カウンター 読書日記 ●『岩屋天狗と千年王国』(11)
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●『岩屋天狗と千年王国』(11)
                      窪田藩の研究_1


 ■幕末における真方衆活躍の実態 

 ★島津の上忍隠密集団

 徳川三百年間、窪田真方衆が、徳川偽造史の実体糾明と幕政覆滅という目的を達するためにうった謀略は、全く怨念にも似たものがあったが、隠密を事として世襲してきたため、藩政上は「伏衆・ふせし」として一切の公私の身分、行動を極秘としてきたが、素より富権者豪族としての気位が高くかつ異常に剽悍であったため、他の人々から「真方衆が吼ゆっ」とか「族(やから)を云う」、「真方ん衆は恐ろしかー」、「錦の切れ端」などと謂われて一種特別の眼で見られてきた。

 従って真方衆は、

①島津藩主の直隷下にありながら、しかも
②主命に対しても諾々非々勝手であった。
 藩命に対して謂わば拒否権があったわけであるが、これは、真方衆の行動が、その全国的な隠密組織を統制する必要上、その規制下にあったため、その抗命権を島津藩主も無下に処断することはできなかったのである。
③真方衆は門割除外地であった。
 真方衆は、藩の知行制、宗門改めの支配をうけず、完全に門割除外地であったが、薩摩藩の軍令の場合の時のみは、軍配の鬮鬮及び旗指し、隠密を事とした。


 ★奔放自在な真方衆の謀略

 ところが、窪田真方衆は、文化年代、江戸において、騒乱(当時、春断一揆とか宮騒ぎと謂われた)を起し、その最後の拠点・道玄山砦(現、東京都渋谷区)に敗退して破れて以来、江戸府内においては殊更騒擾を避け、代りに、全国的な易断隠密の連携を強化して再起に備えてきたが、伊集院に在った本家は、隠密首座を降りた象(かたち)をとり、主として南九州の基地(大方は寺社)を転々して各地にある真方衆(松方、実方、南方、真方、土方等)からの報告を記録するを主務として、谷山清泉寺(現、鹿児島市南郊)に原史料(『かたいぐち記』)を秘蔵してきた。

 土方衆(ひじかたしゅう)は能登と磐城に窪田藩を領してきたが、徳川時代に、お城造りの建物などすべて焼打ちされ打首されて廃絶してしまったという。くわしくは、福島県いわき市勿来町大高中郡五一、甲高武雄氏の著書☆『窪田藩』に誌されている。
 (☆『窪田藩の研究』 1973年9月 白銀書房刊) 

 真方衆は、徳川時代を通じて、朝鮮においては、いも師、薬師、医師、巫覡を伝統の業(岩屋梓梁を雷神、風神、地下神などの自然神として「方」を姓の一つとして称してきた)としてきたが、その日本国内における活躍で特に注目すべきことは、弥次郎の存在を歴史に登場させるために、必要な人材を絶えず物色し、訓辿して、機熟するとみた場合には、重点的に事を講えて謀略してきたということである。老中・田沼意次時代、安永八年二月、将軍家治世子・家基を新井宿東海寺において花卉を利用して毒殺した結果、島津重豪の娘・篤姫と縁組みが成立している一橋家斉が将軍世子となることの代償として、真方衆が、閑院宮典仁親王に真方衆岩室巌代を当てて生れていた子・兼仁(ともひと)(典仁親王第六子、当時十歳)を安永八年十一月、光格天皇として謀略擁立しさらに光格天皇に真方衆子女を当てて、長野主膳(伊勢生、井伊直弼腹心)、白石正一郎(下関豪商)、清水次郎長(清水港親分)などを儲け、光格天皇女院として、真方衆とは往古以来特殊な親昵関係にあった勧修寺家の晴子を当ててその子・恵仁が仁孝天皇となったごときはそういう工作の一例である。

 真方衆は、江戸においては、幕末当時は、八王寺千人衆・窪田太郎(真方衆の密謀により、三河岩津松平を継ぐものとして松平太郎と称してその財政能力を認められ、後に、幕府北進軍副総裁として擁立さる)を伏衆として原宿井伊家抱屋敷を本拠、道玄坂を基地、三田薩摩藩育種場、目黒薬種園(目黒不動尊)、青山開拓使圃(現青山学院の地)、新宿勧業寮圃(現新宿御苑)、雑司谷花園圃などを主たる伏地とし、京においては、絵師・松月院窪田雪鷹(真方衆は、易断文化時代以来、その各種の文芸宗匠は、すべて「雪」を名号として継続した。その起源は、雪舟等楊の風を追った岩屋梓梁の弟子・雪村周継の名に縁由したのである)を中心とする絵師、書道師(中沢雪城)、俳諧師、紙師、経師などの工師工匠が走狗となって、原田才甫、僧月照、信海などをして、久我家諸太夫春日仲恭、仲襄(潜庵)父子、清蓮院宮、近衛家(奥老女・村岡幾島)などに接せしめ、大阪においては大筒師・窪田小太郎(左衛門小吉)を中心とする鉄砲鍛冶匠を活躍せしめ、その造った大筒を大塩平八郎に提供することによって、遂に、民衆解放を意図する大塩をして乱を起す決心をなさしめ、乱後は、その子(養子)格之助を十津川地区から、さらに京の春日潜庵宅に匿った如きがそれである。

