カウンター 読書日記 ●『岩屋天狗と千年王国』(8)
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●『岩屋天狗と千年王国』(8)
 ■革命の尖兵、謎の国友衆 p69~

 いわゆる征韓論なるものの謎は、遣韓使節たらんことを願った西郷が狙ったある「隠密の企図」なるものがその謎を解く真妄な鍵であることがわかるのであるが、奇怪なことに、従来の史乗には、内治派はもちろん外征派なる政治家にしても、誰一人として、その西郷の私情に基づく「隠密の企図」なるものの実態を語り、あるいは記録したものは何もないのである。

 なぜだろうか?

 全く奇怪千万な沙汰としか言わざるをえないのであるが、おそらく、それは、その隠密の企図なるものが、たとえ西郷の私情に発するものとはいえ、それは、西郷の単なる私情の企図としてだけでは律しえない範疇に属する、実質的には、国家の精神的基柱といったものを揺るがすほどの重要きわまりない極秘事項に関する筋合いのものだったため、さすがの参議豪傑どもをしても、なお、その実態を語り、あるいは公表すべからざるものとして口を緘せしめたものに違いないと考えられるのである。

 ★真相を知っていた勝海舟

「世、君(西郷)を以て征韓論の張本人となし、十年の乱を以て征韓論の相背馳したるに源由すとなす。是れ未だ公の心を識らざる者なり。夫れ君が征韓論の張本人たるの大誤となるを明かにするを得ば、之れより揣摩盲測せる臆断の誤謬たるは、刀を下さずして自ら解すべし。予、明治八年十月、君が篠原国幹に贈られし書簡を蔵す。之れを一読せば其疑を晴らすに足る」(『追賛一話』)と誌した勝海舟(同趣旨のことは『氷川清話』にも誌されている)が、西郷の「隠密の企図」なるものを暗示した次のごとき談話がある。

 征韓論(とされているもの)に破れた西郷が、横浜から船で大阪へ向かうとき、真方衆の急報で、横須賀から横浜へ駆けつけた勝海舟が西郷と対話したときの話の内容について、それから二十年後の日清戦争の頃、勝が
巌本善治に語ったとして、巌本は、その内容を『女学雑誌』に次のように発表している。

 「“ナニが征韓論ダ、いつ迄、馬鹿を見てるのだ、あの時、己は海軍に居ったよ。もし西郷が戦かふつもりなら、何とか話しがあらふジャアないか。一言も打合はないよ。あとで、己が西郷に 聞いてやった。『お前さん、どうする積りだった』と言ったら、西郷メ『あなたには分ってましよふ』と言ってアハアハ笑って居たよ。其れに、ナンダイ、今時分まで、西郷の遺志を継ぐなどと、馬鹿なことを言ってる奴があるがエ。朝鮮を征伐して、西郷の志を継ぐなどと云ふことが、何処にあるェ”と言ふことで、丁度日清戦争の頃ろ、烈しいお話しのあったことがある。つくづく西郷先生当年の言動を考へて見ると、忽まち此の秘密が頓悟されるやうに思はれる」

 この文章は、日清戦争のころ、巌本善治が勝海舟に「最近、西郷南洲翁の征韓論が盛んに喧伝されていますが、いったい、征韓論というのはどういうことだったんですか」と尋ねたことに対し、勝が巌本に、横浜での西郷との会話の内容を語ったことを、巌本が、勝の言葉そのままに『女学雑誌』に発表したものであるが、この征韓論(なるもの)に関する西郷と勝との応答の仕方からみても、その隠密の企図する極秘事項なるものは、当時の政治有力者の間では、すでにある程度知れわたった(西郷の「あなたには分ってましよふ」という言、大隈重信の「数人の者は西郷の心事を了解していた」という言)公然たる秘密といったものであったことがわかるのである。


 ★北伐北進思想に利用された西郷渡鮮論  

 西郷が大使として行くことを熱望した渡鮮論は、日清戦争を契機として、明治政府が、「あれは、西郷の征韓主張の論だった」と強調、規定することによって、西郷の復権を図り、西郷の思想を北伐北進のアジア経綸思想の源流とし、それによって、明治政府の大陸侵略政策を正当化しようとしていた思想工作に対して、勝海舟が強く反発して「今頃、まだ、西郷が征韓論者だったなんて馬鹿なことを言っているのか」と痛罵した事実を物語るものである。

 ところが、勝海舟のこの発言について私たちが注意しなくてはならないことは、勝が西郷に「あなたは、朝鮮大使として、いったい、何をするつもりだったんですか」と尋ねたことに対して、西郷が「あなたなら分ってましよふ」とだけ言って、その真意をことさら話さず、また、勝も、改めて西郷の真意を糾そうとせず、無言のうちに勝と西郷の意思が「アハアハ・・・」という笑いのうちに通じ合ったとしながら、しかもなお、勝が、その西郷の真意なるもの(隠密の企図)の内容について、西郷の死後十数年を経ていた日清戦争当時のその頃においても、その実態、真相を巌本に語ることを避けたという事実である。

 このことからみても「西郷渡韓熱望の意図が、勝海舟の進言によるものである」とする説(海音寺潮五郎説)が付会(こじつけ)であることがわかるのである。

 勝が、西南戦争で死んだ西郷を「ぬれぎぬをほさうともせず子供等が、なすがまにまに果てし君かな」と嘆じたのは、鹿児島に帰った西郷が、自分が征韓論者だったなどと虚像されていることの汚名の濡れ衣を晴らそうともしなかったことの西郷の高潔さを、勝が偲んで詩ったものだと思われるのである。

 だから、西郷征韓論の謎を解くためには、私たちは、征韓論当時における史実、史識だけではなく、西郷個人の心情、信念、氏性のことなどにまで立ち入って追究しなくてはならないのである。
 

