カウンター 読書日記 ●岩屋天狗と千年王国(17)
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●岩屋天狗と千年王国(17)
 ■明治六年政争の真相
 
 ★事態の転機・岩倉の帰朝  

 九月十三日岩倉、伊藤帰朝、十五日三条、岩倉は大久保参議起用を協議、三条はその過刻後岩倉へ「もはや今日にて兎角公論衆議に決し侯様之れなくては然るべからずと至極御同意仕り侯、右についても大久保木戸の両氏政府に出勤の運びに相成らず候ては百事治まり申さず候」と手紙したが、この「百事」の意味については一般的に、山城屋和助公金費消問題、大蔵省予算紛糾、島津久光問題、樺太問題とされていることからしても、九月十五日迄は征斡論問題(とされているもの)は未だ成起していなかったといえるのである。

 九月二十一日大久保関西より帰京、二十六日、大久保は三条、岩倉へ「小臣の心緒かねて御了察もあらせられ侯あいだ何卒御垂憐、断然御止め下され侯」と参議就任を拒否する理由については、三条が二十九日岩倉へ送った手紙に「縦令旧県云々の事は如何相成侯とも、廟堂に相立ち申さずては、全国の維持如何と苦慮仕り侯、同人(大久保のこと)の進退大関係ある事と存じ候えば、只管同人の拝命を祈念仕り侯」と誌したごとく「旧県云々の事」が大久保の就任を邪魔していると誌し、毛利敏彦氏は、この旧県云々の意味について、島津久光への懸念、顧慮とされているが、当時久光は、大久保自身が「散々の風評」で鹿児島へ帰ったままであると誌したごとく、中央においてはその政治的発言力はなかったのであるから、大久保には、久光の存在を懸念する気遣いはなかった筈である。

 では「旧県云々」とは何の謂だろうか? 旧県とは、その文字通り、旧薩摩藩内のことで、それは、幕府倒壊後、悠然として豪直な薩摩人士を勃怒せしめていた岩屋梓梁顕彰の問題で、三条はそれを「薩摩藩時代の事は如何相成っても構わないが、何よりも、大久保が廟堂に立たないことが全国の維持に大関係がある」と二十九日附の岩倉への手紙に誌したわけである。

 九月二十七日、西郷は、三条に対し、朝鮮使節決定が遅れていることを詰問したため、三条は二十八日岩倉に「朝鮮事件、西郷頗る切迫」と痛心を訴えた。そのため岩倉は三十日西郷を訪ねたが、西郷は岩倉を、使節裁下遅延について強く詰責した。同日、大久保は岩倉への手紙で、参議就任のことを「甚だ当惑」として拒否した。

 このころの★伊藤博文の、奇勁却略な裏面画策の凄まじさについては徳富蘇峰も驚嘆されている通りであるが、伊藤が最終的に西郷の朝鮮使節に反対するに至った理由は、西郷朝鮮使節の目的が朝鮮における岩屋梓梁の事蹟調査にあることを知ったからである。伊藤は、かつて、岩屋梓梁を顕彰せんとした★塙次郎(廃帝の事蹟調査)を暗殺したことがあるように、素々岩屋天狗が世に出ることには反対だったのである。伊藤が西郷のことを「ユタのことだよ」と称したゆえんである。

 由来、長州藩は易断政府(現在、石山本願寺の一向一揆として歪曲されている)を支援してきたのであるが、易段政府が言長によって討滅されて後、秀吉が本願寺(家康は東本願寺)の名において再興させて以来、長州藩は西本願寺といたく親炙してきたのである。

 だから長州藩には、秀吉の制禁(岩屋梓梁抹殺令)以来、西本願寺において、妖僧、怪憎、蕃僧として筆洙されている岩屋梓梁の存在を極度に忌避する藩風が形成されてきたのである。薩摩藩が藩是として徹底的に★一向宗を禁圧してきた理由が、一向宗の存在は、一向宗を布教した岩屋梓梁の存在露呈に通ずるとしたのと一般であるが、そういう歴史的経緯を知っていた西郷は、その草稿(島津家編輯所写、西郷草稿)に「本願寺において正しい宗旨と善き僧を撰み、御居付相成侯はば偏理を破り候害も無之」と誌したごとく、藩内における真宗(一向宗)布教に反対する見解はもっていなかったのである。

 ★九月三十日、西郷の真意初めて判る

 九月三十日西郷を訪ねた岩倉は、西郷との問答で、西郷の朝鮮使節の副次的目的が、岩屋梓梁の朝鮮における史料、史蹟調査にあることを確認したので、岩倉はそのことを大久保への書翰で「今日西郷方へ行き向き侯ところ、朝鮮事情頻りに切迫論にこれあり侯」と誌したが、この日を境にして「百事問題」(前出)などはふっ飛んで、参議論争は、西郷朝鮮使節可否論争というよりも、★岩屋梓梁顕彰可否論争となったため、岩屋梓梁抹殺策を執った明治政府は、後世、それを「征韓論争」だったと歪曲して真相を封じたのである。

