カウンター 読書日記 ●岩屋天狗と千年王国(13)-1
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●岩屋天狗と千年王国(13)-1
                    田中清玄自伝_1
                                        
                 『田中清玄(きよはる)自伝』 ちくま文庫。
                ↓会津藩家老・田中土佐(玄清はるきよ)の子孫。
                 その第一章は「会津武士と共産党」。
                 ★<吉薗周蔵の手記>にも「登場」する。

                  当ブログの以前の記事は←左の「ブログ内検索」で
                  【田中清玄】と入力すれば、出てきます。                     
 
 ■第二次革命を盟約した薩摩西郷と会津西郷

 ★『栖雲記』が語る薩摩西郷と会津西郷

 戊辰戦争の会津城攻防戦の最中、婦女子を含む一族二十一名が悉く自刃し果てた会津西郷家の当主・頼母近悳(ちかのり)その人は明治三十八年(三十六年説もある☆)まで生きのびた。
 ☆明治36年4月28日病没(74歳)。

 そのため、現在、会津方面における風教、人心には、追腹しなかった頼母に対する意識は薄く、むしろ、生き恥をさらした卑怯者として異端者扱いされているのが実情であると聞くが、実は、動乱渦中の当時、自刃を決意していた西郷頼母をして、生き伸びることに死を越える深大な使命があることを感銘せしめるに至ったのは、船渡の戦(会津盆地越後口、只見川渡)で頼母に初めて会った薩摩西郷隆盛の、自ら頼母の手を取っての必死の生への説得があったからなのである。

 薩摩西郷と会津西郷の関係については、現在、わずかに、頼母が書いた『栖雲記』なる私記に、

「維新の初め、館林藩の幽閉を免ぜられ、東の京・隅田川の川辺より、伊豆の月の浦近きあたりに移りしが、やがて、謹申学舎を開き、里人等に学びの道を授けしに、都々古別の宮司になりたる後、その辞すべき旨令せられしは、西郷隆盛が謀反に組せし疑とぞ聞ゆ」

と誌されて、頼母は「隆盛の謀反」(征韓論から西南戦争)に加わっていたとして政府から疑われたらしい、と暗示的に表現されているだけであるが、頼母自記の謀反という表現からも、また、最近発見された隆盛から頼母へ宛てられた二通の書翰(註)からもわかるように、両西郷は、維新政府発足後、早急の時機に第二次革命を敢行するという固い盟約をしていたのである。

 ★隆盛、必死に頼母との連絡を策す

 沖永良部島の流謫を免ぜられて、元治元年(1864)三月上京、軍賦役として薩摩藩の在京責任者となった西郷隆盛は、同年七月の禁門の変(蛤御門の変、その前年の文久三年八月十八日の政変で京を追われた長州藩は元治元年七月、三家老が兵を率いて入京せんとして、会津、薩摩藩兵と蛤御門附近に戦って敗北した)以後の会津藩内の情勢把握に努力し、特に、会津候・保科容保の京都守護職就任に反対したため蟄居を命ぜられて国元の下長原村栖雲亭に隠棲している西郷頼母に対しては、真方衆を通じて再三の接触を図って、同祖同族として親炙の意を表せしめたのであるが、慶応四年(明治元年、1868年)一月の鳥羽伏見の戦の時、盲目で下半身不随の病床にあったため、京都市内で薩摩藩兵に捕えられて薩摩藩邸で厚遇されていた会津砲術家・山本覚馬の意見によって、西郷隆盛は、西郷頼母、神保修理(後に二月十二日庄戸において屠腹)、田中土佐(八月二十三日自刃)三人が、会津藩との交渉を平和裡に収束できる人物であると確信していたので、北越戦線にあった明治元年八月、隆盛は、真方衆と、新発田藩家老・溝口半兵衛の了解を得た新発田藩士・窪田半兵衛をして、会津藩・境津川の戦で官軍に敗れた会津藩兵の兵事方・西郷陽次郎直節(頼母の実弟、山田家を継ぐ)と関牧守の志田某とともに、津川から若松城下へ最短道を急行せしめて、会津藩土・窪田伴(その兄伴治は禁門の変の時、一番槍として長州軍へ突入、二人を切って自らも斬死したため、会津において「窪川伴治は一番槍」と唄われた)へ連絡、唯一の生き残りである西郷頼母に越後口征討軍にある隆盛との接触を求めしめたのである。