 ★深い悲しみを蔵した男、西郷

 木戸孝允、が「西郷には、何か心に暗い陰翳のようなものがあった」と言い、
横井小楠が、西郷を「何か深い悲しみを蔵した男」と言い、勝海舟が「西郷は、どうも、人にわからないところがあったよ、大きな人間ほどそんなもので・・・」と言ったごとく、西郷の心中に、何か大きな秘密、悲しみ、隠し事のようなものがあったことは、西郷が司馬温公を尊敬して、つね日頃から「司馬温公にはとても叶いもさん」と言っていたことからもわかるのである。

 
司馬温公、名は光、北宋の政治家で、官治法権主義の王安石に反対して野に下り、『資治通鑑』を撰述したのであるが、西郷が温公を尊敬した理由は、温公の心の中に「隠し事」が全然なかったことを、西郷が「他人に話せん隠し事が多か自分が恥しうごわす」と衷心忸怩して、心の修練、彫琢の鑑(かがみ)としていたことからもわかるのである。

 では、西郷の心の中にあった「隠し事」とはいったい何だったのだろうか?

 この西郷の心の中にあった隠し事こそ、西郷の人となりを知り、それはひいては征韓論の謎を解く重要な因子であることは、征韓論の謎の究明に昏迷された徳富蘇峰氏が「征韓論を究める秘鍵は、西郷南洲の何物たるかをまず知ることである」と論断しながら「しかもなお、南洲ほど多く世に知られて、かつ知られざる者はない」と慨嘆され、「西郷には、吾々が知らない、知り得なかった心情的な何かがある。その何かこそ、征韓論と西南戦争の謎を解く、残る唯一の鍵である」と結論されたごとく、私たちは、西郷の心の中にある「何か」こそ、西郷と征韓論、西南戦争の謎を解く、残る唯一の鍵であることがわかるのであるが、『かたいぐち記』と『異端記』には、その何かこそ、西郷家が、ユタノンとかユタモンといわれた易断党筋であるということ、そして、それこそ、幼少年時代から「よく涙した西郷」の全一生の心情を支配した心の翳り、懊悩の因をなすものだったことが判然と誌されているのである。 P74 
 

 ★西郷家はなぜユタモンといわれたか  

 この
ユタノン、ユタモンなる呼称は、通説では「用頼」(用を頼む)なる語彙が訛ったものと推定され、『島津史』では「用達」なる用語で表現して、長州清末支藩の白石正一郎(白石は、『かたいぐち記』によると、父は光格天皇で西郷隆盛、国学者・鈴木重胤、高杉晋作と深い交渉があった人物である)にも用達を辞令下達した旨、誌されているが、その語源は「易断者(ユタモン)」で、これは、西郷家の祖先が、かつて易断政府時代に、易断政治に参画した有力な政治家だった事実を物語るものである。

 西郷、大久保らが生まれた鍛冶屋郷中士は、幕末当時までは一般に「ユタ筋」と陰口されてきたが、そのなかでもとくに西郷家だけは「岩屋天狗の子孫」といわれ、「ユタノン家」とか「ユタモン家」と呼称された隠然たる威望の家、地位は低くても、旧家中の旧家といった格式格調のある家系だったのである。島津斉彬が西郷を抜擢した理由は、実に、西郷に、岩屋天狗の血を引く英雄的相貌があることを知ったからなのである。(註)

 ところが、幼少年時代には、心やすく聞き流していたこのユタモンなる呼称も、西郷が大きくなり、その英雄的相貌が光彩してくるにつれて、周囲にとっても、西郷にとっても、その呼称は一種の禁厭となり、また西郷自身にとっても、岩屋天狗とユタモンの謎を解く心の翳りとなり、周囲の者にとっても公言を憚るものとなっていったのである。

 大久保が西郷の心理深層を表現して言った「血性燃ゆるが如き熱情と求道心」とは、まさに、このユタとその首領であった岩屋梓梁に闘する史実把握に腐心し、苦悩した幼少年時代からの吉之助の心境を物語ったものである。

 古来、薩摩藩には、家康の依命による伊集院本家絶滅の
庄内事件以来、岩屋枠梁を顕彰せんとした多くの有能の士が殺戮されてきたが、文化五年(1822)、造士館教授・山本正誼を中心として編纂した『島津史』が岩屋梓梁の存在を抹殺したことを糾さんとした近思録党が悉く殺戮、放逐された秩父事伴にみるがごとく、薩摩藩内には、岩屋杵梁抹殺を継続する権力派と、顕彰せんとする豪直派が深刻に対立してきた。青年時代から島津久光に迎合してきた大久保は前者であり、久光から「竟に叛臣のみ」と罵倒されてきた西郷は後者である。だから、西郷と大久保は青少年時から、性格的に思想的に相対立する宿命にあったといえるのである。

 〔註〕 
島津斉彬が西郷を抜擢した理由〔編註4〕
 小姓組という軽輩の士、西郷を島津斉彬が抜擢した理由について『島津史』は、西郷が提出した農事意見書にあったとしているが、抜擢の理由について西郷自身が「なぜ見出されたのかその消息を知らない」と言明していることからもわかるように、抜擢された本当の理由は、後年、斉彬が越前公に「私は、家来多数あれど、誰も間に合う者はない。しかし西郷一人は薩国の大宝なり。しかしながら、彼は独立の気性が強いから、彼を使うのは私からではあるまじく・・・・」と語ったごとく、斉彬は、英雄岩屋梓梁の血を享けた西郷の人間的魅惑を高く評価したのである。  


 ★西郷が死をもって詫びると称した国友衆
  へ続く。                      
 
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/661-1939639e



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。