カウンター 読書日記 ●岩屋天狗と千年王国(14)
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●岩屋天狗と千年王国(14)
                           鎖国 和辻哲郎_1

                           フロイス日本史第6巻_1

 
 ■西郷を衝撃した明治切支丹 ― その解禁の謎
 
 ★不可解な切支丹解禁の謎
 
 明治維新史を繙(ひもと)く場合、私達が誠に奇妙に思うことの一つは、徳川幕府が三百年にわたる執念をこめて堅持してき、しかも、明治政府が発足早々の元年三月十五日「永世の定法」(切支丹宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ)として再確認した切支丹禁制を、明治六年二月二十四日、反切支丹とされた西郷留守内閣時代に至って「高札の撤去」という表現で簡単に解禁したという事実である。

 史家は、切支丹解禁の理由を、一般に、
 ①明治政府首班・西郷隆盛と副島外務卿が、条約改正を急がんとする余り、外国側に阿ったから
 ②岩倉渡欧使節団が、日本における切支丹迫害に対する海外キリスト教徒の反対与論、攻撃を痛感して、切支丹を解禁すべく、西郷留守内閣に急電を発したから
 ③キリスト教外交団の強い圧力があったから

 というような蓋然的判断でしかその理由を説明していないが、その当時における切支丹解禁の経緯を検討した場合、三百年にわたる民族の執念であった切支丹禁止を、極めて短時日に、誠に簡単に解禁した理由、経緯について、私達は多くの疑惑を抱かざるを得ないのである。

 ・反切支丹とされた西郷が、何故、易々と切支丹を解禁したのだろうか?
 ・解禁の急電をうったという岩倉使節団が間もなく帰国するという明治六年二月という時点に、その帰国を待たずに、如何にも即急に解禁したのは何故だろうか?
 ・切支丹解禁を要求する切支丹従衆の暴動的抵抗といったような社会的騒乱などは全然なかったのに、政府は何故一方的に解禁したのだろうか?
 ・政府が、解禁を単なる「高札の撤去」と誌した副島外務卿の米伊公使への口上覚書(二月二十六日)と「従来、高札ノ儀ハー般熟知ノ事二付、向後、取除キ可申事」という太政官布告だけで黙認して、、一般民衆には解禁を公表布達せず極秘にしてきたのは何故だろうか?
 しかも、それに符節を合せたかのように、切支丹側も、民衆に対する積極的な布教活動を展開しなかったのは、その裏面に、解禁に関する両者の丁解事項といったようなものがあったのではなかろうかという謎。このような場合、宗教活動は堰を切ったように奔騰するのが一般なのだからである。

 上のような疑問を反省、検討した場合、西郷内閣時代の明治六年という時点における切支丹解禁は、その行政執行面からしても、また、当時の社会的客観状況からしても、その早急な解禁を妥当、必然とするような根拠は何もなかったといえるのである。
 
 ★無効果に終った切り札、切支丹解禁
 
 明治四年十一月十二日(新十二月二十三日)出発した岩倉使節団の渡欧使節の第一の任務が、条約改正に関する準備工作ということにあったことから検討した場合、使節団が、その準備工作としては、ほとんど見るべき成果を挙げず、精々、条約改正(最恵国待遇、治外注権の撤廃、関税自主権の確立など)が、長年月をかけなくては、一朝一タには至難なものであるという心証、自覚を得たということがせめてもの成果であったとされていることからしても、使節団が未だ帰国せず、したがって、条約改正に関するくわしい情報もわからず、見通しも全然わかっていない明治六年二月という時点で、西郷留守内閣が、太政大臣三条実美の表立った反対もうけずに、如何にも即急に切支丹を解禁(黙認)したということは誠に不可解千万といわなくてはならないのである。

 つまり、条約改正と交換条件に、たとえ交換条件でなくても、少くとも、西欧側政府が条約改正を約束し、裏付けを保証するような、最低限、なんらかの見通しを得る態の外交接渉があった後に認むべきであった切支丹解禁という取って置きの切り札を、使節団が幾何もなく帰国するという時点において、西郷内閣は、何故、筒単に切り捨ててしまったのだろうか?

条約改正が実現したのは、それから二十年後の明治二十七年七月に至って、ようやく、英国との間に初めて成立したという事実からしても、明治六年二月の突然の切支丹解禁は全く納得がゆかないのである。

 では、明治六年という時点で、切支丹が解禁された理由、契機は何であったろうか? 何故、解禁を急いだのだろうか? 何故、解禁の理由、経緯が判然しないのだろうか? 何故「高札の撤去」というような奇態な表現で黙認したのだろうか?

