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●『岩屋天狗と千年王国』(10)
                     渡辺京二 日本近代の逆説_1


 ■大塩平八郎に訓薫された西郷少年

 ★大天狗、岩殿(いわどん)

 隆盛こと吉之助は、幼少年時代から、西郷家のユタノンなる家筋が、岩屋梓梁こと大天狗、岩殿たる英雄に発するものであることに関して父祖から詳しく聞かされ、また、自分もそれを誇りとしてきたから、天保十年(1839)、十三歳のとき、聖堂において、天保八年の大阪における大塩平八郎の乱の重大な目的の一つが、岩屋天狗の存在を世に顕彰せんとするユタ解放戦であったことの次第を聖堂の教授から聞かされたことに端を発して、聖堂からの帰途、上司の子弟たちから、改めて「ユタッ」と面罵されたことに起因して単身争闘して右臂(ひじ)を刃傷されるという事件があった。

 家人に迎えられた西郷少年は、玄関に入った途端、それまで噛みしめていた口惜しさがいっぺんにふき出した態で大粒の涙をクヮライクヮライ(どんどん、とめどなく)流して泣き伏したそうであるが、よほど無念に思ったらしく、それから数日後に突然家出して、年余にわたって南九州一帯を野宿して回り、山々峰々にある端境、瑞相の地を掘穿して回ったのである。後年における西郷山野退隠の清狂(自分には正しいことが世間からは狂癖のように見られること)や山野の景況図(写景図)を描いた嗜癖はこのときから始まったのである。

 ★甑島(こしきじま)に逃鼠した大塩平八郎

 藩内の山顛山嶺には岩屋梓梁が生前に埋没した経塚、経筒や秘宝が隠されていたため、西郷少年は、それを堀り出して祖先の偉業を偲びその業績を知らんとしたのであるが、ある日、野宿の残り火の不始末から、川内(せんだい)水引村の新田八幡宮の千台山(八幡山)の北半一帯を消失するという大事件(註)を起こしたため、真方衆は島津に交渉して、西郷少年を、川内から一衣帯水の地にある甑島へ密かに流謫せしめたのである。しかし真方衆の真の狙いは、西郷少年を、当時、上甑島太良(この地は、易断残党が大阪から敗亡して来た地であったものを、島津が、平家の子孫の地と称して、地名を、平から太良と当て字したものである)の地に、真方衆が大阪から誘晦、潜居せしめていた大塩平八郎に密かに面接せしめるためだったのである。

 八幡山消失真件以衆、西郷少年を、将来、岩屋梓梁と易断政府の存在を世に顕彰することができる大器たる人物と見込んでいた真方衆は、西郷少年を大塩に接触せしめることによって、西郷に、大塩の思想、精神、歴史革命の意志を継承せしめんことを図ったのである。

 西郷少年の甑島流謫の間、真方衆は、西郷少年を、長崎、天草、島原半島に同行して視野の開眼を図ったのであるが、その留守の間に、島津の由緒糾方(ゆいしょただしかた)奉行は、大塩および同行四人の者を密かに島外に誘い出して、西目筋においてその首を刎ねてしまったのである。現在、川内市隈之城にある三基の墓はそれであるが、他の二基は「京泊から伊集院の間」とあるだけで、筆者はその埋葬位置の見当はついているが、まだ現場を確認していない。

 甑島における大塩との接触で訓薫されたことが、他日、西郷をして、維新再革命を意図せしめる深大な心理的影響を与える基となったのである。
 現在、甑島に、昔、島民が大阪に盛んに往来交易して出世したなどという伝説が多い(柳田国男編『甑島昔話集』によれば、甑島と島外との交流については、大阪十四件、肥前二件、尾張一件となっている)のは、真方衆と大塩平八郎の乱の残党が大阪と交流した事実に関連して発生した伝説ではないかと思われるのである。

 西郷と真方衆との接触は、実に、この八幡山焼失、甑島幽謫のときから始まり、明治十年、西郷が城山で死ぬときまで続いたのである。(編註7)

