カウンター 読書日記 ●『岩屋天狗と千年王国』(9)
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●『岩屋天狗と千年王国』(9)
 ■革命の尖兵、謎の国友衆 

 ★西郷が死をもって詫びると称した国友衆  

 明治四年正月、上京して参政するに至った西郷隆盛は、その内閣時代に、解政令や人身売買禁止、地租改正、徴兵制、学制、秩禄処分、『国憲法典』編纂準備、司法制度整備、太陽暦採用、鉄道電信開通、全国郵便制度実施、国立銀行条例などの急進改革を続々断行したが、この間の西郷の政治的行動のなかで、西郷と民衆とのなんらかの関係を実証する記録に、征韓論争(とされているもの)の最終段階の明治六年十月十一日付、西郷が太政大臣・三条実美へ送った次の手紙がある。

 「今日に至、御沙汰替等の不信の事共相発し候ては、為天下勅命軽き場に相成云々、若哉(もしや)、相変じ候節は実に無致万死を以て国友え謝し候迄に御座候間、其辺の処は何卒御憐察被成下置度、是又奉願候」

 これは、西郷が、すでに決まっている自分の朝鮮使節がいまさら取り消しにでもなったら、自分は、死をもって国友に詫びなくてはならないと言明したということを物語るものであるが、では、西郷が命まで賭して接してきたという国友とは、いったい、どのような集団をいうのだろうか?
両者はどういう関係で結ばれていたのだろうか?

 国友とは「国友鉄砲」という史辞があるように、種子島の鉄砲伝来に立ち会った岩屋梓梁が全国的に結構した鉄砲鍛冶匠群をさして言うが、この場合の国友とは、西郷が、真方衆の進言と宰領により全国的に結集した易断衆、伴類、大友衆、百姓町衆、工人工匠、鉄砲鍛冶衆(国友鍛冶)を総称して表現したものである。

 明治五、六年の頃、渋谷原宿の井伊氏抱屋敷(現明治神宮の地蹟に当たる。井伊家の出自は薩摩の井筒伊集院家である)を中心として渋谷一帯に潜居していた真方衆の努力によって、道玄山に逐次着到して、祖先の歴史闡明を西郷に懇願した約百八十名の国友衆に対して、西郷が、岩屋梓梁の朝鮮における事績を調査した結果によってその歴史的存在を確認してから後、国友衆の汚名雪冤と名誉回復を図る努力をすると言明した事実をさすものである。
 

 ★大久保関西旅行の狙い

 大久保は明治六年八月十六日東京を離れて、箱根行在所に宮内少輔・吉井友実(旧薩摩藩士)を訪ねて、いわゆる「一ノ秘策」の事前工作をしてから湯河原、南伊豆(下田、松崎)、静岡、遠州新居、三河、尾張、近江、堺、紀伊、奈良方面を回遊して九月二十一日帰京した。
従来史は、この旅行の目的は、岩倉使節が帰朝するまでの時間稼ぎのための物見遊山であったとして、その政治的効果を絶讃したり、あるいは、征韓論の狂奔に失意した結果(大隈『昔日譚』には、「嗚呼斯くの如くんば吾れ復た何を為さん・・・、剽然として旅行に上り、以て其の煩累を避くるに至れり」と誌してある)としているが、実は、この旅行は、大久保が、真方衆の動きからみて、西郷が全国的に結束を固めつつあった国友衆の実態を調査することにその目的があったのである。

 この旅行調査の結果、大久保は、西郷の朝鮮大使行の目的が、朝鮮における岩屋梓梁の事績調査にあるものと判断して徹底的に反対する決意を固めたわけであるが、大久保に重野が随行したところからすると、大久保は、西郷の「国友衆に関する歴史調査とその結束恐るべし」としたのではないかと思う。『異端記』にもそう誌されている。

 真方衆の報告で、大久保が旅行して各地の国友衆を調査して回ったことを知った西郷は、いまさら、国友衆のことを秘密にする必要はないとして、三条への手紙で堂々と国友衆のことを謳ったのである。西郷のこの「国友」なる表現を、従来史は[鹿児島にあった征韓盟友」などとしているが、当時、鹿児島にはそういう征韓集団はなかったのである。

 西郷は、明治維新が、単なる権力の移動だけであって、真に民衆を解放する革命ではないと慨嘆していたが、心中は、真方衆が主張する民衆の蜂起による武力革命にまで進展するのではないか、といたく恐れたのである。

