カウンター 読書日記 ●岩屋天狗と千年王国(16)-2
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●岩屋天狗と千年王国(16)-2
                          西南戦争 遠い崖_1


 ■明治六年政争の真相
 
 ★曲解されている大久保書翰の「蜘蛛ノ捲合」 

 西郷は八月十四日附の板垣への手紙に「西郷を死なせ侯ては不便(不憫)抔と、若哉姑息の心を御起し被下侯ては、何も相叶不申云々」と誌して、西郷使節の死を杞憂する声が出るのに釘をさしたが、大久保は八月十六日関西旅行に出発する前日の八月十五日附、巴里に留学中の村田新八と大山巌宛てに、征韓論争に関して誌したとされる下記の手紙を送った。

「拝啓 弥以御揃御壮固被成御勉学侯半奉敬賀侯、次ニ小子帰朝後無事消光仕侯付、乍余事御降慮可被下候、扨其地滞在中ハ御厚意被示聞奉厚謝候、其后追々投御書被成下御回答モー々不仕失敬御有怒可被下候、当方之形光ハ追々御伝聞モ可有之、実二致様モナキ次第二立至、小子帰朝イタシ候テモ所謂蚊背負山之類ニテ不知所作、今日迄荏甫一同手ノ揃ヲ待居候、仮令有為之志アリトイヘドモ、此際二臨ミ蜘蛛之捲キ合ヲヤツタトテ寸益モナシ、且又愚存モ有之、泰然トシテ傍観仕候、国家ノ事一時ノ憤発力ニテ暴挙イタシ愉快ヲ唱ヘル様ナル事ニテ決テ可成訳ナシ、尤モ其時世ト人情
ノ差異二関係スルハ無論ナルヘシ、詳細ノ情実ハ禿麾ノ所及ニアラス、宜ク新聞紙ヲ閲シテ亮察シ玉へ、
○久光公時シモアレ上京散々ノ風評、是走力為世上一般人気ヲ動カスノミナラス、内輪ノ忠害不少候、去ナカラ小手渡朝ハ一夕立ノ后ニテ格別ノ炎威ヲ不受候得共、要スル処ノ病根ハ明亮ナル事故、小子二於テハ具憂トセサルコト不能、折角配慮中二御座候、是ハ御懸念被成ホトノ事ハ有之マシク存候、
○当今光景ニテハ人馬共ニ倦果不可思議ノ情態二相成候、追々役者モ揃ヒ秋風白雲ノ節二至り候ハハ、元気モ復シ可見ノ開場モ可有之候、
○仏政府モ終二一変ノ由迚モ(とても)無事二相済マシク普モ穏ナラサル赴二被聞候、近情イカカニ候哉、欧州ノ機関モ兎角長ク廻り兼可申候、新聞ハ何卒御洩可被下候、
○両老益御進歩ノ筈大慶仕候、時下無痛様呉々所祈候、眩暈鬱症用アルヘシ、
 右回答旁如此候也  八月十五日  利通
村田様 
大山様。                                  

 御約束ノ通新聞差送り候、先々日比一度ハ送り候間届候哉、両君御覧后、川島、寺田両士へ御送達可被下候、両君ノ御書ハ夫々相届候間御安心可被成候、已后無御遠慮何ニテモ相弁シ候儀ハ御申遣可被成候」

