カウンター 読書日記 ●『岩屋天狗と千年王国』(12)
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●『岩屋天狗と千年王国』(12)
                        西郷頼母_1
                        ↑右が西郷頼母・たのも(保科近悳・ちかのり)
                        左はその養子・西郷四郎(『姿三四郎』のモデル)

                            
 ■明治後、始めて日本歴史に登場したヤジロー
  

 ★兵具総差引の謎 

 明治元年八月、戊辰戦役北越戦線当時、新潟阿賀川河港松ケ埼に上陸した西郷隆盛が、新発田にあった官軍本営、山県有朋等からの再三の来営懇請にもかかわらず、単なる薩摩藩兵の兵具総差引(三ケ小隊)という立場で、唯々将兵の志気を鼓舞するのが自分の使命だと称して、松ケ埼陣所を出発してから勝手自在に諸所に出没、移動しているため「一体、西郷は何してるんだ、北越に何しにやって来たんだ」と批判されて、官軍本営においても、西郷の行方を的確に把握することはできなかった。

 そのころの西郷の行動が現在でも不明であるのは、西郷が或る意図をもって行動した籌絡(密偵工作による幕府側との人的接触と歴史調査、史料蒐集)の謎に縁由しているからである。

 このころの西郷の不可解な行動の謎について、井上清氏は「この軍紀無視のわがままの背後には、彼が、総督府という機関との交渉をなるべくもちたくなかった何らかの事情があったからであろう」と奇怪視されているのである。
 

 ★西郷を衝撃した東西宗教論争
 

 西郷は、その年四月、徳川慶喜を恭順せしめて江戸城を収めた後、徳川氏の封土及び関東鎮撫の問題に関して朝裁を仰ぐため、船で閏四月四日(新五月二十五日)大阪に着いた途端、予て西郷が恐れていた、切支丹解禁を要求する切支丹外交団と太政官との衝突で、かつて日本に切支丹を導入したというヤジローなる人物の存在が、明治新生日本国家の歴史、精神史に重大なる影響を与えるものであるという最悪事態が展開してきたという経緯を聞いて、西郷は、来るべきものが来たといった天啓にも似た感銘をうけたのである。

 当時、大政官代政府は、発足直後から、長崎におけるプチイジャン司教(フランス、カトリック派)を中心とする切支丹宗徒取締りに苦慮した挙句、遂には、西欧切支丹側外交団の圧力により、明治元年四月二十七日(新五月十九日)と閏四月三日(新五月二十四日)の二回にわたり、大阪行在所(当時西本願寺別院)において宗教談判を行わざるを得ぬ羽目となってしまった。

 論争は、二回とも、朝から夕に至っても結着せず、遂には、英国公使・パークスをして、日本側委員大隈八太郎(後の重信、二回目の時初めて出席、長崎の実情に通じ、英語にも堪能であったため当日最も多く弁じた。大隈はこの時の談判の応答で、太政官にその才気を認められて出世するに至ったのである)に向って
「黙れっ、小僧っ、君なんかに政府代表の資格はない。引っ込めっ」とまで罵言せしめるに至ったのであるが、この時の論争で、日本側出席者の心胆を痛撃したのは、パークスの「日本人はヤジローを知ってるかっ」という恫喝的捨台詞の追究であった。

 その時出席した大方の日本人(三十数名)は、パークスの、論旨を外れた不可解なヤジローなる日本人の行動に関する罵声を(通訳の関係もあったろうが)頗る怪訝として誰も答え得なかったそうであるが(報道による『大隈昔日譚』には、その時のことを「我が交渉委員は答弁に窮し頗る狼狽の体であった」と誌されている)後で、重野安繹と久米邦武(肥前藩出身、後に東大教授時代に「神道は祭天の古俗」と断じた筆禍事件で明治二十六年東大を逐わる)両氏などから、ヤジローなる人物の素姓を聞いた三条、岩倉、木戸、太久保、伊藤など政府当局者は、一大事とばかり前後策を協議した結果、切支丹禁制には、まず何よりも、日本国自身の歴史を糾し、歴史体制を確立しおくことが必要であるという結論に達したため、直ちに、昌平黌、開成校復興、皇学所開緒、修史に関する詔勅、三条実美を総裁とする史局の開設と六国史以後の国史の修撰、史料編纂国史校正局設置、織田信長に贈従一位して織田社に建勲社の号贈与(大阪における宗教談判におけるパークスの発言により、信長は切支丹の支援により易断政府を討滅したことが判然したからである。秀吉は、それから四十七年後の大正四年十一月十日に至ってようやく従一位を贈られている)、神祇官を太政官の上位首座とす、国史編輯局を大学校におく、大赦宣布(神道による国民思想の統一と国家意識の高揚を図るために宣布された詔)、大友皇子に弘文、大炊廃帝に淳仁、九条廃帝に仲恭天皇の追謚、既存神社の格付け、統合、新設陶汰など、維新創業逞急の間に、神道主義国家体制樹立のために必要な諸策を打出していったのである。