〔註〕西郷少年の八幡山焼失事件

 薩摩藩は、島津重豪時代以来、神代三山陵の位置について、白尾国柱、後醍院真柱、樺山資雄、田中頓康らの諸説があり、とくに可愛山陵の位置については、水引村五代村中山陵説(白尾説)と水引村宮内八幡山陵説(後醍院説)が対立して容易に決しなかったため、西郷少年は、この二つの陵の山顛を密かに調査せんとして、八幡山陵の地を、野宿の残り火の不始末で失火、焼失するという大事件を起こしたのである。
 八幡山焼失事件の弁償が、後に、弘化四年における西郷父子の水引村豪家・板垣与右衛門からの借金による田地購入という、新田八幡宮復興のための神田寄贈となり、明治五年六月、明治天皇の鹿児島駐輦に随行したとき、西郷はその借金を二百両という大金をもって返済するとともに、新田八幡宮に案内した勅使に、新田八幡山頂が神代三山陵の一つ可愛山陵であることを説明し、それは、明治七年七月、「教部省通達」として鹿児島県に通告されたのである。

 ★第二次革命を想念した西郷の山野退隠

 倒幕戦終了、江戸城接収後まもなく、西郷が政府を去って薩隅の山野に退隠した、いわゆる西郷の高踏勇退的習行なるものは、従来史では、西郷の御都合主義として不埓視、奇怪視されたり、あるいは「例の病気」などとされているが、これは、西郷が幼少年時代から郡方書役時代の十数年を通じて、山々峰々、野方村方に隠されている岩屋梓梁の手工手跡を温ねた経験から形成された精神琢磨の習性習行となったものであって、討幕戦終了後における退隠は、真方衆の論略によって啓発された岩屋梓梁と易断党の存在を世に顕彰せんとする第二次革命の方策を練る重大な想念の機会となったのである。

 閑雲野鶴を友として退耕していたときの西郷の心境を物語る例に、明治元年末、日当(ひなた)山に籠っている西郷を、逃避的態度として非難した辺見十郎太★と別府晋介、池上四郎らに対して、西郷が「遊びじゃなかっ、この重大な難局を何とみるかっ、維新の大業はこれからじゃっ」と叱咤したことからみても、西郷の山野退隠なるものが、何かを意図した一種の竜蟠虎踞(りゅうばんこきょ)的姿勢であったことがわかるのである。

 島津久光、奈良原繁、海江田信義、大山綱良、高崎正風、伊地知貞馨らが口を揃えて「この頃(日当山閉居の頃)から西郷は次の革命を考えていた」と言明していることからもわかるように、西郷退隠中の志操が、曠日徒為の晏如たるものでなかったことがわかるのである。

 西郷が、日当山から鹿児島城下に出た明治二年三月、村田新八、西郷小兵衛、餅原、吉田、奥、大寺、岩切、加藤、小倉、蒲生、横山、伊瀬地、山本ら総計八十名の若き俊秀を数次にわたって、京の春日潜庵(註)、津田出、菊池海荘、岩橋柳窓父子、万屋小兵衛(佐々木春夫)、伊達宗広、宗光(後の陸奥)、谷鉄臣、西川吉輔、矢野玄道、大東義徹、昌平黌ほか各地藩校、学院学寮などの学匠に修学せしめるとともに、古墳、御陵、鉄砲、火薬、鍛冶名称地区を採訪せしめたのは、岩屋梓梁と易断政府、鉄砲伝来などの史実を調査することにその目的があったのである。もちろん、西郷と協力し合っていた真方衆は、全国的な易断隠密を動員して調査に励んだのである。

