カウンター 読書日記 ●『岩屋天狗と千年王国』(6)
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●『岩屋天狗と千年王国』(6)
 ■西郷と征韓論、西南戦争に関する謎の数々 

 ★謎の数々
 
 だから私たちは、西郷の心理深層に迫りうるような西郷周辺の心理的現象行為といったものを選択、把握し、それを帰納的に結論するほかに方法はないわけであるから、私は、ここにまず、西郷と征韓論、西南戦争に関する次のような謎、疑問、不可解さといった矛盾点を列挙し、それを以下
の本論におして逐次解明することによって、西郷の心理深層に迫り、西郷征韓に関する謎を糾明していく契機としたい。

 ****************
 
・西郷家がユタノンとかユタモンといわれた特殊な家筋であったことの意味や由来が不明であることの謎。
・西郷吉之助の幼少年時代の経歴が、天保十年十三歳のとき、争闘して右臂を切られたということ以外、ほとんど不明であることの謎。
・真方衆が、天保十一年春、西郷少年を甑島に匿まい、しかもそのまま幽閉を命ぜられた西郷少年を密かに、天草、島原、長崎に同行し、また、嘉永三年夏、二十四歳の西郷を琉球から台俯探検に同行して視野の開眼を図った事実が抹殺されていることの謎。
島津斉彬が西郷を抜擢し、重臣を度外視して活用した斉彬の心理にあったものは何だったのだろうかという謎。
・藤田東湖が西郷を称して「偉丈夫」と表現した抽象語(西郷手記)の意味。有馬藤太(近藤勇捕縛者)が、西郷の出自を、未来永久に秘すべき理由があると称した謎の意味。
・西郷が、機をみてよく山野に引き籠った、いわゆる高踏勇退的習行なるものについて、間歇的に西郷を襲う絶望感とそれからの逃避、厭世感、失落感などと表現されていることの西郷の心境にあったものは何だったろうかという謎。
・西郷が南九州の山野を回遊して、山々峰々の景況図(写景図)を自ら、また同行の者をして描かせた目的は何であったかという謎。
・西郷が「私は、心の中に、人に言われない隠し事がある」と言って、よく人に慙愧したというその「隠し事」とはいったい何だったろうかという謎。
・西郷が、可愛山陵(新田八幡山、鹿児島県川内市)をことさら尊崇して広大な神田まで供し、しかも自らその山陵の写景図を描き、それを、京都の彫金師に送って十数個のバッジ(帯バンド用)を彫金してもらい、それを有志にも送り、しかもそのバンドを、城山で死ぬときまで、ヘコ帯の下締めとして着用していた西郷の心中にあったものはいったい何だったろうかという謎。
・明治元年、鹿児島に帰った西郷が、国分正八幡宮の「坊主と不浄の徒は山門に入るべからず」という制札をたしなめるために丸坊主になったということは、剃った本人が西郷ほどの人物であるだけに、婀娜や酔狂とは思われないのであるが、従来史が、それを単なるユーモアとして軽視、無視しているのはなぜだろうかという謎。
・当時の鹿児島の鍛冶屋郷士中、西郷、大久保、大山、村田、辺見、高橋ら六尺前後の大男が多数集中していたのは、鍛冶屋郷中士に、何か、大男との血縁があったことを物語るのではなかろうかという謎。
・西郷が、討幕戦遂行途中の明治二年三月という重要な時期に、数次にわたって、総計八十名の 優秀な薩摩人子弟を、京の春日潜庵ほか全国的に、学匠、古跡などを訪ねて遊学させた狙いは 何であったかということの謎。
・西郷家の家扶的立場で、西郷家の家族と起居をともにしながら、藩士たちからも師として畏敬されていた、上方言葉を遣う他所者(よそもん)であった
川口雪篷良次郎なる人物の素性が不明で、しかも 西郷が沖永良部島に流謫されたとき、川口雪篷が同じく沖永良部島に流謫されて両者に深い接触があった事実を従来史が無視していることの謎。
・明治元年八月、北越戦線にあった西郷が、総督府の指揮を離れて単独行動をした奇怪な謎。しかもその西郷が、会津、米沢、庄内藩との交渉を平和裡に成立せしめた東北戦線における西郷の行動、功績がいっさい不明とされていることの謎。