 西郷は、討幕戦遂行中から、全国の国友衆の調査、糾合を、勝海舟、安井息軒、江藤新平、前原一誠、津田出、永岡久茂、菊池海荘、小室信夫、大橋一蔵、陸奥宗光、巌谷一六、島義勇、小倉処平、大東義徹、広沢真臣、雲井龍雄、河野広中、宮崎八郎、宮崎車之助、大木喬任、大江卓、奥平謙輔、宮島誠一郎、海老原穆(調所広郷の子孫)らに依頼し、会津藩家老・西郷近悳(頼母)をしてすべてを主宰せしめたが、では薩摩西郷と会津西郷は、どういう経緯を経て結ばれるに至ったかを、まず、歴史を遡って、両家の血の系譜をたどってみたい。

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 ■西郷家の祖先は岩屋大天狗、そのユタモンであることの由来  


 西郷家の家格は、小姓組という、城下士のなかでは下から二番目に低い身分であったが、代々、島津八家の一門、日置家の家扶として冠婚葬祭などを司るユタノンとかユタモンといわれる家筋で、体躯雄偉なる血筋であったことは多くの史書にも誌されているとおりである。

 ★易断系の最強勢力、島津日置家

 日置家の始祖・島津歳久は、島津史書では、島津貴久と伊集院在住の本田親安の娘「橋姫」との間の子で、義久、義弘の母違いの弟ということになっているが、『かたいぐち記』と『異端記』には、歳久は橋口弥次郎左衛門兼清こと岩屋梓梁と島津忠良の娘「桑の実姫」(母は桑御前。貴久と母違いの妹)との間の子で、その同父母の弟に、永吉家の祖中務大輔・家久(後の佐土原家。天正十五年の秀吉の島津征伐のとき羽柴秀長に毒殺される。島津第十九代・家久とは別人)がある。

 家久の名は岩屋梓梁が白居易の詩からとったものと誌され、その性格は、『西藩野史』には「雄節倫ニ邁キ、豪気類ヲ絶ス」と誌されているが、歳久は、秀吉の島津征伐のときの天正十五年五月八日、川内・泰平寺で島津義久を降伏せしめて帰途についた秀吉の駕籠を矢で射たため、それから五年後の文禄元年、秀吉が朝鮮侵寇のため肥前・名護屋へ来たとき、本営からの命令で「終ニ、殿下(秀吉)ノイカリニ触ル非命ノ死ニツク」とされているが、その殺害された本当の理由は、秀吉の朝鮮侵冦の目的(註)が、岩屋梓梁が朝鮮に遺した事績や史料を破壊、焼却、持ち帰ることにあることを知った歳久が、怒り心頭に発して、名護屋本営にある秀吉に謁して「岩屋梓梁抹殺令」(註)の撤回を強く求め、それが容れられなかったため、歳久は兵を率いて鹿児島に帰り、梅北国兼、伊集院三河、田尻但馬ら易断系武将と組んで、肥後佐敷、肥前平戸(ともに、岩屋梓梁が関係した深い因縁の地)を占領、挙兵するなどの叛を起こしたため、秀吉の命によって誅せられるに至ったのである。

 秀吉の朝鮮侵冦の第一軍・小西行長麾下の索敵先方隊長となった島津忠善が、部下三千を率いて、釜山(現プサン)上陸、進撃後まもなく、そのまま朝鮮軍に投じて寝返ったのも、忠善が、島津歳久と盟約した岩屋梓梁抹殺に反対した理由からであった。島津忠善のことは、現在「謎の人物、金忠言」として朝鮮史に記録されている。

 だから、歳久を始祖とする日置・島津家は、島津家のなかに残った岩屋梓梁の血を享けた易断糸の最強勢力だったわけであるから、幕末においても、西郷家が日置家の家扶的立場にあったということは、西郷家の祖先が、かつて易断政府時代に日置家の筆頭家臣であったことをユタモン(易断者)の名で継承してきたことを物語るものである。

 島津日置家と西郷家の関係は、歳久が伊集院で生まれた天文六年、岩屋梓梁の命により、伊集院・西郷家の当主・正頓が、歳久(日置家)の家宰となってその扶育に携わったときに始まる。

〔註〕秀吉の朝鮮侵冦の目的
 秀吉の征服欲、誇大妄想、領土欲とか諸大名の軍事力弱体化、浪人不逞者の掃滅などの諸説があるが判然としないのである。

〔註〕秀吉の岩屋梓梁抹殺令
 秀吉は島津征伐の帰途、博多に諸将と会同して、大正十五年六月十九日、切支丹宣教師追放を発令(六月十八日付の神宮文庫蔵「御朱印師職古格」十一ヶ条と六月十九日付「松浦文書」五ヶ条)したが、秀吉は、この追放例と同時に岩屋梓梁と易断政府抹殺も指令し、それはさらに家康に継承されて徳川幕府の基本政策となったのである。

