カウンター 読書日記 ●『岩屋天狗と千年王国』(4)
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●『岩屋天狗と千年王国』(4)
 ■毀誉褒貶定まらぬ西郷評価

 ★上野の西郷像はなぜ野人姿か


 上野の山に屹立する西郷銅像の姿態は、人によっては、あるいは傲然と、あるいは煌然と、また、素朴、野卑然と聳え、見る人をして、いかにも、征韓出兵を主張した武士団の巨魁といった感懐を抱かせるそうであるが、実際の西郷人物像はどうだったのだろうか。

 それを理解するためには、まず、明治二十年代に銅像建設(明治二十六年着工、三十年竣)を発起した当時の佐津間人首脳の心境が、西郷を裏切って、西郷をしてついに官賊として悲憤死せしめるに至った悔恨を、筒袖ヘコ帯の野人姿の銅像として表象せしめざるをえなかった痛恨の心情を理解しておく必要があろう。

 徳富蘇峰氏は、このことに関して「上野の銅像は、アレは遊びに行かれる時のもので、アレを標準にして、而も、それを天下の公園にお出しになったということは少し考え違いではなかったかと思う」と誌されているとおり、あの銅像の姿態は、西郷の人格を知らない現代の民衆をして、いたく誤解せしめるものであることを承知しておく必要がある。

 海音寺潮五郎氏が「西郷どんは憂鬱そうだな」 「遠く一点を凝視して物思いをひそめているように見える」と誌されているごとく、あの物悲しく虚空を見つめている双眸は、西郷の真諦(本当の価値)を誤り伝えている現代人に対する、西郷自身の痛恨の情を訴えているものだ。私はそれが無念で、よくあの銅像の下に伏して位く。まこと、西郷は、心中で「よく泣く男」だったのである。 


 <B注>除幕式は、明治31年12月18日、模型彫刻・高村光雲氏 鋳造・岡村雪馨氏。
 式典に招かれ、銅像と対面した婦人は、思わずこう漏らしたという。
  「・・・んだ、も知たん? こは誰さあ ごわんどかい?」


 ★征韓論は史上の一大疑案 


 西郷隆盛は、兵力を伴う封韓威圧外交に反対し、自ら遣韓大使として単身赴任し(もちろん何人かの随員は伴っただろうが)、礼を尽くして外交折衝を開始するということは主張したが、韓国を自ら征伐するなどということは一言も言っていない。しかも、当時の陸海軍首脳部は山県有朋にしても勝海舟にしても、太政官からは何の質疑も諮問もうけず、太政官参議論争の圈外におかれてその実情を知らされず、したがって出兵出航とか臨戦のごとき出動態勢は全然とらなかったのである。

 それでもなお、西郷は韓国征伐を企図した首謀者だったとして、現在「西郷征韓論」などと通称、定説化しているのは、いったい、どうしたわけだろうか。

 たった百年前(*本書の私家版刊行は1982年)の明治六年(1873)、西郷隆盛を朝鮮使節として派遣することの可否に関して、名だたる英雄豪傑どもが精魂を傾けて諍闘した太政官参議会議は、現在、史藻の上では、外征派(西郷隆盛、副島種臣、江藤新平、板垣退助、後籐象二郎)と内治派(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、大隈重信、大木喬任)が争った、征韓是か非かをめぐる「征韓論争」だったとされているが、しかし、こ
の参議論争を征韓論争だったと規定することに関しては、かつて徳富蘇峰氏が「征韓論は史上の一大疑案にして、今後もさらに、この問題について史識と史実とを試むる者あるべきは予が切に待望するものである」と遺命されたとおり、西郷征韓論なるものは、その当時(征韓論なるものが世間に唱えられ始めた明治二十年代)の客観情勢からみても、また、史実的にも多くの謎、疑問、不可解さに満ち満ちているのである。