・西郷が、東北戦線から鹿児島へ帰還途中の明治元年十月、京都で薩摩藩兵の解兵を指令して、「京都惣引払い」を敢行したことは、当時、薩摩藩が、維新政権からの離脱を意味するのではなかろうかとして重大な関心と疑懽を与え、西郷の心意那辺にありやとされ、しかもそのまま 西郷が鹿児島へ帰っていっさいの公職を去ったことの謎。
・西郷の国家観、天皇観が判然としないということの謎。
・西郷が維新政府への構想がなかったとされていることの謎。
・西郷が国学の造詣が深かった事実を従来史が隠蔽していることの謎。
・鹿児島に引退していた西郷が明治三年、政府の要請によって上京参政するにあたって政府に提出した意見書「本朝中世以上の体」と誌した意味は何であったかということの謎。毛利敏彦氏はそれを「鎌倉以降の武家政治以前の政治体制」と誌されてはいるが・・・。
会津藩家老西郷頼母が、その著『栖雲記』に「都々古別の宮司になりし後、そを辞すべき旨令せられしは、西郷隆盛が謀反に組せし疑とぞ聞ゆ」と誌したことは、薩摩西郷と会津西郷の間になんらかの結びつきがあったことを物語るのではなかろうかという謎。とすると、頼母の弟・西郷直節と雲井龍雄(米沢藩)が起こした「帰順部曲点検」運動なるものも、西郷隆盛となんらかの関連があったことを物語るのではなかろうかという謎。
・広沢真臣と前原一誠は、なぜ、「帰順部曲点検」運動という反政府運動を支援したのだろうか という謎。
・明治四年十二月(新五年一月)、小網町の西郷屋敷(旧庄内藩下屋敷)を突然訪ねて「当御館之御仁風を慕ひ上書仕侯」という建白書を提出した、
貞方良助こと阿部真造なる切支丹教師の正体や西郷訪問の目的が不可解であるということの謎。
・明治五年四月、西郷が宮島誠一郎(旧米沢藩士、当時左院少議官)に図って「国憲(憲法)ニ準拠シテ政務ヲ施行シ、漸々、開化ノ進度ヲ待ッテ真ノ民撰議院ヲ設クル」という「立国憲議」を左院(議長・後藤象二郎)に提出したような西郷の思考が、士族軍事国家などを夢みて内乱を起こすだろうかという謎。
・板垣から聞いた自由民権運動に対し「それは尊い考え方だ」と感銘したという西郷が、韓国征伐というような戦争を意図するだろうかという謎。
・「子孫のために美田を買わず」と詩っている西郷が、父とともに借金して土地を買ってから二十数年たった明治五年五月、百両という大金をもって返済し、しかもその買ったという土地がそのまま売主のものであったという理由は何であったかという謎。
・反切支丹とされた西郷が、その留守内閣時代に、切支丹を黙認、解禁した理由は何であったかという謎。
・遣欧使節として出発した大久保が三条実美(太政大臣)からの急電により、六年五月、早々に単身帰国したことの理由が不可解で、しかもそのまま何ら為すことなく漫然として徒為したことの謎。
・島津久光が西郷を「安縁山のような奴だ」と卑称し「竟(ツイ)二叛臣ノミ」として反逆を起こすことを予言し、大村益次郎が西郷を「足利尊氏のごとき奴」「叛乱を起こす謀臣」と叫んだ根拠は何かという謎。
・西郷の実弟・従道が「兄は、遣韓大使となると乱臣賊子になる」と称して、西郷遣韓大使に徹底的に反対した不可解な謎。
・位人身を極めるといった地位にあった西郷は、なぜ、すべての地位を抛って、一大使となって 渡韓することを熱望したかという謎。
・元帥として兵馬の実権を握っていた西郷の権力的立場をもってすれば、征韓とか出兵というような戦略、軍略に関しては、参議会議の意見などは鎧袖一触して押し潰すこともできたはずなのに、西郷は、なぜ、平身低頭するような卑屈な態度で大使となって渡韓することを泣訴哀願する態度に出たかという謎。
・大久保が西郷遣韓大使問題を「国(薩摩)に事情がござる」と称して、なぜ、西郷を「亡国論者」だと痛罵したのだろうかという謎。