 そうした事実の裏面事情を知らんとする場合、私達が非常に痛感することは、明治維新初期における切支丹解禁の経緯に関する日本側の史料や史的研究が意外に斟い(少ない)ということである。

 切支丹問題については、幕末までは、『幕末外交関係文書』(大日本古文書)として民間を含め意外に尨大なものがあるが、明治期に至ってからは途端に斟く、公文書としては、『大日本外交文書』(これは、外務省調査部が昭和十年ようやく編纂に着手したものである)があるだけで、わずかに、民間に、大久保、岩倉、大隅、勝海舟、福沢諭吉などの日記や回想録といったものがようやく手掛りになっているに過ぎず、しかも、重野、久米、星野、小中村、栗田など、明治初期において、切支丹問題に最も深刻に取り組んだはずの史家の史料がほとんど残っていないのは誠に奇怪千万といわなくてはならないのである。

 その点に関しては、外国側文書が意外に多くかつ精彩を極めていることは、村上直次郎、新村出、海老沢有道、浦川和三郎、片岡弥吉、姉崎正治、広瀬靖子、松田毅一、幸田成友、徳重浅吉氏など多くの研究が教えている通りであるが、それでも「基督教近代史(明治期)の研究が不充分である」ということは、海老沢氏の「日本キリスト教史研究の一盲点、従来あえて無視されている一面」など多くの書が叫んでいる通りである。

 このような事実は、明治史家が、明治初期における切支丹解禁の史的意義、政治的社会的効果を重視しなかったからではなく、当時の重野、久米氏など皇国史観歴史家が、切支丹解禁の経緯を判然させることを、国家のため「不為」としたため、意識的に当時の記録を残さず、むしろ、計画的
に焼亡、減却する方針をとったからだと思われるのである。
 
 ★恐るべき重野実証史学の狙い
 
 明治十年、東京帝大創立とともに、世界各国史(英、仏、希、羅馬)の研究科を設けながら、東洋史と日本史の研究科目が削除され、明治二十六年に至ってようやく国史学研究の講座が設けられ、明治三十七年に至って、始めて、国史学科、東洋史学科で設けられた事実は、明治八年修史局創設後、二十六年までの十八年間は、玉野氏など歴史学者だけが独占して日本歴史を研究し、切支丹解禁や明治六年の参議論争(いわゆる征韓論争とされているもの)、切支丹関係史、西南戦争の起因、経緯などに関する真相を掩蔽、歪曲する作業の期間だったと思われるのである。

 英国公使館付書記官、アーネスト・サトーが日本で蒐集した切支丹日本渡来初期における切支丹関係の重要資料(Annuar Letters of the Early christian Missions from Japan china etc)で東大史料編纂所に保管されていたものが何者かによって★焼却されてしまった奇怪な事件や、西郷が重野安繹に渡した「岩屋梓梁と易断政府関係資料」(真方衆が転写して西郷に渡し、西郷は重野から、皇朝史料として永久に保存するという言質を得て重野へ渡したもの)が現在東大に無いという事実も、明治政府、明治史家の歴史捏造歪曲の事実を物語るものである。

 そういう歴史抹殺の重大な事実の一つに、明治元年五月、西欧切支丹外交団の圧力により、大阪行在所で行われた「宗教談判」の論争内容に関する記録が全然残されていないということがある。この宗教談判は、西郷の心理に重大な影響を与え、西郷をして、やがて切支丹解禁を決意せしめるに至った重大な心理的動機の一つとなったものであるだけに、その会議に列席した重野、久米両氏が談判の記録を残さなかったということは、二人が、意識的に歴史抹殺を図ったものとしか断定せざるを得ないのである。

 「荀も史学に従事する者は、先づ、其の心術を正しくせざるべからず」「事実を明らかにし、事実を伝ふべし」として「史学の方法は遂に考証に帰す」と称して「国家は歴史なり」とか「国家を捨てて史学なし」などと誇称した重野実証史学なるものは、まさしく、岩屋梓梁抹殺と西郷征韓論理確立の自信のほどを豪語したものといえよう。切支丹解禁と西郷征韓論、西南戦争に関する重大な謎が今尚未解決であるゆえんであるが、そういう謎の一つに、西郷に接触した真方教の切支丹密偵の活動があったことを忘れてはならないのである。