 ★不可解な西郷の心理深層


 征韓論と西南戦争に関する西郷の行動の謎については、かつて内村鑑三氏が「歴史は、西郷の生涯の此の部分を解決し得る以前に、なお百年を待つべきである」と誌され、徳富蘇峰氏が「征韓論を極める秘鍵は、西郷南洲の何者たるかをまず知ることである」と論断されながら「しかもなお、南洲ほど多く世に知られて且つ知られざる者はない」と慨嘆され、また司馬遼太郎氏が「西郷隆盛は、日本歴史が生んだ、というよりも人類がほとんど奇跡的に生みおとした一個の宝石であるが、この宝石は、他に(世界史的に)類型がなく、それをとらえようにも、たとえば赤光であると思ってとらえ得たと思っても、とらえた瞬間には白光になっており、どうにも始末がわるく、ついにはこの人は、遠くから観賞するのみでとどめおかねばならぬ、とこの場合もまた茫然とするのみである」と感銘されているごとく、西郷の死後百年たった今でも、西郷の人物像は甲論乙駁、褒貶自在の態で、その評価は判然、断定できていないのが実情なのである。


 ★西郷頌讃


 では、そういう評価不可解な西郷を、世人はなぜ、高風清節視して敬仰、欽慕するのだろうか。そのゆえんの第一の理由は、まず、その人格の高潔さにあることは次のような多くの高士傑士の讃辞でもわかるのである。

 ○
坂本龍馬
 「初めて西郷に会す、其の人物、茫漠として摸捉(さがしとらえる)すべからず、之を例へれば吊鐘の如きもので、大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響き、馬鹿なら大馬鹿、悧口なら大きな悧口者、全く見当もつかない」
 ○
中岡慎太郎
 「この人学識あり、胆略あり、常に寡言にして思慮勇断に長じ、たまたま一言を出せば確然人腸を貫く、且つ、徳高くして人を服し、しばしば艱難をへて頗る事に老練す、その誠実、武市(半平太)に似て学識を有す、実に知行合一の人物なり、これ則も当世洛西第一の英雄に御座侯」
 ○
後藤象二郎
「西郷と議論すると、先方が黙っとるから、こちらが勝ったように思う、ところが、家に帰ってからよく考えてみると、自分の意見が成っていないことがよく解る」
 ○
勝海舟
 「その巨星の大きいことは所謂天空海闊で見識ぶるなどということは固より少しもなかった、その気胆の大きいことは実に絶倫で、議論も何もあったものではなかったよ」
 「蓋世の英雄、西郷」
 「西郷は、生涯に、二度、政府を顚覆しようとした」
 ○松方正義
 「南洲翁は所謂英雄であり、大久保伊藤は所謂る経世家である」
 ○
内村鑑三
 「日本は昔から雄大さのない国であるが、西郷は余りに雄大でありすぎた」
 「維新史における西郷の役割を余さず書くことは、維新史の全体を書くこととなるであろう。
 ある意味に於て、明治元年の日本の維新は西郷の維新であったといいうると思う」
 ○
木戸孝允
 「その人となり、英雄にして無欲」
 ○
福沢諭吉
 「西郷が士族を重んずるは事実に疑いないといえども、ただその気風を愛重するのみにして、封建世禄の旧套に恋々たるものにあらず。西郷は決して自由改進を嫌うにあらず。真実に文明の精神を慕う者というべし。西郷は実に官員の敵なり、これを死地に陥れたのは政府なりと言わざるを得ず」
 ○
中江兆民(幸徳秋水『革命の鼓吹者』より)
 「先生(兆民)また海舟の談によって西郷南洲翁の風采を想望し、欽仰措かず、深く時を同じうせざるを恨みとせり・・・、若し翁をしてあらしめば、想ふに我をして其の材を仲ばすを得せしめならん。而して、今やなし、と語らる、此に至れば毎(つね)に感激に堪えざるものの如しなりき」
  B注:後述。
 ○
池辺吉十郎
 「独リ西郷南洲、雄才大略、威名一世ヲ蓋フ、今日、国家ノ大事ヲ担当スルニ足ルモノハ、唯、南洲翁アルノミ」
 ○『戦袍日記』(
熊本隊、松崎・高島見聞)
 「西郷大将、身体肥満、眼孔闊大、荘重ニシテ威風アリ、而シテ面貌温和、語辞穏静、礼遇最モ至ル。僕等二接スルヤ、大将双手ヲ地二着ケ、頭ヲ低ルコト頃刻、日ク某ハ西郷吉之助ナリ、今日ノ事、一ニ貴顕ヲ煩ハス、謝スル所ヲ知ラザルナリ」
  B注:宮崎八郎についてと共に、後述。
 ○
徳富蘇峰(猪一郎)
 「天を敬い人を愛し、貰くに純情を以てす、その功業の博大なる、思燥高邁、その徳風の普ねき、蓋し先生の右に出ずるものはあるまい」
 「艱難に居て天を恨みず、不遇に処して人を咎めず、人倫の常を踏んで厳、節の正を守って恪、而も情義の厚く麗しき、西南の大役、八千人の子弟を戦場の露と化し、郎党の間、尚、些の怨嗟を聞かず、却って神の如く敬慕せられる所以、神か聖か、崇高偉人なる超人的力がそこに存していなくはならぬ」
 「人の善に服する人、人の美点に服する人、これが南洲翁の一生に取って一つの大きな美点である」
 「春風人を頌ずる徳の人、常に大義名分、条理分明、正々堂々、ちゃんと正しき所の道を履んでいる。正しき道を、力を以て押しのけて行き、徹底して行くというのが西郷の本領であると思う」
 「諸君或は意外の感をなさるゝであろうが、南洲翁は、実に外交と云ふことに余程あかるい、案外文明人である」
 「ユーモアは西郷家の伝統であるが、特に南洲翁は、その文章でも分るが、人間的にはユーモアの極義といえる人」
 ○海音寺潮五郎
 「西郷の生涯の行蔵に照らし合せて考えると、敬天愛人は彼の天命にたいする自覚の哲学であり、南洲遺訓は、彼の革命家としての理想図を語り、それを、実現するにあたって革命家のあらねばならぬ心掛けと姿勢を語った書である」
 ○堀田庄三
 「私が住友銀行に入行できたのも、又、今日在るのも、私が、西郷翁の人柄を欽仰してその精神を恭謙してきたからであると思っている」
 ○奈良本辰也
 「西郷という人に会って話をすると、この人のためなら死んでもいいという気になったらしいですね、そういう魅力の人だったんですね」
 ○河原 宏
 「西郷の人格における清廉潔白、無欲恬淡の高風こそ、他の権勢家に求めてえられぬ徳望の根源であった」
 「民衆が西郷生存説(「西郷星」など)のなかにみようと欲したものは救世主へのイメージである」