 ★伊集院西郷家

 伊集院西郷家は、建武三年(1336)三月、北朝派・足利尊氏に味方して、島津貞久とともに多々良浜に南朝派・菊池式敏を破った伊集院忠国(大隅助三郎、次郎三郎とも称した)が、菊池の降将・西郷九郎秀範(忠国と秀範は、その前年、内裏大番陣中条制による宮中勤番中に相識の仲であった)を伴って、近畿まで出撃、その間接触した楠木氏の一族・正国を伴って、ともに伊集院に移り、伊集院城内に、西郷砦と楠木砦を造って居住した。正国の子が後の曹洞宗・傑堂能勝で、その法弟・南英謙宗が平田紹宗の跡を継いだ。

 この西郷九郎秀範が伊集院・西郷家の始祖となったのであるが、秀範は相当な人物だったらしく、伊集院に帰着早々に忠国を説いて南朝派に与せしめ、翌四年には、南朝派三条泰季を、さらに五年後の興国三年には懐良(かねなが)親王を、続いて宇治惟時を伊集院城に迎え、当時、琉球支配に関して島津と抗争して劣勢であった伊集院家をして、島津に対し、偽妄の計(偽忠)をもって、勢力均衡から優勢へ逆転せしめる契機をつくったりした謀将であった。

 現在、『島津史』には、懐良親王は谷山隆信の谷山城に入城したとされているが、これは、伊集院氏と南朝派の結びつきを隠蔽するための島津史家による捏造であって、事実は、懐良親王は伊集院城へ入城、谷山城を枝城として活躍したものだったのである。そのことは、『島津史』における
南朝派の活躍において、谷山隆信の名が、島津系伊作之長の軍忠状に一回しか誌されていないことからもわかるのである。

 日本史において、『大日本史』をはじめとして、南朝が正統として唱えられるに至ったゆえんは、岩屋梓梁が、伊集院家と南朝派の結びつきからみて、『大平記』(作者は南朝に縁の深い僧とされている)や『神皇正統記』などを書いたことに縁由しているからである。

 ★伊集院における一大鉄砲製造基地

 西郷九郎秀範時代から約二百年下った天文十一年(1542)八月二十五日、種子島に鉄砲が伝来したとき(註)、岩屋梓梁は重九の九月九日を卜(ぼく)して鉄砲試射に立ち会い(慶長十二年〔1607〕成立の僧南浦文之筆の『島津鉄炮記』には、このときの岩屋梓梁のことを「時人」と誌している)、買い入れた鉄砲二梃のうちの一梃を伊集院へ持ち帰り、猪鹿倉(いがくら、鋳ガ倉。鋳銭所)、万造坂(万金物製造)を鉄砲鍛冶地帯、原掛(はいかけ、灰掻くが語源)を硝石製造地帯、大迫畑(うさはた、打ち裂くが語源)を鉄砲試射揚、清藤(岩屋梓梁が、自分の名の兼清からとって名づけたもの。鉄砲火薬物料倉庫所在地)を所在の基地とした、関係人員五千名にのぼる、水車動力を利用した一大鉄砲製造地帯を建設した。

 『島津史』に、鉄砲を「種子島から直ちに鹿児島に移した」とあるのはこのことであり、現在、「鬼に金棒」とあるのは「鬼に鉄砲」が源諺だったのである。

 このときの鉄砲製造主家頭だった西郷正勝(正頓の子)・元正父子は、岩屋梓梁の遣明船がその帰途、暴風雨に遭遇して難破し、伊豆半島(現在の松崎町岩地海岸、岩地の「天下る岩」はその漂着地点をさしている)に漂着した天文十四年、その後を追って伊集院から相模へ移ったため、その甥で岩屋梓梁の子である清貞が伊集院・西郷家の当主、主家頭として、天文十九年、島津貴久が鉄砲火力の威力によって勢威を伸ばして伊集院城から鹿児島城へ移るとき、伊集院にあった鉄砲製造基地群の鍛冶屋衆の優秀分子(その他は、加世田、宮之城などへ移す)を率いて鹿児島城下・甲突川畔の鍛冶屋郷(上・下合計二百家)の地に移り、鹿児島・西郷家の祖となったのである。

 伊集院鉄砲基他時代の鍛冶職頭は稲留弥四郎祐秀で、後に、徳川初期にその名を馳せた鉄砲匠・稲富一夢はその孫・祐直であり、現在の稲留純義、佐治氏はその子孫である。

〔註〕 種子島の鉄砲伝来は天文十一年であった
慶長十二年に成立した島津の『鉄炮記』には、鉄砲伝来は天文十二年(天文葵卯)と誌されているが、これは史実の歪曲であって、本当は西欧の記録(アントニオ・ガルワノ著『新旧発見年代記』、ロドリゲス著『日本教会史』)や筆者の『かたいぐち記』にある天文十一年が正しいのである。
 では、なぜ、鉄砲伝来を一年ずらしたかというと、岩屋梓梁が天文十三年四月、軍船二十隻、鉄砲五百梃、千人の威力をもって朝鮮に侵寇、自分と朝鮮王女・王珥との間に生まれた清茂を王(仁宗)に擁立したため(蛇梁倭変)、その重要な戦力となった五百梃という鉄砲を製造することの時間的余裕をなく(短く)するため、つまり、蛇梁倭変は岩屋梓梁が敢行したものであるという事実を隠蔽するため、鉄砲伝来を一年ずらして天文十二年としたのである。