 この書翰の意味について、『大久保利通文書』解説を始め従来史一般の解釈では「致様モナキ次第二立至」「蛛蜘之捲キ合ヲヤツタトテ寸益モナシ」「国家ノ事一時ノ倶発カニテ暴挙イタシ愉快ヲ唱ヘル様ナル事」とは西郷征韓論可否に関する紛糾。「追々役者モ揃ヒ秋風白雲ノ節二至リ候ハハ云々」とは、岩倉使節等の帰朝を待って征韓論をひっくりかえす意だとされているが、この書翰の内容実態について『新聞集成明治編年史』による明治六年一月から八月までの記事をくわしく検討された毛利敏彦氏は「大久保大蔵卿が『新聞紙ヲ閲シテ高察』せよという『当方之形光』とは、決して征韓論云々ではなく、主として大蔵省問題であったとみて間違いなかろう」とされ、『編年史』の中の記事で、征韓論に強いて関係があるのは、「二月二十一日附東京日々新聞の此頃市街湯屋髪結床等にての説に、日本と朝鮮と矛盾の事起り、寅の年の男子を徴して兵と為し、朝鮮に役せしめると、是に於て其年に当れる男子は為に懼怖し、其父母なる者は大に患苦す云々というナンセンス記事ただ一個のみで、それ以外に朝鮮関係の記事は採録されていない」とされ「蜘蛛之捲キ合云々とは大蔵省攻撃の先頭にたっている参議・江藤新平と対決することであり、一時ノ憤発カニテ暴挙イタシ愉快ヲ唱ヘル云々とは司法省臨時裁判所が前大蔵大輔・井上馨に在職中の秘密を新聞に洩らしたとして贖罪金三円を課したことや、あるいは同じく司法省が井上を職権を利用して私服を肥やし民間人から尾去沢銅山をまきあげた容疑で追究した事件を指すと考えるべきであろう」と説明され「大久保の頭のなかは、司法省への不満でいっぱいになっていたはずである。逆にいえば、少なくとも八月十五日の時点では、大久保は、朝鮮使節派遣問題には反対していないし、むしろそれにはあまり関心を持っていなかったといっていいのではなかろうか」とされている。

 しかし、大久保のこの書翰の抽象的な模糊たる表現の文意は、果して、大蔵省問題に関する司法省(江藤新平卿)との対立問題だけをさす謂だろうか?

 「実二致様モナキ次第」「所謂蚊背負山之類ニテ不知所作」(背中でぶんぶんしている蚊の山のようにどうしようもないという意)「一同手ノ揃ヲ待居侯」(在欧の使節団が帰って来るまで待つ)という文意までは平易にそのままの意で理解できるのであるが「此際二臨ミ蜘蛛ノ捲合ヲヤツタトテ寸益モナシ」という表現の解釈には大いに注意する必要があるのである。

 大久保はその当時、関西旅行へ自由に行くことができるような在野転職の立場にあったのだから、大蔵省、司法省問題などについて、在官の者と対等に「蜘蛛ノ捲合」のごとき紛糾した論議ができる立場にはなかったのであるから、この蜘蛛ノ捲合とは、その当時の政治執政の問題の謂ではなく、何か在野の私的な問題といったものに関する謂だと解釈しなくてはならないのである。

そのことは、次の「国家ノ事一時ノ憤発力ニテ暴挙イタシ愉快ヲ唱ヘル様ナル事ニテ決テ可成訳ナシ」という表現からも分るように、大蔵、司法省問題を「一時ノ憤発力」で解決すべき筋合のものでないことからもわかるのである。特に、そういう政治問題を「其時世ト人情ノ差異二関係」して解決すべきものでないことからも理解出来るのである。

 では、この「蜘蜂之捲キ合」「国家ノ事」「一時ノ憤発力ニテ暴挙」などの表現が、大蔵、司法省問題でないとすればそれは何を意味するのだろうか?

 それは、この書翰が、具体的に事実を書かず、すべて漠然たる暗示的表現であることからもわかるように、筆者の記録(『かたいぐち記』『異端記』)による確定的記録によると、それは「岩屋梓梁顕彰」是非に関する西郷派と大久保派(重野など)との抗争をさす謂だと誌されている。

 「岩屋梓梁顕彰」運動は薩摩藩古来の思想、情念として、時ありて隠顕欝勃してきたが、島津の陪臣筋たる徳川幕府倒壊以来、その問題は急速に成起してきたものだったのである。特に真方衆の激励慫慂もあって、西郷は朝鮮和親使節派遣に便乗して(『大隈昔日譚』には「実に征韓てふ大事変を反りて各々其の隠密的意志を行らんと欲せしのみ」「偶爾に起り来りたる対韓問題を仮りて之を行り途げんと欲するより〔征韓〕てふ好題目を掲げ来りて壮言激論し、以て其決行を促かしたるなり」と誌されている)まず、朝鮮における史料史実を確認し、それを証拠として明治政府に、岩屋梓梁の歴史的存在としての顕彰を迫らんとする決心をしたのである。

