロドリゲスの肯定的評価であるといえよう。

 ★三史料の検討

 これら二つの史料(ロドリゲスの記述はメンデス・ピントに含める)のデータをまとめると、

 (a)出奔時期
  ①メンデス・ピント-ザビエル鹿児島退去の「五ヵ月後」
  ②フロイス-一五四九年から「数年後」
 
 (b)出奔理由
  ①メンデス・ピント-仏憎からの迫害
  ②フロイス-アンジロー個人の現世的動機

 (c)最期の状況
  ①メンデス・ピントおよび②フロイスとも中国で海賊による殺害

 となる。

 三つのデータのうち、アンジローがいつ、いかなる理由で、教会を離れ、国を出なければならなかったのか、という最も中心的な部分で二つの史料は相違しているが、いずれに信をおくべきであろうか。まず、出奔理由として、フロイスがメンデス・ピントのように外部(仏憎)からの迫害ではなく、貧困という社会的背景があるにせよ、あくまでもアンジローの個人的な動機に求めている点に私は疑問を感じている。というのは、すでに明らかにしたようにアンジローはザビエル宣教団において同宿役(*後、紹介)という、いわば宣教団のスポーークスマン的役割を果たしており、ザビエルの代役を務めているからである。そのアンジローに対し、ザビエル排斥の急先鋒にあった仏憎たちの攻撃が向かわなかったとは考えられないのである。次にアンジローの出奔時期であるが、フロイスの記述で、アンジローの出奔がなぜ「数年後」なのか理解できない。これに対し、メンデス・ピントのようにザビエル退去後の約「五ヵ月後」であれば、ザビエルヘの攻撃がただちにアンジローに向かったと考えられるので、合理的に説明がつき、納得がいくのである。

 以上から、アンジローの末路にかんする史料として、私はフロイスの記述にはリアリティが感じられないのでメンデス・ピント(およびロドリゲス)の方をとることにし、この記述をもとにアンジローの教会離脱、出奔問題について考えることにしたい。

  続く。                      
 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/679-df4c1b64



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。