カウンター 読書日記 ●岩屋天狗と千年王国(15)
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●岩屋天狗と千年王国(15)
                        明治六年政変 毛利敏彦_1

 ■征韓論の有無を決定する公的史料

 ★ヤジローに関するすべての切支丹史料を提供されたい

 明治六年二月の切支丹解禁は、最終的には参議・西郷隆盛と外務卿★副島種臣の決断によるものであったが、これは「猶今般高札を撤去侯間、念の為御通知申上候」という外交口上書の表現からもわかるように、単に、切支丹禁止の高札を撤去するというだけであって、切支丹側が要求する「切支丹禁止令撤廃」というような、切支丹が絶対的に解禁するということを意味するものではなかった。つまり、これは、日本政府は、必要によっては、いつでも、高札を再び掲げて切支丹を禁止するぞという含みをもって表現した解禁だったのである。

 何故、このような回りくどい表現をしたかというと、日本側には、ヤジローなる人物に関する史料といったものはなく、そういう人物は歴史上存在しないのだから、切支丹側が一方的にヤジローについて歴史を書くと、ヤジローが偉大な人物であっただけに、日本は、自らの手で歴史を書くことはできなくなってしまうという重大な苦境に陥るために、政府は、切支丹側に「切支丹側は、ヤジローについて勝手なことを書くな、すべて、日本側と相談して書け」という威圧をこめて切支丹を解禁(黙認)したものだったのである。

 その趣意については、副島外務卿から、口頭をもって各国大使を通じて切支丹側にも説明がなされ「何よりも先ず、日本側識者・歴史家に、ヤジローに関する総ての史料を提供されたい」という要請がなされたそうであるが、切支丹側にも「切支丹日本渡来初期に於ける宣教師達の横暴とそれに対する日本人の敵意についての反省」(当時の米国公使館公文書、
☆註)といった強い慙愧の意識があっただけに、その間の事情(ヤジローが抹殺されていることについての日本政府の苦境)を了承して、切支丹解禁を、単なる「高札の撤去」という表現だけで満足し快談したのである。そのことについては、当時の切支丹側の記録からしても理解することができるのである。

 ★神道国教主義より国民の徳育化へ

 当時、維新政府は、玉松操などが主唱した神武創業の昔にかえる王政復古、祭政一致といった理念を掲げて発足したのであるが、神道の形而上学的高踏さば、とても、それを行政執行の軌範とするなどということは不可であるという事態に陥ったため、四年八月に神祇官を神祇省に改めて以来、神祇省を教部省に、教部文部両省の合併、やがて、内務省社寺局への移管という職制の変遷からもわかるように、神道は、単なる道徳昂揚の手段と化しつつあったのである。

 このように、神道が、当時圧倒的な優勢さをもって流入しつつあった西欧文明(物質面、精神面)に対する国民的な精神意識としての抵抗力を喪失しつつあった混迷期にあっただけに、突然出来したヤジローなる人物の歴史登場問題は「制度よりも人」「物よりも心」を重視する西郷の心意を強くうったのである。

 そして、このような焦燥と苦悩に沈淪していた西郷の心理を衝くべく、西郷に接触して切支丹人類愛思想を説いたのが、岩倉使節団の副使として渡欧する大久保利通の命によって謀略活動を開始した真方衆の籌略(ちゅうりゃく)だったのである。

 ★狙いは、朝鮮におけるヤジローに関する歴史調査

 西郷は、藤田東湖からも、藩国父・島津久光以下藩土達からも「岩屋天狗の子孫」だと謂われ、また、自分自身もそれを衿持して信じていたから、西郷個人の岩屋梓梁に対する欽慕愛着といったものは一入のものがあったのではないかと思われるのである。

 だから、西郷に接して、歴史的存在としての弥次郎の事蹟を説く真方衆の熱意、特に、十数回渡鮮して韓諺(ハングル、オンモン)を創出するなどして多くの書を成して弥勒天徳教(後に天道教)を説いて国政を執行、壟断し、天文十三年には、朝鮮に侵冦(蛇梁倭変)して、自分と朝鮮王女・玉珥との間に生れた清茂を仁宗として擁立したというような弥次郎の事蹟を真方衆から聞くに及んで、ついに、西郷は、自ら朝鮮大使として渡鮮して、弥次郎に関する史料、事績を調査するという決意をするに至ったのである。