・外務卿・副島種臣が「西郷の境遇に同情して西郷が遣韓大使となることを承知した」(『大西郷伝』ほか)という西郷の個人的な境遇とはいったいどういうことだったのだろうかという謎。
・板垣退助が監修した『自由党史』が征韓論争に関して「所謂征韓派とされている者こそ本当の民権派であった」と規定していることの謎。
・英国公使パークスが「征韓論については伊藤と大隅の言うことを聞かなくては日本は亡ぶ」とまで極言したパークスの心中にあったものは何だったのだろうかという謎。
・西郷が、遣韓大使となることを熱望する余り「死をもって国友に謝す」と三条実美へ送った手紙に誌した「国友」とは、いったいどのような集団をさすのか、いまだに不明であることの謎。
・西郷が、沖永良部幽閉時代と日当山引退時代、自分自身を「牲犢」「牲牛」と詩って、いずれは自分が犠牲となることを暗示した意味は何だったろうかという謎。
・大久保が、明治六年八月十六日東京を出発して、九月二十一日帰京するまでの間、関西へ至る各地を回遊したことは、従来史では、岩倉使節団が帰朝するまでの「時間稼ぎ」であったとしているが、その間、大久保が各地の史跡、とくに旧幕時代の鉄砲製造基地を調査したことの謎。
・安政六年十一月五日以来記録されている「大久保利通日記」が、明治四年十一月十一日から六年十月十四日までと、明治十年三月二日から暗殺された十一年五月十四日までの、征韓論とその後の処理に関して誌されたであろう最も肝要な時期の日記が焼失(大久保家人の言)してないということは、まことに奇怪であるという謎。
・明治六年の太政官征韓論争の議事録が全然ないということは、まことに奇怪といわなくてはならないという謎。
・西郷が、都心を離れた向島小梅に遍在していた
庄内藩御用商・越後屋の寮をとくに活用、利用したことの謎。
・征鶴論争の最中、大久保が「西郷は、征韓を主張するため、兵力(クーデター)を用いて目的を達するようなことは絶対にしない」と自信をもって言明したという大久保の心中にあったものは何だったかという謎。
・征韓論(なるもの)に破れた西郷が、即日離京しないで、なぜ向島の小梅の越後屋寮に行き四日間も滞在したかという謎。
・いわゆる佐賀の乱の原因について、『佐賀人史』は「維新における佐賀藩活躍の立ち後れを征韓戦争で取り戻そうとして熱狂したからである」としているが、その当時の佐賀人の官界における勢威を鑑みた揚合、
江藤新平や島義勇ら佐賀人が、勢力挽回というような功利、打算の欲望に駆られて動乱を敢行したなどということはとうてい考えられないということの謎。しかも、その征韓論なるものを、誰が主張、鼓吹し熱狂せしめたかということは今でも全然不明であるということの謎。
大隈重信がその『昔日譚』で「西郷は、征韓を口実として或る重大な隠密な企図を計ろうとした」 「西郷は一種の私情に駆られて謂ゆる征韓論を唱ふるに至った」と語っていることの西郷の個人的事情とは何であったのか、いまだに不明であることの謎。
・島津久光が太政官へ提出した建白書で、征韓論に破れて帰郷した西郷の復職を迫り、また久光が、後にともに組んで反乱を起こした
前原一誠(長州藩)と永岡久茂(会津藩)と明治七年五月二十三日、浜町屋敷で密会した目的は何であったかという謎。また、十月、三条実美を口をきわめて罵倒した上表文を政府に提出した久光の真意は何であったかという謎。
・前原一誠と永岡久茂が起こした反乱の目的、原因が判然としないということの謎。
・征韓論反対の内治派とされた大隈重信が、西郷従道とともに、征韓論には強圧に反対したにもかかわらず、明治七年二月には征台(台湾)軍派遣という外征には率先して賛成し、消極的に軍事工作を展開した行動の謎。しかも、当時の内治派参議たちが、木戸孝允を除き、誰一人として征台軍派遣に反対しなかったのはなぜかという謎。