〔註〕国家の賓師、春日潜庵

 幕末における京の・儒者(陽明学)で、久我家の執事として大塩平八郎、梁川星巌、横井小楠、佐久間象山、橋本左内らと交遊があり、西郷は、彼を「国家の賓師」として尊敬した。
 西郷の推挙により奈良県令となり、岩屋梓梁の事績調査を開始したため、岩倉具視の圧力により罷免され、その後任に、大久保の推薦により、薩摩藩出身の海江田信義、続いて税所(*税所 篤・さいしょ あつし)が就任した。

 岩倉は明治三年七月、時弊を憂え、征韓論批判を掲げて屠腹した薩摩藩士・横山安武の建白書第九条に「春日某の如き清潔廉直の者を却て私恨を以て冤罪に陥入るは岩倉、久我二氏に出づという」と誌したごとく、岩屋梓梁抹殺主唱の公卿側首魁だったのである。

 朝鮮使節となることに破れた西郷が、岩倉邸を出るときに玄関先で、板垣、江藤らに叫んだという「右大臣よ、よく踏ん張り申したな」という西郷発言の香気は、岩倉の岩屋梓梁抹殺の執念に対する感嘆だったのである。

 岩倉が明治十六年三月、太政官へ提出した修史意見の編纂の精神として「几ソ治乱ノ囚緑トナルベキ者ハ漏泄(隠された重大な事実が世に知れわたること)スル無キヲ要ス」と誌したのはその実証である。

 ★有司専制、神道国教主義を痛憤

 この頃の西郷が心痛していた問題の一つに、当時、澎湃として薩摩藩全域を風靡しつつあった神仏分離からさらに廃仏毀釈へ展開しつつあった無惨な破壊運動があった。

 西郷は、その敬天愛人というような人道主義思想、人権平等主義の信念(福沢諭吉書)、士民平等主義思想(三宅雪嶺書)、天意とは民意であるとする思想(西郷書、西郷平生の訓え、民は王者の大宝なりの言)、気宇凛乎、廟堂の高所にあっても絶えず人民を忘れざる志操(当時の『東京日々新聞』)からもわかるように、国民の成立による人権、民権を非常に重大視し「政治は人民独立の気力によるべきである」(現代的には民主主義)として尊重した(福沢論吉)から、神道が王政復古の時勢に慢傲(おごる)して仏道を破摧することは権道であるとして、明治政府の有司専制による神道国教主義偏重をいたく憂憤したのである。(註)

 西郷は人民の敬神を否定しなかったが、政治、政府が、人民の敬神の心意を利用、悪用することを恐れたのである。

 福沢諭吉が「維新の真面目は、右西郷翁の書中に写出し、廃藩置県、人権平等は其骨髄にして、絶対君治(殿様政治)の旧風は主従の恩義に替えても一掃せんとの決心、分明に見る可し」、「西郷は生涯に二度政府を顚覆しようとした」(『丁丑公論』)と誌したゆえんである。

 西郷が、国分八幡宮の門前に立てられた「坊主と不浄の徒は山門に入るべからず」という制札を痛憤して、自らの総髪を剃って丸坊主となったことについて、従来史は、悪意をもって、単なるエピソードとかユーモアとして笑殺しているが、これは、西郷ともあろう人物の無言の警告を意思表示するものとして、私たちは改めて、西郷の生々しい人間的血の躍動と思いこみを反省し、考覈(こうかく)し直す必要があるのである。

 〔註〕西郷の政治志操

 西郷は、その、「天に事(つか)へ、天が霽(みは)る」という敬天と四民平等という愛人の思想からみて、その内閣時代(明治四~六年)に、士族解消(秩禄処分)、国家神道と武士兵制を否定する政策(神祇官を神祇省に、神祇省を教部省とし、教導職を教部省に所属せしむ。徴兵告諭による徴兵制採択)をとったことを銘記しなくてはならない。

 ***************

 ★ブロガー註:
 紹介を続けている●吉薗周蔵の手記(29)=次回紹介=で、「王文泰に劣らないもう一人の軍事探偵(だろう)」として登場する辺見勇彦の父親がこの辺見十郎太である。 
 

 ■幕末における真方衆活躍の実態
 へ続く。  
 

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