 『近思録』を玉条として敬天愛人の精神を標榜し、それを人生訓として普遍化することを願っていた西郷は、人類愛なる愛を絶対視する切支丹思想は、やがては、神道や仏教を圧倒して日本を風靡するに至るに違いないと判断するに至っていただけに、切支丹と宗論してそれを論破したという
弥次郎、その弥次郎が朝鮮においてなした事績を調査するためには、当時、朝鮮が反日的な大院君と両班が支配している時であっただけに、それは、西郷にとっては、西郷自身の地位、能力を、最大限、最適切に活用、発揮することができる大使として渡鮮すること以外にはその方法はないと判
断したのである。大使のような公的立場の者でなくては、朝鮮側の史料を披見することは不可能であるという真方衆の強い意見だったからである。

「弥次郎は、朝鮮の史料の中では、きっと実在しているに違いない」とそう西郷は期待し、心願していたのではないかと私は思っている。

 ところが、重野、久米氏などは、明治元年の大阪宗教談判直後から、水戸彰考館系統や各藩閥歴史家とともに広く日本国内の史料や史蹟を調査、検討した結果、秀吉以来徳川幕府が、三百年にわたる執念をこめて作りあげた弥次郎抹殺の日本歴史は、一朝一タには手のつけようもない堅塁、それは、たとえ手をつけることができたとしても、またたとえ虚構であっても、その絢爛華麗なる歴史体系は、破壊を加えずにそのまま堅持すべき牙城とすべきものとして、大久保、岩倉、三条、大隈などに進言して、明治六年以来、西郷が公然と主張し、一度びは決定していた西郷朝鮮大使を、ついに、十月の参議会議(いわゆる征韓論争とされているもの)において、無期延期という表現で拒否せしめたのである。

 ★西郷を憎みに悪んだ重野安繹

 大久保、重野など西郷渡鮮反対派は、西郷の渡鮮によって、たとえ、弥次郎の朝鮮における事績が判然したとしても、他国の、しかも朝鮮だけに関する朝鮮だけの史料に拠って、日本の歴史を糾し、条目(すじめ)立たせなくてはならない負目を負うなどということは、可能、不可能といった修史技術の問題どころか、却って日本の歴史上の紛糾、撹乱を未来に残し、それは惹いては、尊皇敬神の日本国民思想にも重大な影響を与え、禍根を永久に浅す元兇になるものと政治判断した結果、断乎、西郷朝鮮大使を否決して、弥次郎抹殺の徳川偽造史を堅持することにしたのである。

 そのことに関しては、明治政治が明治八年、伊地知正治(左院議長兼参議)を総裁、重野安繹を副長、伊地知貞馨を参与として修史局を緊急開設した狙いについて、大久保が伊丹親恒に、薩摩藩閥による岩屋梓梁抹殺と西郷征韓論理確立にあるということを判然言明したということからも理解することができるのである。

 伊丹親恒は筆者の曽祖父(母方、
註)で、大久保利通直下の政府密偵として薩摩において活躍した有名な反西郷派で、『異端記』の最終記録者として、征韓論前後の実情についてもくわしく誌しているのである。

 征韓論争当時における西郷の言動や書翰を、相手方や時の経過との関連において、論理的に、特に心理的に分析することによっても、西郷が征韓論者でなかったことは容易に証明することができるのであるが、重野氏などは、西郷が自分の心境や真相を公表しないまま、生命まで賭して熱望した渡鮮の目的が「弥次郎の史料、事績調査」にあったとしない限り、それを「征韓のためであった」とする以外には、その歴史的理由づけを発見することはできなかったのである。

 かつて、弥次郎抹殺に反対する西郷に、口を極めて幾度か痛罵論難されたことのある重野氏が、西郷を評して「相手をひどく憎む塩梅があった」とか「人は豪傑肌であるけれども度量は大きいとは言えない、謂はば偏狭である」などと貶しているのは、西郷が、こと岩屋梓梁と易断政府の歴史に関する限り、それを歪曲、隠蔽、抹殺するなどということを絶対に許さないと主張したからである。重野は政治的な妥協を求め、西郷は真実を糾さんとするところに争闘の因があったのである。