・大久保が「俄に朝鮮の役を起こすという西郷の意見」に反対して「五十日ほど(出発の)猶余が必要である」と副島と板垣に返答したその五十日という日数は、いかなる目的、算段をもった日数だったのだろうかという謎。毛利敏彦氏はそのことを「大久保の内治優先論なるものは、わずか五〇日程度で目途がつく底の浅いものであり、それをもって、西郷使節派遣反対の決定的理由とするには根拠薄弱だといわれてもやむをえないだろう」と誌されているが・・・。
・明治八年九月、日本軍艦「雲揚」が、測量を口実として朝鮮江華島砲台を攻撃したことを、篠原国幹への手紙で「是迄の交誼上、実に天理に於て可恥の所為」と痛烈に非難したような西郷が、はたして征韓論などを主張しただろうかという謎。
・西南戦争のとき、西日本のほとんどすべての民主団体が西郷軍に賛同して参加した謎。熊本民権派が「ルソーの民約論を泣き読みつつ、剣を取って薩軍に投じた」心境からみても、とうてい、西郷が征韓論を主張したとは思われないということの謎。
勝海舟が「薩摩士族の暴発を抑えるのはごく簡単なことだ」 「彼らとうまくやっていくのはいとも簡単なことだ」と言った簡単なこととは、いったいどういうことだったのだろうか?
その簡単なことをすれば西南戦争は起こらなかったというのだから、私たちは、今、その「簡単なこと」の実態を徹底的に究明する必要があるといえよう。
・西郷が、生命まで賭して執念、熱望した遣韓大使を鹿児島に退隠してから後は一言も主張せず、なんら関心を示さなかったのはなぜだろうかという謎。
・江藤新平が「太政官は英雄(西郷)の心を知らない」と号泣した江藤の心中にあったのは何だったろうかという謎。
・英国領事館員・
アーネスト・サトーが「西郷戦争の衷向きの開戦理由は決して真のものではない」と言明したことは、西南戦争勃発のとき鹿見島に至っていたサトーは、その真の開戦理由を知っていたのではなかろうかという謎。サトーが、そのとき、鹿児島に行った理由は何であろうかという謎。
・西南戦争のときの西郷軍の旗印「新政厚徳」なる厚徳とは何を意味するのだろうか? 西郷生前の遺訓からすると「徳」なる徳目を新政府の新政治の最大の眼目の旗印にするなどということはとうてい考えられないということの謎。
・「常備の兵数も亦会計の制限に由る、無限の虚勢を張る可からず」と遺訓(『庄内藩士記』『西郷遺訓』)している西郷が、外国(韓国)を征伐するなどという意趣を抱いただろうかという謎。
・明治十七年の秩父事件のとき、
大井憲太郎らの旗印の一つに「新政厚徳」があったということは西郷精神を標榜したのではなかろうかという謎。
・西郷が城山で死ぬ三日前、真方衆の一人(岡部)をして副島に伝えた「慎んで死する勿れ」という遺言は、必死ということが人間の宿命であるだけに、何か重大な意味を包蔵した遺言ではなかったろうかという謎。
・征韓論争中から西南戦争の間、全然、表面に出なかった
重野安繹が、西郷の死が東京に報ぜられたとき「馳せて公(大久保)の第(やしき)に詣り、国家の為に賀すべしと言上した」というが、重野は、なぜ、西郷の死を賀したのだろうか? 西郷が主張したという征韓なるものは、すでに明 治八年、政府が朝鮮へ軍艦を派遣、「江華島条約」によって両国は円満に修好するに至っているのだから、いまさら、西郷が兵を率いて朝鮮を征伐するなどという気遣いは全然なかったはずである。にもかかわらず、歴史家風情の重野が、同郷人英雄西郷の死を、なぜ「国家の為に賀すべし」などと祝福したのだろうか、その心意にあったものはいったい何だったのだろうかという謎。
・明治六年当時は朝鮮という国名であった朝鮮国が「韓国」と改名したのは明治三十年であるから、明治六年当時の参議論争を「征韓論」と称するのはまことに不可解といわなくてはならないということの謎。もし明治六年当時朝鮮を征伐する論があったら、それは当然「朝鮮征伐論」と称されるべきではなかったかという謎。

   続く。                      
 

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