 明治期における岩屋梓梁顕彰問題の発端は、明治五年五月、重野安繹が大政官中議生となり、歴史編集に着手しだして以来の西郷との論争に始まり、六年二月、重野が左院二等書記官、歴史編輯課長となってから、西郷に「朝鮮に於ける岩屋梓梁に関する史料が確認されない以上、岩屋梓梁に関する『かたいぐち記』と『異端記』の記録は無価値だ」とまで極言して西郷に抗弁した時ついに爆発点に至ったのである。

 後年、重野氏が「抹殺博士」と謂われたのは、古代以来の日本歴史を書いた岩屋梓梁が、歴史を美過因(過去の歴史を美化する)すべく歴史に登場さした児島高徳のごとき多くの架空人物を抹殺したことに縁由しているのである。

 大久保の書翰に「追々役者モ揃ヒ秋気白雲ノ節二至り侯ハハ、元気モ復シ可見ノ開場モ可有之侯」とある
★「可見ノ開場」とは、西郷が真方衆を通じて関西に結集しつつある「国友衆」の実態を調査するため、その手紙を出した翌八月十六日関西へ出発する時の大久保の自信のほどを豪語したものといえるのである。

 大久保は、関西における、真方衆が指嗾(しそう)する国友衆の実情を調査した結果を証拠(可見ノ開場)として、帰京してからの、役者も揃った公式の場において、西郷の朝鮮使節行の目的が朝鮮における岩屋梓梁に関する歴史調査にあることを具申強調して、西郷朝鮮使節派遣を覆滅できるものとしたのである。

特に大久保は、八月十六日関西へ出発するに当って、まず箱根行在所に
宮内少輔・★吉井友実(幸輔、旧薩摩藩士)を訪ねて、岩倉使節が帰朝するまでは西郷の朝鮮使節を天皇が裁下されないよう下工作(ねまわし)をしたのであるが、その根拠は、文教易断政治に反対する武士団、公卿団に擁立された天皇(後奈良)時代のことであったにしても、とにかく、天皇制を危殆ならしめた逆賊岩屋梓梁と易断政府の存在を歴史から抹殺することには天皇も反対しないだろうとする「一ノ秘策」の天皇工作に大久保が絶大なる自信をもっていたことを物語るものである。

 だから私達は、八月十五日附大久保が在巴里の村田、大山へ送った手紙の「蜘蛛ノ捲キ合」とか「一時ノ憤発力」などの奇怪な表現の意味は、以上のような、岩屋梓梁顕彰可否に関する薩摩藩古来の思想政策抗争についての内情を理解しなくてはその真相を知ることはできないことを知らなくてはならない。

 ★西郷が征韓論者として誤解されている第二書翰

 西郷が征韓論者として誤解されている第二の手紙に、八月十七日附板垣へ送った左記(下記)の書翰がある。

 「此節は戦を直様相始め候訳にては決て無之、戦は二段に相成居申候、只今の行掛りにても、公法上より押詰候へば可討の道理は可有之事に候へ共、是は全く言訳の有之迄にて、天下の人は更に存知無之候へば、今日に至り候ては全く戦の意を不持候て、隣交を薄する儀を責且是迄の不遜を相正し、往先隣交を厚する厚意を被示候賦を以て、使節被差向候へば必ズ彼が軽蔑の振舞相顕候のみならず、使節を暴殺に及候儀は決て相違無之事候間、其節は天下の人皆挙て可討の罪を知り可申候間、是非此処迄に不持参候ては不相済場合に候段、内乱を翼ふ心を外に移して国を興すの遠略は勿論旧政府の機会を失し無事を計て終に天下を失ふ所以の確証を取て論じ候処、能々腹に入候間云々、何卒今日御出仕被成下候て少弟被差遣候処御決し被下度、左候へば弥戦に持込可申候に付、此末の処は先生に御譲り可申候間、夫迄の手順は御任し被下度奉合掌候」