 重野が、切支丹側から入手した弥次郎に関する史料や事蹟を西郷に語らず、私怨をこめて西郷の人格を誹謗し、執念をこめてデッチ上げた「西郷征韓論」が、後に、日清戦争を契機に、北伐北進論、朝鮮併合、支那侵略、アジア経綸思想の源流として描かれ、西南戦争勃発は、それを、土族軍事国家を夢見た武力反乱であったとして、武断派巨頭・西郷として歴史に虚像されるに至ったのである。

 大久保は、自分が抱負し意図した維新政治、天皇、皇華族、士族、平民という確然たる階級差別に支配された天皇中心の覇道政府を推進するためには、天皇、公卿、武士団の藩屏組織を乱した易断政府岩屋梓梁の歴史的存在は、それを絶対に抹殺しなくてはならないとし、その意に添うべく、重野など皇国史観学者は営々烈々として岩屋梓梁封殺に励んだのである。

 大久保が、西郷を「朝敵」、「亡国論者」だとして、明治六年十月の参議論争の最終段階において、ついに、論争でなく、「一ノ秘策」(天皇工作)なる謀略によって西郷を政治的に葬ってしまったのは、こうした、数百年にわたる歴史に由来した民族の執念を堅持するためだったのである。

 当時、真方衆は、九州においては、主として長崎を中心とする切支丹探索(窪田良助の潜入など)に重点をおいていたのであるが、渡欧する大久保が、伊丹親恒と真方衆に、西郷内偵と切支丹教化を密命したことが、ついには、西郷をして、朝鮮使節として渡鮮決意、参議会議における西郷朝鮮使節否決、西郷鹿児島退隠、西南戦争勃発という途方もない、歴史の渦に巻きこんでしまったのである。

 ★西南戦争に関する外人の見方

 明治十年二月、鹿児島で、決起して北上する西郷軍を肥後境まで見送ったアーネスト・サトーが 「彼等(西郷軍)が唱えているという社会改革とはどういうことなのか知りかねる」「西南戦争についての、日本に於ける表向きの開戦理由(従来史では士族反乱としている)は決して真のものではない」と誌し、また、サトーが勝海洲から聞いた話だとして「薩人の望むことは、新しい天皇をたてることでも、また、現天皇の身柄を擁することでもなく、単に、廟堂につらなる薩人中これまで施政を誤った者の解任である」と誌し、元駐日大使・ライシャワー氏が「西郷の名が超国家主義者の或る人々に利用されたことが、西郷のイメージに害(disservice)を与えているらしい、西郷の生涯と思想について、新しい、徹底的な、釣合いのとれた評価こそ、近代日本史の研究者に大いに価値あるものとなりましょう」(坂元盛秋氏著より。坂元氏の反論に対するライシャワー氏の返信)というような見方、解釈は、日本における正しい西郷像が未だ把握されていないという次第を叫ばれたものといえるのである。

 ★此の核心を掴む人、他日必らずやその人あらん

 だから、西郷征韓論なるものは、このような謀略裏面史や西郷家の家筋、西郷個人の為人(ひととなり)、信念、そして、弥次郎と易断政府の存在が抹殺されているような虚偽の日本歴史を糾さない限り、明治維新の四民平等の精神革命、人民解放は成就しないとした西郷と、歴史の糾明などという精神要素よりも、神話を演出した絶対主義天皇制の下に、国の物質的近代化(富国強兵、殖産興業など)を急ぐテクノクラシー有司専制による西欧型覇道政府を樹立することこそ日本の進路だとした大久保、特に、己れの青少年時代からの潜在意識としてあった、夢見る浪漫主義者・西郷を破却しない限り、いづれは、己れの政治生命は葬られるに至るに違いないとした現実主義者・大久保とが、それぞれ、この論争こそ、日本の将来を卜する断頭の闘いであると判断し決意していた二人の心理的相剋を理解しない限り、到底、征韓論なるものは、その真相を極めることは出来ない歴史の虚構なのである。