 ★西郷家の家扶、大塩格之助

 西郷家に起居して、薩摩藩の歴史記録や島津久光の秘蔵書を借りて筆写したりして書道、陽明学の教授をしていた、上方語を話す前身不明の川口良次郎こと雪蓬なる老爺は、実に、この格之助の後身だったのである。桐野利秋が大塩平八郎の子であると謂われたのは、安政五年、当時二十一歳の桐野が真方衆の命により、大塩格之助こと雪蓬を京から伊集院、さらに鹿児島に潜匿せしめたことから生まれた風聞だったのである。

 西郷が沖永良部島幽閉時代、川口雪蓬が、西郷の牢屋があった和泊村の隣村の西原村に「久光公の秘蔵書を質に入れて飲代としたため流謫された」と称して居住していたのは、雪蓬とともにあった真方衆が、西郷の身辺を警戒するとともに、と角、絶望諦観せんとする西郷に、熱涙をもって、岩屋梓梁と易断政府に関する歴史的事実を物語って、岩屋梓梁顕彰のため奮起することを願うためだったのであるが、昇曙夢氏も記録されているこの事実を、従来史が全然無視しているのは、西郷、川口、真方衆の裏面連繋を抹殺、隠蔽するための悪意だとしか考えられないのである。

 沖永良部島における、西郷と雪蓬、真方衆の激論の中心は、将来、討幕戦が始った場合、それと平行または前後して行うべき、民衆による岩屋梓梁顕彰運動を如何に展望するかという戦術方法論に関するものであった。

 そのころの西郷の詩に
 「時来らば牲犢(もいどく)応(まさ)に烹に近うべし」
 「犠牛杖に繋がれて晨烹を待つ」

 とある謎の意味は、まさに、真方衆なる「杖」に繋がれた「牲犢」、「犠牛」(西郷)が、いずれは焼(烹)かれて死んで仕舞う犠牲になるという西郷自身の心境を語ったものといえるのである。
 だから、西郷は、沖永良部島流謫の時から、判然、岩屋梓梁顕彰の運動を起して、自らも犠牲となるということを覚悟していたものと言えるのである。

 ★大塩平八郎の乱を起因した真方衆

 天保八年の大塩平八郎の乱の時、薩摩藩大阪屋敷が、幕命があったにもかかわらず全然出動せず静観の態度を堅持終始したのは、真方衆・窪田太郎の詐謀によって、大塩の乱で使用された大筒が薩摩藩大阪屋敷内に隠匿されていたものが、秘かに船によって大塩屋敷へ運ばれて使用されたものだったことが分かったからである。

 幕府大阪城代は、薩摩屋敷の動乱傍観の態度を「甚だ合点ゆかず」として糾明せんとしたのであるが、薩摩留守居役の「屋敷内の差図不始末による紛糾」に原因があったとする弁明が認められたため、一応、不問に附されたのである。

 留守居役は、大塩が使用した大筒が薩摩屋敷内に隠匿されていたものであったことを知ったため、事の真相露見を恐れて、屋敷内への諸人の出入を禁じ、乱後直ちに大塩を遠く薩摩甑島へ密航、潜居せしめるとともに、その他の重要関係者(最後には大塩格之助)を所在の地へ逃がし、外界と隔離して風説の揺動を封じたのである。

 だから、薩摩藩大阪屋敷は乱鎮圧のための出動どころでなく、身辺の火の粉を払うことを何よりの急務としたのである。藤田東湖は、その著『薩摩騒擾記事』で「たとい、銀の百枚が千枚になろうとて大塩さんを訴人されようものか」と誌しているが、甑島で、西郷少年を直接薫陶した大塩から恵贈された『洗心洞剳記』を誦読できるほど、西郷は大塩を心と行動の亀鑑としたのである。

 西郷が戊辰戦役北越戦線当時、黒田清隆が、戦場において休暇をとってまでして生田万(大塩の同志)が起した越後柏崎騒乱事件を調査し、また、西郷が自ら、山田屋太助事件の摂津能勢と生田万の出身地館林の地を踏査したゆえんである。

 文久元年(大塩の乱より二十年後)大阪薩摩屋敷に、大塩平八郎を名乗る人物が堂々と現われたとして、名古屋人・小寺玉晁著の『東西評林』に誌されている「大阪薩摩屋敷に大塩平八郎といふ者来り、普請奉行を勤む。姓命奉行所へ申達し済にて住居す。天保丁西乱行の大塩平八郎は焚死の上、法に行はれ終れり。此度薩摩より来り侯ものは、姓名も同じく、容貌もよく似たれども、もとより別人なりとの義にて、仔細なく公然として勤め居と云ふ。たとへ別人にもせよ、公儀を憚りて姓名を変ふべきに、往年死せざりし事を世に布告せんと、其まま名乗るは、公儀を悔慢軽蔑したる仕方なりと、風評す」とあるところの大塩平八郎を称する人物が存在したということは、大塩は、大阪の乱では死なず、薩摩へ逃れ来ったということを諷刺して公然暗示して表現したものだったのである。


 ■明治後、始めて日本歴史に登場したヤジロー
 へ続く。

 
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