 ★西郷を訪ねた切支丹密偵

 岩倉使節団が横浜を出港した約一ケ月後の明治四年十二月八日(新五年一月十八日)小網町の西郷屋敷(旧・酒井雅楽頭の中屋敷)に眼光炯々たる風体賎しからぬ大男が、誰の紹介もなく突然面会を求めて「唯徴志之一途と、当御館之御仁風を慕ひ上書仕候」と誌した建白書に、阿部真造惇信(伊集院・窪田家から宮ノ城・阿部家へ転籍した人物)と記名した身分手続を添えて提出した。

 西郷を訪ねた目的は、建白書に「世界四大教之内、耶蘇教之右二出る者ハ無御座候、是を屈し候道ハ、唯我古正伝之神道より外ニハ無御座候、此耶蘇教さへ取挫き置き候得ハ、如何程外交盛二相成候共、皇国ハ万々歳、益奉安無疑候」と誌されているように「私なら、古正伝の神道によって耶蘇教を取り挫くことが出来ますから、私を、耶蘇教打砕のための政府の宣教者にして下さい」といった趣旨のものであったが、西郷としては、神祇、宣教部門の事務とは直接の関係はなかったので、一応、太政官と教部省に、書類と人物の取り調べ方を依頼したのである。

 しかし、日本政府の宣教者になろうとしたこの人物が、太政官や教部省を訪ねる前に、何故、西郷を最初に訪ねたのだろうかという疑問からもわかるように、この人物が、最初に西郷を訪ねた目的は、宣教者になりたいためではなく、本当は、西郷に接して、西郷に、切支丹宗旨を説かんとするのがその目的だったのである。

 ところが、西郷ほどの人格的光芒に、切支丹宗旨の照射を企図するなどということは容易なことではないし、また、よほどの自信、がなくてはとてもできることではないことからもわかるように、この人物は、幕末以来、長崎において活躍したプチイジャン司教の下に、切支丹探索の目的をもって潜入していた窪田良助こと真方なる隠密名で潜入していた真方衆密偵だったものを、明治四年末、渡欧使節として出発する前の大久保が真方衆に下した命によって、西郷を切支丹教化する目的をもって西郷に接触を求めていった人物だったのである。ところが、その大久保は、その謀略工作において、自らが、重大な過失を犯していることを知らなかったのである。

 というのは、大久保が真方衆に依頼して選び出された窪田良助なる人物は、全国的な真方衆密偵組織の一員であって、すでに、その時には、その他の真方衆は、当時、東京上渋谷村、井伊掃部頭抱屋敷(現在の渋谷区原宿、明治神宮敷地)、ちんころ屋敷、隠田井筒、中渋谷村ツチ因幡(後に、岩谷松平太郎の屋敷)、下渋谷村ヤンブシ(山武士、修験者屋敷)、弁天さん(薩州屋敷)、青山村黒鍬谷、中豊沢村神泉谷、駒場野と謂われた渋谷地区所在各地の草伏(秘密の隠れ家)に離ぐん索居し、道玄山一帯を会衆の中心として、西郷の身辺に雲集して、岩屋梓梁と易断政府顕彰への潜行運動を活発に展開していたのである。

 大久保がその事実を知ったのは、遣欧使節から帰国した時(明治六年五月二十六日)、西郷と真方衆一党が、小網町から上渋谷井伊抱屋敷へ本拠を移して、道玄坂一帯を中心として奇怪な行動が多いという情報を得てからのことだったのである。従来史は、この事実を隠蔽するため、西郷は、渋谷宮益坂の弟・従道の家に居住していたとしているが、それは、通信受授のため、時たま訪ねて来る隆盛に対して、従道一家の者は口も利かぬほど西郷を忌避していたのである。従道一家の者は、隆盛は群狼に擁せられて謀叛(乱臣賊子)を企てているとみていたからである。

 西郷は、明治四年九月、島津久光及び有司専制派の意を迎えるために伊地知正治が書いた草案による「事務建言書」で「夫レ外国の教旨は明神を真視して君父を仮想し、人倫を紊り候儀災害同徹、今より是を予防せざれば後年の大害不可枚挙に立至候云々」と書いた切支丹排除の書を太政官へ提出した。

 この建言書の署名は伊地知正治、筆蹟は西郷であるが、この書は、西郷の敬天愛人というような儒教的性格からして、岩倉使節団の渡欧留守間の西郷執政が切支丹を許容しかねないとみた伊地知が、西郷自身の手で西郷自らに枠を嵌め置かしめようとして西郷に書かせたもので、島津久光の言 「あれだけはすんな」とは、切支丹解禁すなわち岩屋梓梁露呈反対の意だったのである。