 十月八日、三条、岩倉は大久保を岩倉邸に呼んで参議就任を説得、漸くその承諾を得たが、その時大久保は、両大臣に、参議拝命の条件として、西郷使節を認めてもその出発を延期(五十日、副島伯、『異端記』他)する方針を、途中で変節しないという約定書を大久保に渡すことを要求した。

 五十日間延期せしめることの理由について、大久保は「内務省整備確立」にあると称したと誌されているが、筆者の記録には、その本当の狙いは、西郷使節が出発する前に、重野安繹を渡鮮させて、朝鮮政府に図り、岩屋梓梁関係の史料を焼却、隠蔽、少くとも西郷に披見させないよう工作することにあったと誌されている。

 明治政府が、西郷鹿児島退隠後の明治八年、軍艦を派して江華島を攻撃、翌九年、日鮮修好条約を強圧したゆえんの重大な目的の一つに、朝鮮における岩屋梓梁関係史料を早急に調査することがあったことを知らなくてはならない。

 西郷使節出発延期を図ったことの理由に関して大久保は「此の難小子にあらざれば外に其の任なく、残念ながら決心いたし候」と自記しているが、これは、大久保が、関西における国友衆調査結果を証拠として、いざとなったら、西郷渡鮮の目的が、朝鮮の歴史調査にあることを理由として、
西郷朝鮮使節を拒否することができる自信があることを豪語したものといえるのである。

 しかし、西郷には西郷で大きな懸念があった。それは、尖鋭過敏な真方衆が指導する国友衆の存在が、大久保の関西調査によって、それが革命、暴動化するものだなどとして誤解され、ひいてはそれが、西郷朝鮮使節派遣拒否の理由となることを恐れたので、西郷は、十月十一日附三条への手
紙に「今に至り、御沙汰替り等の不信の事共相発し侯ては、天下のため勅命軽き場に相成り侯。若哉相変じ候節は実に致し方なく、死を以て国友え謝し侯迄に御座侯間、其辺の処は何卒御隣察被成下置度、是又奉願候」と誌して、暗に、国友衆に関する誤解を解こうとしたのである。

 十月十二日大久保、十三日副島参議拝命、十四日、太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視、参議・西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象次郎、江藤新平、大木喬任、大久保利通、副島種臣(欠席:木戸孝允)計十名による閣議が開催された。

 通説では、この時の閣議で、西郷は征韓を主張し、大久保は、征韓戦争の「不利益七カ粂」(これは、朝鮮開戦を前提として、
(一) 開戦の混乱に乗じて不平士族が反乱を起こす危険がある。
(二) 戦費の負担が国民の反抗を招く
(三) 政府財政の破綻
(四) 国際収支を悪化する
(五) 露西亜に跳梁の隙を与える
(六) 英国の内政干渉を招く
(七) 条約改正に支障となる とした)を唱えて論争したものとされているが、この七ヵ条なるものが、西郷が征伐を決意し、開戦を主張したことを前提して論旨していることからしても、これが、後人(恐らく重野)の作為であることは明らかである。大体が、征韓論争なるものの議事録がないことからしても奇怪なのである。

 ★西郷使節決定

 十月十五日再び閣議が開かれたが、西郷は、主張すべきはすでに主張したとしてこの日は出席しなかったため、主として、岩倉、大久保と江藤の論争であったが、帰するところ、大久保も異存なしとして西郷使節が閣議決定したのである。

 しかし、大久保の箱根天皇工作(【一ノ秘策】)の情報を得た西郷は、大久保昔年の奸才モウ猾ぶりと黒田が箱根行在所へ密行したことを知ったため、その十五日の閣議決定を危うしとする山場とみて、十五日附太政官へ提出したのに始まる十七日までの三日間にわたり「朝鮮御交際の儀」と首記した形行書(なりゆきしょ)を諸重臣に提出したが、西郷がこの始末書を太政官等に提出した狙いは、徳川幕府によって歴史から抹殺されている岩屋梓梁の存在の歴史的取扱いについて明治五年五月以来幾度か論争したことのある歴史家・重野安繹が参議論争の裏面で策謀しているため、西郷は、後世において、明治六年の参議論争の経緯に関する正しい史実が歪曲されることを恐れて、太政官に正しい経緯を誌した始末書を遺して後世に伝えんとしたのである。

 この始末書の価値について、毛利敏彦氏は「過去百年間にわたって、西郷を征韓論者視してきた通説において、この『始末書』がまともに検討された形跡がないのは不可解の極みであるといえよう」と慨嘆されているのである。