 長州征伐、徳川家処分、江戸城明渡し、後の庄内藩処分の例などからもわかるように、幕末維新戦争を道義的に平和裡に収束するのが西郷の心情であり、行動様式であったから、西郷は、残る最強の会津藩に対しても、頼母を通ずる和平工作に傾倒することにしたのである。

 『栖雲記』には、そのことに関して「おのれは籠城の中より越後出張の家老が許へ軽き事の使を命ぜられ、其事を果し、直様、北海道へ赳きし云々」と誌され、頼母は八月二十六日若松城を出ているが、すでに二十三日には、国老・田中土佐と神保内蔵助か伊賀町郭門外で自刃し果てるほど、四方の城門を包囲されていた状況下に、西郷頼母と吉十郎有隣(ありちか、当時十一歳)父子が、無事に城を脱出して、野戦遊撃、遭遇戦が展開されている会津平野を突破して北行せんとした越後口行なるものは、隆盛が派した密頃の先導と護衛があったからこそ可能だったのである。

 現在、頼母は、何故、戦聞酣(たけなわ)の越後ロヘ急行しようとしたのか、その目的、理由は不可解とされ、『会津会報』には、頼母は「越後口より退却せし陣将に君命を伝ふべき重き使命を帯び男吉十郎を伴ひ之に向ふ」と誌され、『栖雲記』には前述のごとく「軽き事の使命を命ぜられ云々」と誌され、また、和平反対派は、頼母を討つため、二、三の刺客を出して追跡せしめたが途中で踪跡を失したとか、刺客は故意に別路を追跡して頼母を見逃したなどと誌されて、頼母の越後口行の実態は判然しないのであるが、『かたいぐち記』には、頼母は、隆盛に接触することによって「何らかの和平好転の糸口やあらん」と、藩主・容保の意を図り、その旨を受けた上での頼母の越後口行だったと誌されている。

 ★ともに米沢へ急ぐ

 八月二十七日払暁、頼母一行が高久村に至った時には、越後口津川の要害から退却しつつあった会津諸隊は国老・萱野権兵衛の指揮下に、坂下、高久の線からさらに若松城の方へ退却せんとしつつあったので、頼母は、藩主・容保の命なりと称して「越後口の敵(官軍)を舟渡の線に扼すべし」と激発したため、会津諸隊は再び反転して西進し、舟渡の只見川の線を固守せんとして、対岸の片門駅に迫った官軍と砲戦を交わして対峙していたが、その間の九月五日に至って、若松城を包囲していた官軍が、高久、坂下の線にあった会津藩兵戦列の背後を衝いて北進して来たため、坂下、塔寺・、舟渡にあった会津藩兵は、右翼は塩川方面へ、左翼は高田方面へ退却するに至った。

 その時の戦で、舟渡の河岸に孤立するに至った頼母一行は、密偵の活躍により、対岸に待機していた西郷隆盛との接触を図ることに成功したのである。

 片門駅にあった越後総督(西園寺公望、参謀・山県有朋)の下へは、その前日の九月四日、西郷が米沢へ送りこんだ真方衆と同道した米沢藩士・窪田茂遂と中川雪堂に案内された家臣・毛利上総が米沢藩の謝罪書を提出していたため、隆盛は、米沢藩を通ずる会津藩への帰順工作を急務として、兵具隊主力は舟渡から只見川沿いに木曽山都方向に流下することを陽動せしめるとともに、両西郷は、塔寺、坂下、木曽山都、慶徳、小荒井、喜多方から熊倉へ密行、その間、若松城包囲中の官軍密使と数回にわたり接触(桐野利秋の城受取り宰領と保科容保の生命保護など)、九月十三日熊倉から米沢街道を北上、十四日米沢に至り、米沢藩を通じて、頼母の意見による手順に従って、十六日、高久村にあった菅野権兵衛に書を送って帰順工作を開始し、それに基いて、若松城の保科容保は藩臣・手代木直右衛門と秋月梯次郎を米沢へ派遣して降伏、開城を依頼するに至ったのである。