 今にして徳富蘇峰氏の「征韓論は史上の一大疑案にして、今後も更に此の問題について史識と史実とを試むる者あるべき。予が切に待望するものである」「惟ふに此の核心を掴む人は、他日必らず其の人あらん」と断ぜられた遺命的悲願、内村鑑三氏の「西郷の思想と行動が真に理解されるためには、なお今後百年を待つべし」という絶叫が、西郷死後百年忌祭を迎える今、身に泌みて耳朶をうつのである。

 特に、大久保が想念した武弁化日本は、八絃一宇を夢みた大東亜戦争として数百万の日本民衆を殺すことによって昭和二十年の敗戦をもって終り、西郷が翼望したアジア的王道国家(この王道とは、所謂天皇主義王覇でなく、かって孫文が主張したようなアジア的王道国家、西郷遺訓にある「万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕者を戒め、節倹に勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒と思ふようならでは政令は行はれ難し、然るに草創の姶に立ちながら、家臣を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也、今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿と成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて頻りに涙を催されける」というような温情ある王道国家)への明治維新は未だ道遠き重き任となって民衆にのしかかっているのであるが、最近は、それどころか、西郷が恐れた露西亜の侵略、西郷に薫陶された庄内藩土・酒井玄蕃が誌した西郷・の憂患「今日の御国情に相成り侯ては、所詮無事に相済むべき事もこれなく畢竟は魯と戦争に相成り侯外これなく、既に戦争と御決着に相成り侯日には、直ちに軍艦にて取り運び申さずば相成らず、只今北海道を保護し、夫にて魯国に対峙相成るべきか、左すれば弥以て朝鮮の事御取り運びに相成り、ホセッドの方よりニコライ迄も張り出し、此方より屹度一歩彼の地に踏み込んで北地は護衛し・・・兼ねて掎角の勢いにて、英、魯の際に近く事起り申すべきと・・・能々英国と申し合わせ事を挙げ侯日には魯国恐るに足らずと存じ奉り侯」というような、朝鮮と和親することは対魯防衛上絶対必要条件だと叫んだ地下の西郷は、北方領土を強盗占拠している現在のソビエトを何とみるであろうか。唯々、涙涙。

 ★征韓論の謎を解く決定的公式書翰

 以上のごとく、明治六年の参議論争は、権力主張の史料だけでも多くの謎、疑問に包まれているのだから、征韓論なるものの実体は、少くとも「不可解」と結論づけるべきものなのであるが、明治政府史家は、全力を煩倒して、正しい史実を歪曲、捏造して、それを「征韓」可否に関する外征派と内治派の論争だったとして、西郷を「征韓主張者」と決定づけ、それは、現在、中学校、高等学校などの教科書などにも誌され、国民的常識とまでなっているのである。

 しかし、明治六年の参議論争が果して「征韓」可否に関する論争だったかどうかを決定的に判断できる公的史料は、実に、明治六年の参議論争の最終段階において、十月十五日から十七日までの間に、西郷が、太政官他三条、岩倉、木戸、大久保、島津久光など多くの有力者へ送った「朝鮮御交際の儀」と首記した遣韓使節問題に関する顚末書であることを知らなくてはならない。

 明治六年十月十五日附、西郷が太政官へ提出した公式書翰

 朝鮮御交際の儀
 御一新の涯より及数度使節被差立百方御手を被尽候得共、悉ク水泡と相成候のみならず、数々無礼を働き候儀有之、近来は人民互の商道も相塞、倭館詰の者も甚国難の場合に立至候故、無ク御処、護兵一大隊可被差出御評議も趣承知いたし候付、護兵の儀は決て不宜、是よりして闘争に及候ては最初の御趣意に相反し候間此節は公然と使節被差立相当の事に可有之、若彼より交を破り戦を以テ拒絶可致哉、其意底慥に相顕倒処迄は不被為尽候ては、人事に於ても残る処可有之、自然暴挙も不被計抔との御疑念を以テ非常の備を設け被差遣候ては、又礼を失せられ候得ば、是非交誼を厚く被成候御趣意貫徹いたし候様有之度、其上暴挙の時機に至候て、初て彼の曲事分明に天下に鳴し、其罪を可問訳に御座候、いまだ十分尽さざるものを以て、彼の非をのみ責候ては、其罪を真に知る処無之、彼我共疑惑致し候故、討人も怒らず、討るるものも服せず候付、是非曲直判然と相定候儀、肝要の事と見居建言いたし候処、御採用相成、御伺の上使節私え被仰付候筋、御内定相成居候次第に御座候。此段形行(なりゆき)申し上候。 以上。