 八月十七日の閣議で西郷使節が正式に再確認されて、後は、天皇の裁可を迎ぐ手続き上の問題だけとなった。

 ところが大久保は、自分は「ただ命に従った」だけであるのに、三条と岩倉が変節して西郷使節を延期しなかったのは、二人が大久保へ渡した約定書の約束を裏切ったからだとして、十七日朝三条を訪ねて「奉職の目的相立ち難く云々」として参議辞任と位階返上を申し出た。

 ★「一ノ秘策」ですべては顚跌

同じ十七日、西郷などは太政官に西郷使節を天皇に奏上、裁下を仰ぐよう求め、三条は、その夜岩倉を訪ねて協力を求めたが岩倉の返事は冷たかったので、進退極まった三条はついに高熱を発して卒倒して人事不省に陥った。

 三条病臥、政務不能となった結果、大久保は黒田清隆にはたらきかけ「一ノ秘策」により、宮内少輔・吉井友実、宮内卿・徳大寺実則を通じて、翌二十日、岩倉を太政大臣代理とする勅命を出さしめるに至った。この発令の次第については『大久保日記』に「黒田氏入来、同人此の困難を憂うること実に親切なり、予も此の上のところ他に挽回の策なしといえども、ただ一の秘策あり、依りてこれを談ず、同人もこれを可とす、すなわち同人の考えを以て吉井氏へ示談これあり侯よう申入れ置き侯」と大久保自らが誌していることからしても「一ノ秘策」の策動が大久保の差し金にあることが分るのである。

 岩倉が太政大臣(代理)に任命されたことが、西郷朝鮮使節問題だけでなく、時局に大影響を来たすものとした西郷、板垣、副島、江藤の四参議は二十二日岩倉を訪ね、「太政官職制」の規定通り、十五日の決定をそのまま天皇に上奏するよう求めた。

 しかし、同じ日、太久保から「不抜の御忠誠必ず御貫徹あらせられ侯事」と強く釘を打たれていた岩倉は、「三条は三条、自分は自分で、別箇の太政大臣だから自分の思い通りにする」と主張して、十五日の閣議決定には拘束されないと言い放って会談は決裂した。

 玄関を出る時西郷は「右大臣、よくも踏ん張った」と言い放ったそうであるが、徳富氏は「この言や、西郷の香気芬々たり」と強く絶讃されている。

 「一ノ秘策」の片棒をかついだ黒田清隆は、そのことのために、西郷が政府を去るに至ったことに己れの憤懣をこめて、後日、大久保に「今日に立ち至り、退いて篤と我が心事追懐つかまつり侯に、大いに西郷君へ対し恥じ入る次第・・・西郷君とはかねて死は一緒と、また従来恩義もあり、旁々我が心を向えば面皮もこれなく、止むを得ざるの策とは申しながら、如何して同氏へ謝し候様これなく恐入るのみにて云々」と手紙したが、この黒田の心意からも推定出来るように、黒田は、単に「西郷朝鮮使節拒否による岩屋天狗抹殺」(止むを得ざる策)という「一ノ秘策」の狙いが、意外にも、西郷自身が政府から去ってしまうという重大事態に立ち至ったことをいたく後悔したのである。

 このことは、大久保の「一ノ秘策」の狙いが、最初から、西郷など留守政権派を政府から退座せしめて、大久保自らが政権を握るという、全く、大久保個人の政権欲に発したものであることを物語るのである。毛利氏はこのことに関して「大久保の真のねらいは、世に伝えられているような征韓阻止云々でなく、他にあったということになる。大久保が、西郷を巻添えにしてでも反対派を政府から追放しようと決意していたのは、いまや明白であろう」と誌されている。

 十月二十三日、西郷辞表提出、翌二十四日西郷の参議、近衛都督解任、板垣など四参議辞表提出、その後西郷は二十八日東京を出発するまで向島小梅の越後屋の寮で西郷頼母(たのも)、真方衆などと語り、横浜で勝海舟と会して船で大阪経由、十一月十日鹿児島へ帰った。

 以後、西郷は明治十年(一八七七)九月二十四日城山において自刃するに至ったのである。

 毛利敏彦氏は「通説は、明治六年の政争が征韓の是非それ自体であったかのように記述しているが、いうまでもなくそれは不正確である。西郷が閣議などの公的な席上で征韓を主張したとする確かな証拠は今日まで発見されていない」とされているが、では、明治政府史家は何を意図して西郷征韓論をデッチ上げたのだろうか? 

 それは、岩屋梓梁の存在の露呈を防遏(ぼうあつ)するとともに、西郷の主張を、征韓を唱える北伐北進の大陸侵攻の思想だったとして国民に鼓吹することに明治政府史家の狙いがあったことを知らなくてはならない。西郷銅像が上野山に堂々と建立されるに至ったゆえんである。
 

 ★明治維新の裏面に暗躍した謀略集団真方衆  <完>。
 (*この第一章は、私家版 『西郷征韓論はなかった』の本編全文を収録したものです。) 
 

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