 これは、西郷が(三条に対して)此の節は、戦をすぐ始めるわけではなく、戦は二段に成るとして、使節(西郷)が朝鮮で暴殺されることは間違いないから、その時は日本国民が挙げて朝鮮を討つべきの罪を知ってくれますからぜひそこまで事態を持ち込まなくてはなりません。旧政府(徳川幕府)が無事を祈って天下を失ってしまったといういい例があるなどと説明したら三条もよく理解してくれました。だから、私が朝鮮と戦をする事態に持ち込んだら、それから先は(好戦家の)貴男(板垣)の出番ですから宜しく頼みますから、それまでの段取り(手順)は私に任せて下さい(私を朝鮮使節として送って下さい)と西郷が板垣に合掌したことを意味するものである。

 この手紙も、前二通の手紙(七月二十九日、八月十四日附)と同様、西郷が、好戦的な板垣の心意を収攬すべく迎合的に誌した便法の手紙であるが、その板垣が、西郷の真意に触れぬ、余りに表面的な軽捷敏巧に失したものだったため、その当時の政治環境、特に西郷の隠された意図を知らない後世人をして、西郷は征韓を主張したのだとする誤解を生ぜしめるに至ったのである。

 このことについて毛利敏彦氏は「要するに、西郷は、板垣を味方につける手段として板垣の征韓論的傾向を逆用して、あえて使節暴殺論を持ち出したのではなかろうか。そう解釈できる余地は残されているように思われると」誌し「西郷は、暴殺云々を語りながら、何か大事なことを隠しているように思われる」、「西郷が使節暴殺による開戦云々を発言したのは事実である。しかし、これは、西郷が使節派遣の自説を実現するための意図的発言であって、必ずしも西郷の真意を表わしたものでないと解釈するのは、論理的にも史実的にも可能である」と誌されている。

 西郷が、八月十七日板垣へ手紙を送った同じ日の午後の閣議で西郷使節派遣が決定し、それを喜びとした西郷が板垣へ「生涯の愉快此事に御座侯」と手紙し「酷使去来秋気清し、雛林城畔涼を逐ふて行く」と京城行への想懐を詩っていることからしても、西郷の心中には、朝鮮で「暴殺」されるなどということは全然懸念していなかったことがわかるのである。

 八月十七日の閣議決定に基づき、三条は十九日箱根に在る天皇に上奏、九月一日西郷に「就ては外務卿にも協議致し、使節遣わされ侯に付ては、手順、応接の目的など、予め取調べ掛り侯様然るべく侯」と使節内定の意を伝えた。

 以上の経緯からもわかるように、八月十六日関西旅行へ出発した大久保は、西郷が板垣へ送った八月十七日附の手紙のことも、また、八月十七日の西郷使節が閣議決定したことも知らなかったという事実からしても、参議会議において、西郷征韓論などというものは議題にも上らなかったこと がわかるのである。しかし、ここで判然していることは、八月十七日という時点までは、西郷は、その私意私情に基づく「隠密の企図」なるものを板垣には吐露していなかったことがわかるのであるが、『大隈昔日譚』に「所謂征韓論者が、口に征韓を唱ふれども、別に一種の私情、隠密の意志
を包蔵せるを看破せしにあり」と誌されているごとく、板垣が西郷の隠密の企図なるものの実態を知ったのは、九月二十一日関西旅行から帰京した大久保の報告を受けた岩倉が、十月八日、板垣にその実態を話した時であった。そして、それが事実であると板垣が確信するに至ったのは、十月十
三日副島とともに、三条、岩倉と密談したとき、西郷が三条へ送った十月十一日附の「国友に対し死を以て詫ぶる云々」の手紙を証拠として提出された時であった。

 九月二日、黒田開拓次官が樺太出兵を建議したため、西郷は同日、一旦同意するごとき返信をしたが、十三日の手紙で「朝鮮の処迄も崩れ侯ては頓と蔵がめあがり申すべき!」と改めて、朝鮮問題優先を表明した。

 ★事態の転機・岩倉の帰朝 
へ続く。
 
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