 **************

 この書翰からもわかるように、西郷は、朝鮮に対しては、最後の最後まで、交誼を厚くする趣旨を貫徹してゆく方針を執るよう主張して、それが、参議会議において御採用になって西郷の使節派遣が決定したものである、とそれまでの顚末を誌し、朝鮮を征伐するなどということは一言も言っていないのである。

 この形行書(なるゆきがき)を太政官他有力者へ送った西郷の狙いは、徳川幕府によって歴史から抹殺されている弥次郎の存在の歴史的取扱いについて幾度か論争したことのある歴史家・重野安繹が参議論争の裏面で策謀しているため、西郷は、後世において、明治六年の参議朝鮮使節論争に関する正しい史実が歪曲されることを恐れて、太政官に正しい事実を誌した顚末書を遺して後世に伝えんとしたのである。

 西郷の悲憤如何ばかりか、その正道を踏まんとした精魂を傾けた努力も、重野、久米など明治史家が謀った筆談の前に空しく葬り去られているのが現状なのである。だから、明治征韓論争の本質規定に際しては、この顚末書が決定的要因であることを知らなくてはならないのである。

 では、この西郷の顚末書が叫ぶ如く、明治六年の参議論争が「征韓論争でなく、西郷使節派遣可否論争であった」とすれば、その使節可否は何を意味する論争だったのだろうか?

 私は、それを「日本朝鮮親交」の他に「朝鮮における弥次郎に関する史料、事蹟調査可否に関する論争」であったとして説いてきたのであるが、最近、毛利敏彦氏が「明治六年の政変は、征韓論と非征韓論の対立からではなく、他の原因によって起きたと考えるべきであろう」と論取され「その他の原因」なるものは、要するに、和親使節たらんとした「西郷の熱意にあった」と断定されている。

しかし、その西郷の熱意をかき立てたもの、その心意が不明である限り、単なる熱意だけでは歴史的考証とは成り得ないのである。

 そういう意味からしても、毛利氏の、西郷征韓論の存在を否定する論証は、西郷が遣韓大使たらんことを熱意した副次的目的が、私が説くごとく「朝鮮における弥次郎に関する史料、事蹟調査にあった」と規定することによって、愈々、その論証の歴史的合理的な万全さを期しうるものであると断言できるのである。

 現在、多くの政治思想史家、評論家が、西郷征韓論に疑問を抱きまたはそれを否定されつつある事実は、人間の良心と知性が真理の光芒を標榜しつつあるものとして喜びにたえないのである。

 ****************

〔註〕明治初期切支丹渡来当時における切支丹関係文書

 「切支丹日本渡来初期における宣教師達の横暴とそれに対する日本人の敵意についての反省」(米国公使館公文書)「キリスト教諸国民と交わることに対する日本国民の根深い嫌悪は、初期宣教師、わけてもポルトガルの宣教師の無分別な布教熱に主として基づくといわれている」(一八五二年、ペリーに対する米国政府訓令の一部)「カトリック宣教師が無分別な熱意に駆られ、キリシタンにまつわる往時の敵意を呼び起しているのではないとよいが・・・」(パークスからハモンド外務次官への非公式報告)インドのゴアにおけるザビエルの弥次郎に対する質疑に対する弥次郎の応答を「千古不磨の金言だ」と絶賛したオール・コックの記録。

〔註〕『異端記』を遺した筆者の曽祖父・伊丹親恒

 親恒の祖道与、道甫父子は、岩屋梓梁が永正年代、伊集院鴬宿(重野氏も誌しているように、本邦における日本的歌舞音曲芸道の開創の地)の茶道の師として京から伊集院へ送り、九州における鴛宿派茶道(後に、徳川によって、藪鴬から藪内派と改称さる)の祖となったが、後に、島津義弘に従って加治木(大隅)へ移り、代々、伊丹家は加治木を継承の地とした。

 親恒は佐賀の乱の時、大久保内務卿からの急電によって部下二十名を率いて江藤新平を追って佐賀から鹿児島に入り、島義勇、副島謙介など十余名を捕縛した豪の者であったが、中原尚雄とともに、真方衆の謀略に乗ぜられた不用意の言が西南戦争勃発の因となり、反西郷党の密慎として私学校党に捕らえられた。