 ★西郷家の悲劇

 しかし、徳川幕藩体制下に至ってから、易断系の家筋の者は、藩首脳に立つことを忌避されるに至ったため、西郷家は逐次貶點され、元禄時代(1699年以後)に至って、西郷家は小姓組にまで箝制され、それまでの西郷家の功績、系図などは藩記録所においてすべて断截され、西郷家の始祖は、元禄時代に、肥後から薩摩に移って来た西郷九兵衛なる者であったと歪曲されてしまったのである。現在の西郷家の系図がそれである。

 薩摩郷土史家の手になる薩摩西郷家の系図に、建武年代の頃、西郷弥四郎隆盛なる名、菊池家の系図に、西郷弥三郎隆盛なる人物の名が誌されているのは、西郷隆盛が偉くなってから、隆盛と弥次郎(岩屋梓梁)の関係を暗示して書き入れた明治以後の偽造系図だと言えるのである。

 筆者の記録には、西郷が、その吉之助の名を隆盛と変えたのは、西郷が『近思録』の警戒類からとり、南洲の名は、『神皇正統記』と平田神社(大隅半島岸良在)の神楽歌からとったものと誌されている。

 隆盛の思想と『近思録』との精神的結合を断つため、島津史家(重野安繹ら)が、隆盛の父・吉兵衛の墓を隆盛と陰刻して新造せしめたり、また、隆盛の名は、吉井友実が、隆盛の父からの話を勘違いして隆永の名を隆盛として官途に届け出たからであるなどと称せしめたりして、隆盛の心容にまで関与した明治島津史家の史実歪曲の凄まじさがうかがえるのである。

 ★徳川家と西郷一族の血の系譜

 薩摩人が主力となって樹立された易断政権の重臣が、当初、薩摩系人材をもって占められたのは当然なことであったが、岩屋梓梁は、全国の諸豪諸士の娘の「お種頂戴」に応じて多くの子を残したから、その臣僚家衆も岩屋梓梁の勢威、熱望の盛衰に応じて離合集散して変転きわまりないものとなったことはいたし方のないことであった。

家康と西郷清員系の関係

 ① 西郷稠頼糸-岩屋梓梁が易断政治遊説中、三河に残す。その子孫は岩雄松平と結ばれて松平本家を継ぐ。
 ② 西郷正勝、元正系-本章に前述。
 ③ 西郷清員糸-真方衆が鹿児島に同行してきた伊賀衆・服部平太夫の娘と西郷清員との間に生まれた於愛が、後に家康と結ばれて秀忠が生まれたときから清員系は徳川家譜に入った。(註)

 この系図からもわかるように「徳川は島津の陪臣筋」(又家来・またげらい)という伝承が幕末における島津藩士奮起の重大な精神的原動力となったのであるが、反面、徳川譜代側にも「薩摩ユタ」とか「薩摩賤人」などと呼ぶ蔑視碑が生まれたことを忘れてはならない。

 大久保利通から「天皇の下に、島津幕府をつくることを目途として努力する」などとおだてあげられた島津久光が「おいは、いつ、将軍になるんだ」と言ったとか伝えられるのも、徳川氏に対する島津の陪臣蔑視観があったからなのである。

〔註〕家康と西郷清員系の関係
 家康が、薩摩から遠く三河の西郷義勝に嫁して来ていた「於愛」を強権をもって自分の室としたのは、於愛が、岩屋梓梁の血を享けた優秀な人物だったからなのである。

 家康が「後家好み」と伝えられる理由は、家康が、岩屋梓梁の血を享けた人物だったら、相手が後家であろうと誰であろうと、すべて取り上げて自分の子を産みつけようとしたからである。
 徳川秀忠が死んだとき、幕府から薩摩藩へ銀一万貫ほか多額の引出物と謝状が届けられ、『島津史』に「かかる目出たき時代は、前代にも後代にもなからんとの沙汰である」とまで誌されているのは、秀忠の生母・於愛が薩摩易断系の人物だったからで、謝礼は秀忠の遺言によるものだったからなのである。P89
 

 ■大塩平八郎に訓薫された西郷少年
 へ続く。
  
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