 現在の通説、定説でもそうであるが、その当時から、重野など学者は「ヤジローとかいう人物は鹿児島の憎か武士か富商らしい」という単なるザビエル案内者としか説明せず、それ以上の真相を封じてしまったのである。

 塙次郎と冷泉為恭が、廃帝の事蹟調査をしているとして、伊藤博文や大楽源太郎などに暗殺された原因は、実に、このヤジロー(弥次郎)の事蹟を調査し顕彰せんとしたことにあったのである。

 このように、弥次郎について語り、調べるなどということは、幕末当時から、すでに、命を失うほどの恐ろしい不可能の世界のことだったことがわかるのである。
 

 ★重野安繹が犯した謀書謀判の罪の謎
 

 安政四年、史料校合方詰を命ぜられて江戸薩摩藩邸に在った重野安繹は、突然、奄美大島に流謫を命ぜられたが、その理由に関して、『島津史』は、重野氏が友人の酒飲み代を藩費で立替えたからであるとか、一人の友人(池田某)から預っていた一ケ月分の月謝を他の二人の友人(上原某と堀某)に無断で貸したことが謀書談判の罪(謂わば文書偽造の罪で、当時、死罪相当の重罪であった)に抵触したとして、奄美大島に流謫(前後五ケ年間で終った)させられたということになっているが、筆者の記録には、重野氏が、昌平黌図書の中から「家康、岩屋梓梁の子」なる、薩摩藩伝承と同様の極秘文書を入手、それを喋々、頻りに公表して岩屋梓梁顕彰の文言を配布したため、幕府の激怒を買い、ために薩摩藩は、重野氏を謀書謀判の罪として奄美大島に流謫を命じたものだと誌されている。

 重野氏がその罪に服すべく江戸から薩摩へ単身帰国するに当って、藩主(島津斉彬)から「途中ゆるゆる帰国苦しからず」と特別の思召しを受け、京摂の間に、僧月性、頼三樹三郎、梅田雲浜などと会合したり、久留米に広瀬子謙、熊本に横井小南などを訪ねたりしていることからしても、重野氏の死罪相当の謀書謀判説の罪なるものが如何なる筋合いのものだったかわかると思う。

 藩摩藩が、藩主以下首脳部が、家康=岩屋梓梁の子なる事実を知っていたごとく、幕末まで、各藩の藩閥歴史家の間でも公然と知られていたこの事実が、明治政府史家によって、より厳重に歴史から隠蔽されてしまったのである。
 

 ★謎の行動始まる
 

 大阪宗教談判において、はじめて日本歴史に登場した
弥次郎なる人物の存在と、それに関連して成起する内外切支丹問題の重要性を改めて痛感するに至った太政官代政府首脳は、京都岩倉邸に続く三条邸で熟議した結果、切支丹禁制には、まず何よりも、日本国自身の歴史体制を確立することが必要であるとの結論に達して、前述のごとき諸策を決したわけであるが、この時の京都における公卿学匠達を中心とする会同の激論で、西郷は、岩屋梓梁の存在を世に顕彰するということが如何に困難であるかということを痛感した挙句、ついに、討幕戦遂行の総帥としての参謀の地位を放棄して、改めて、第二次革命を敢行する必要があるという決意を固めるに至ったのである、と『かたいぐち記』にも『異端記』にも誌されている。

 そのことは、その後、江戸へ下った西郷の、彰義隊討滅などに見られるような消極的な気もそぞろな屈折変容した行動の謎からも推定することができるのである。

 このころからの西郷の不可解な行動に関して綱淵謙錠氏は「この彰義隊戦争を境として、西郷の周辺にはなんとなく疎外感がただよいはじめる。それもみずから自分を戊辰戦争から引き離そうという雰囲気である。革命にある種の幻滅を感じ厭世的にすらなっている気配が感じられる」と誌し、井上清氏は「そのころ(彰義隊討滅前後)から、西郷の不可解な動きがはじまる」と誌され、田中惣五郎氏は「大村益次郎の出現(彰義隊討滅総参謀就任)によって、武将西郷の誇りが傷つけられたため、自然児西郷の薩摩隼人的直情径行がはじまったのである」と誌され、中井弘が「西郷は転んで石で頭を打ったため、病理的な障害を来たしたのである」と西郷を一種の精神病者扱いにまでしているのは、明治元年閏四月の東西宗教論争後からの西郷の不可解な心境の変化を糊塗するための意識的な発言かまたは知らなかったための無知から生じた曲解、誤解だとしか考えられないのである。

 このような西郷の心容の変化が津田左右吉をして「慶応の功臣、明治の賊臣」と詩わせしめるに至ったターニング・ポイントとなったのである。

 西郷は、彰義隊討滅後、直ちに、単身(もちろん、幾何かの随員は伴っただろうが)東北諸藩への和平工作に出発することを進言主張したのであるが、あくまで武力討伐による徹底成敗を加える必要があるとする長州派(大村益次郎)などにはばまれて断念せざるを得なかったのである。この時の西郷の心境と態度は、あたかも、後の明治六年当時の対朝鮮和親大使希望の西郷の心境と軌を一にするものとして、その隠された歴史的事実、特に、西郷のような歴史的人物の心容とその変化は、歴史を極めんとする者にとって、充分に反省考察し、再検討すべき必要があることを銘記しなくてはならないのである。
 