 その時の模様に関して左記のごとき手記を残した。

 「予は即ち廷卒のために引かれて其上に引据へられ、顔面頭首、四肢、腹背、所撰ばず有らゆる彼等の悪虐を受け、鞭楚乱打急霞の如く肉破れ骨挫け、目眩みロ血を吐く云々」
 「殊に甚しきは手指五本皮肉全く毀ち去られ、唯白き骨のみ露はに残るものあるという云々」
 「従是して賊軍肥後口に進攻するの間、私学校党の其官軍に属せるものの親族にして国に在るものを監視する頗る峻厳を極む。即ち予の家の如きは日夜賊徒其邸宅の周囲を警戒し出入を誰何す云々」
 「殊に予が当時の妻は私学校党の出なりしかば、其父母は強いて其妻を奪ひ、予牢居の際愛児を残して帷を去らしめたり。時に予の両親が最も悲惨の思ひを致したるは、生後僅かに十ケ月なる一孫児・松雄、終日終夜飢に泣き母を慕ひ乳を求めて止まざりしにぞある。乳母を雇はんか、官軍方なる者の家に入るは薪を抱いて火に入るよりも危険なりとて之に応ずるものなく、痩せ衰へて直に皮骨のみを包める形容の凄傖なりしは何とも言はん方なかりしと云々」
「余し父、いたづらに生を貪って哀れ賊子に倒れんは心もとなし、いさぎよく自決せんにしかずとその弟にして別に家する者野田を呼びて決心を告げしに、弟もまた最早や死するの時なるべしと同意したり。ここに於て、一家族三宝土器に水を酌みて別離を一叙し、まず第一に父は孫・松雄を刺して後に自刃せんとこれを引き寄せんとしたるに、これまで悲哀に沈み居た母は哀れに湛へ兼ね、気も狂乱して全く心神を喪失せるがごとく、忽然、孫を抱き去り、かたわらなる畑の陰に行き倒れ、漣然として自失せるの時、家を列せる新納某氏来りこれを抑止したるにより、事やむに至りたりしと云う云々」

 右の赤児・松雄が後の陸軍中将・伊丹松雄であるが、松雄十七才の時、その身辺に侍すべく伊集院から加治木伊丹家に送りこまれた真方衆本溜ウメとの間に生れたのが筆者の母フクである。

 明治二十五年当時、岡山県で郡長をしていた伊丹親恒は、かつて反西郷党(官軍側)に与したことをいたく後悔していたため、当時、全国からの史料蒐集に腐心していた重野安繹の、伊丹家に対する執拗強引な探訪を避くべく、士官学校に入校するため鹿児島を去る息・松雄をして『異端記』をウメに托して秘匿せしめたのである。しかし、真方衆の手に移った『異端記』の所在は容易に知ることを得なくなってしまったのである。

 ウメは伊集院町上方眼古園の福光市左ヱ門(市太郎)に再嫁したが、昭和二十一年秋、筆者を「タマモッどん」にすると称して[その内容をしゃべると殺されるから」と、門外不出、一子相伝という『かたいぐち記』と『異端記』なる古文書記録を涙ながらに筆者に渡したのである。

 『かたいぐち記』は、ウメが、娘フクを、真方衆窪田袈裟市(筆者の父。真方衆は、普化僧をその草走りの一つとしていたため、袈裟名はその通称の一つであった)へ嫁せしめる条件として、真方衆に、苛酷な訓化の暴行などの二言なからしめるため、真方衆誓約の肯綮を衝くべく、真方衆秘伝の『かたいぐち記』を巧妙に騙取したものだったのである。

 伊丹松雄は昭和三十三年六月二十三日死んだが、生前、当時鹿児島県立第一高女在学中の筆者の妹・巧美子(現平田姓)を、在学中と死の一年前の三十二年六月密かに訪ねて歓談し、窪田家に対する誄(ルイ、死んだ人々の功績、功徳を述べて哀悼の意を表する)を述べたという。死を予期した松雄の、窪田家に対する今生の別れであったと思われるのである。

 *****************
 
 ■明治六年政争の真相
 へ 続く。
 

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