 しかし、この建言書を見た大久保は、自分たちが渡欧している間の留守内閣の執政となる西郷の切支丹排撃偏向を恐れて、真方衆を通じて窪田良前に、西郷切支丹教化を、また、真方衆の殊勝を装う進言により伊丹親恒に、西郷との私的接触とその私生活、身辺の内偵を依頼したのである。権謀術数に長けていた真方衆の変幻自在さは、西郷と大久保に対しても、陰陽煽惑してその行動は容易に<サユ>すべからざるものがあったのである。

 窪田良肋は洗礼名アクナシオ、当時西海切支丹教徒から「日本ノ大和尚」(註)と畏怖された切支丹教師で、明治二年長崎を出発、上海、香港、サイゴンに遊学、明治四年二月横浜に帰着、居留地の天主堂に居住していたが、大久保の依頼による真方衆の指令により、渡欧使節団出発一ケ月後の明治四年十二月八日西郷に接触を求めて切支丹教化という官位工作を展開していったのである。

 しかし、良助は純粋に切支丹教化していたため、西郷の面前で、他の真方衆と、切支丹と仏教、神道に関する大激論をするに至ったのであるが、西郷の「もう、喧嘩はそのへんでよかろう、先づ、何よっか、天狗どんの朝鮮における事蹟を調べるこっが先行じゃ」という結言に続いて西郷の朝鮮行の決意表明があったのである。

  ★西郷の朝鮮行の副次的目的

 西郷が朝鮮大使となることを決意した理由は、日本と朝鮮の親交を正常化するとともに、岩屋梓梁の朝鮮における事蹟調査をすることにその第二の狙いがあったが、その直接的動機となったものは、岩屋梓梁抹殺を主張する重野安繹が、西郷が提出した「岩屋梓梁と易新政府に関する真方衆史
料」に絶句した挙句、西郷に対し「朝鮮の裏付け史料が無くては無価値だ」と抗弁したということと、当時、朝鮮を風靡しつつあった東学(教祖・崔済愚、いわゆる〔東学党の乱〕、註)の思想的淵源が、かつて岩屋梓梁が朝鮮において布教した弥勒天徳教にあって、それを、朝鮮哲宗六年(安政二年、1855)初夏、真方衆朝鮮密偵(方氏、当時朝鮮では一般に白髪の老人と称された)が崔済愚を慫慂して再興させたものであるという史的由来を真方衆から教えられたからでもあるが、何よりも、重野安繹が西欧側歴史家と結託して、西郷など岩屋梓梁顕彰派を排除して西欧側提供の切支丹記録を披見せしめなかったということが、それを期待して切支丹を解禁した(明治六年二月二十四日)西郷をして、いたく朝鮮行を焦燥せしめるに至った重大な心因となったのである。

 西郷を切支丹教化するために、窪田良助を西郷に接触せしめるに当って、大久保と切支丹側との間に事前の打合せがあったかどうかは不明であるが、大久保は、慶応二年、腹心の重野を長崎へ派して、真方衆の長崎における切支丹探索の実体を調査せしめているから大久保の発想ではないかと思う。しかし、大久保は、真方衆・窪田良助が西郷に接触することが、やがて、西郷が、有馬藤太をして、京阪権大巡察に任命せしめて、切支丹関係者を警衛せしめたり、また、西郷の切支丹解禁や京都薩摩藩邸の切支丹側への提供(現同志社大学の地)にまで展開してくるとまでは予想していなかったのである。窪田良助は真摯な切支丹教師であったが、密偵であったという瑕疵は、その後における切支丹側からの冀望(きぼう)を断たれてしまったのである。

 〔註〕貞方良助こと[日本ノ大和尚」
  良助のことについては、海老沢有道氏のくわしい研究があり、阿部慎蔵、真造、安倍新三などとも称し、その著に『夢醒真論』『弁正洋教』などがあるという。後に、西郷の指示により、旧会津藩士・山本覚馬、新島襄などと接触、京都旧薩摩藩邸を切支丹側に提供するなどの工作をなした。

 〔註〕東学党の乱と西郷四郎
  天道の教理、始祖・崔済愚、一八二四~六四年刑死、いわゆる東学党の乱。教祖の刑死に反動して、明治四年、東学党の官府襲撃などの過激な仲篤運動が起った。
  この乱に関する朝鮮真方衆からの情報で、西郷は、東学運動の動向にいたく瞠目したのである。この運動に賛同した日本人の団体が「天佑侠」で、その一人に、会津の西郷四郎悳武(西郷隆盛が会津津川で初会した志田某氏の一族、小説姿三四郎に擬せられた人物)がある。

 ■征韓論の有無を決定する公的史料
 へ続く。                      
 

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