 ★西郷は西欧的天皇覇道を恐れた
 

 西郷は、己れが幼少時代から、夢床にも描き憧憬してきた弥次郎どん(岩屋天狗どん)の存在が、東西宗教論争の席に続く太政官代の論議として日本歴史に登場してきたことを運命的な天意の鋒鋩と観じ、新政府を威圧する西欧列強の文明を仮装する卑劣な野蛮さを剔抉するとともに、四民平等の明治新国家を建設するためには、何よりもまず、封建差別階級を生んだ徳川の偽史を糾すことが新政府の最大喫緊の政策だとしたのである。

 西郷はかつて、薩摩藩内の検地に反対して「満朝の人心相改まり清廉の風相立ち侯上ならでは」と主張したごとく、何より、歴史の是正による新生日本人民の人間的な精神恢復運動を最優先策として、その他の諸策は全くの次序のものとしたのである。西郷の天皇説、国家説が判然せず、維新政府への構想がなかったとされているゆえんである。

 西郷は、新政府が、徳川覇道同様に、天皇を擁して西欧覇道に奔ることを恐れたのである。
 

 ★寸土ヲ削ラズ、一人ヲ刑セズ
 

 北越、東北戦線において、薩摩藩の単なる兵具差引という卑小な立場を固持した西郷に、ことさらな軍功を挙げることはできないのは当然なことであったが、それでも西郷が、北越戦線薩摩本隊にあった山下龍右衛門へ八月二十五日送った手紙に「不日、庄内において御面会の折、戦功相争い申し上ぐべく侯」と誌して、自信をもって軍功を争うなどと誇った西郷の心中にあったものは、西郷の「寸士ヲ削ラズ、一人ヲ刑セズ」といった愛の精神(当時、東北諸藩に伝えられた西郷観情報)による東北諸藩人との接触による和平工作に、西郷が絶大なる自信をもっていたことを誇ったものといえるのである。

 官軍と庄内藩との和平交渉は、九月二十三日、越後口庄内軍乞降、九月二十七日藩主・酒井忠篤降伏というのが表立った事実とされているが、すでにその一ケ月前の八月二十五日に、西郷が庄内藩の降伏を予言していたということは、西郷が派した真方衆密偵と庄内藩士・窪田一平、三兄弟との連携による国老・菅実秀、松本十郎との秘密裡の和平工作が成功していたからなのである。井上清氏が「どこの戦線でも戦機に間に合っていない西郷」と評しているのは、西郷の以上のような事前の裏面工作の実体が史実から隠蔽されていることを知らなかったことから生れた見解といえるのである。

 特に庄内藩の場合は、藩主・酒井氏が、かって永禄年代、三河において、武家政治の再興を主張する家康に反対して文教政治たる易断政権継続を主張して家康と戦った(現在、三河の一向一揆とされているもの)酒井忠尚(註)の子孫であり、また、その国老・菅実秀の祖先・善右衛門は九州唐津藩在勤時代、天草島原の乱(この乱は、易断銭の鋳造が禁止されたことに反対して決起した九州易断党の反乱だったのである。幕府は、易断政府の名称を抹消絶滅するため、寛永通宝を発行して易断銭の回収、払拭に努力したのである。ビタ銭の名はユタ銭の名を歪称したものである)後における唐津藩内の易断党衆誅滅に反対したため追放され、後に正保二年酒井氏に召抱えられたという歴史的因縁もあったため、実秀は、同じ易断党の子孫である西郷に対し「菅氏の西郷翁を敬する兄の如く、翁の菅氏を親しむこと弟の如し」 (庄内藩校、致道館助教・赤沢経言著『臥牛先生行状記』)といった心境に籍ったものであることを知らなくてはならない。

 西郷指揮下の三ケ小隊(約三百名)の中、一ケ小隊は真方衆を中心とする密偵群であったことからしても当時の西郷の心構えがうかがえるのである。

 〔註〕 酒井忠尚☆
  『酒井家世紀』を始め従来史は、酒井忠尚は、永禄五、六年の三河の一向一揆で敗退後、その終わりは不明とされているのであるが、忠尚は、本田正信、大久保忠憐などとともに謀計して、本能寺に織田信長を討って以来、忠尚は酒井本家を継ぎ、庄内へ入部するに至ったのである。忠尚の弟・忠次が家康に冷遇されて京都の桜井屋敷で余生を送って客死するに至ったのは、忠尚が再起して酒井本家を復興させたからである。忠尚の名が正史から消滅しているのは、忠尚を、三河の一向一揆敗退とともにその名を抹殺する必要があったからである。
 ☆ 生誕 不明 死没 不明 というのが一般的。

 ■第二次革命を盟約した薩摩西郷と会津西郷
 へ続く。
 

 
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