 九月五日、舟渡で初めて会った両西郷は、十五日米沢で別れるまでの暫か十日間の野戦起居であったが、この間に、頼母は、隆盛の、過去三百年を遡る両西郷家の歴史的因縁に始まる、徳川の偽史を糾すべき、熱誠溢れる説得により、自刃を断念して、隆盛とともに、偽史是正のための第二次革命敢行を盟約するに至ったのである。

 ★隆盛、頼母の一子吉十郎を鹿児島に預る

 しかし、西郷頼母は、最大の朝敵会津藩の責任ある立場にある者であっただけに、ひとまず、隆盛との接触を離れて、時局安定の秋まで自力で逃晦、生きのびなくてはならなかったため、隆盛と図って一子・吉十郎を隆盛に託して一詩を賦し、弟・陽次郎直節と共に、隆盛が附した真方衆密偵二人に守られて、米沢から仙台を経て、大鳥圭介軍に投じて幕艦開揚丸に乗じて函館へ奔ったのである。

 隆盛は、戦局前途多難の折から、すでに一族二十一名が悉く自刃し果てた会津西郷家の、残る唯一人の生存者である吉十郎の命を保護しなくては、栄ある会津西郷家は絶滅するに至るとしたのである。

 「薩摩西郷隆盛、会津西郷の一子を同行す」といった異彩の取合せは、またたく間に、東北戦線諸藩人の薩摩西郷への人望を弥増し、風を慕った雲井龍雄(米沢藩)が、かつての討薩檄の賦も忘れて、藩の意見もものかは、中川雪堂、窪田茂遂とともに、勝手に、西郷の後に付して離れなかったのはこの時であったという。

 西南戦争の時、西郷を慕って城山で死んだ中津隊(豊後)隊長・増田宗太郎(註)が、敗色濃き秋、隊士と別離して鹿児島へ南行するに当って、「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり、一日先生に接すれば一日の愛を生ず、三日接すれば三日の愛を生ず、親愛日に加はり、去るべくもあらず、今は、善も悪も死生を共にせんのみ」と語って、西郷を慕って南下した例もあるように、西郷の奕奕(えきえき)たる人格的光芒は、雲井龍雄をして初会一瞬にして魅了、その心を離すことがなかったのである。

 間もなく東京に出た雲井が、徳川の偽史糾明運動に奔命するに至った契機は、実に、この時の西郷との接触にあるものであると『かたいぐち記』には誌されている。

 ★西郷が函館へ急行した目的
 へ続く。
                      
 


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この記事に対するコメント
ひろもと様 初めまして いつも興味深く拝見させていただいております。

私は函館で、小さな20室規模のホテルを経営している遠藤と申します。 地元の幕末時代に特に関心があり、歴代の箱館奉行などブログで発信したりしております。

特に西郷隆盛の来函時については、ほとんど知られられておりません。ぜひ 教えていただければ嬉しいのてすが・・・  よろしくお願いいたします。
【2013/02/03 11:41】 URL | えんどう #- [ 編集]

お手数ですが、宜しくおねがいします。
【2009/11/17 13:11】 URL | ふるーと #- [ 編集]

フルートさん。
結局根拠は、『かたいぐち記』なのですが、
後日、整理してコメントします。
【2009/11/04 17:38】 URL | ひろもと #- [ 編集]

今「田中清玄の自伝」を読んでいてすごいなと思います。
話は戻りますが、「ともに米沢へ急ぐ」の文は
どの史実をもとに書かれたのか
出来れば教えてください。
中に出てくる「窪田茂遂」を調べていますので、
【2009/11/02 16:06】 URL | ふるーと #- [ 編集]

フルートさん。
そうです。
『岩屋天狗と千年王国』です。
【2009/10/31 02:46】 URL | #- [ 編集]

すいません。
ともに米沢へ急ぐ、
隆盛、頼母の一子、吉十郎を鹿児島に預る、
が出ている本名が「岩屋天狗」おいう本なのでしょうか?
【2009/10/30 15:33】 URL | ふるーと #- [ 編集]


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