 ★西郷を卑貶する叫喚


 西郷を生前に知る勝海舟のほか、石川啄木、徳富蘇峰、福池源一郎、尾崎行雄、北一輝ら多くの高士傑士が西郷を「近代高徳の巨人」「古今無双の英雄」としてその精神の高潔、宏量さを讃美している反面、次のような学識が西郷を批判し、あるいは罵倒していることを知らなくてはならない。 

 ○
重野安繹(薩摩藩閥歴史家。岩屋梓梁顕彰に反対して何度も西郷と論争した人物。後に東大教授時代に、多くの歴史的人物を抹殺して抹殺博士といわれた)
 「西郷は、学問の志はあったが、学問上で交際するという程の学者ではない」
 「西郷といふ人は一体大度量のある人物ではない、人は豪傑肌であるけれども度量が大きいとはいえない、謂はば度量は偏狭であった」
 「世間の人は大変度量の広い人のように思っているが、それは皮相の見で、矢張り、敵を持つ性質であった」
 ○蜷川 新
 「西郷は偉大なる権謀家であった。大胆不敵にして、而して大度であった。西郷は部下を籠蓋(いいくるめる)するの心術を超凡的に心得て居った。変に処して機変縦横の大略を有して居った。然し、西郷には、小栗(上野介)の如き、世界の大勢に順応する大観的意見のありしことを聞かない」
 「西郷は薩閥、強盗団の首魁であった」
 ○津田左右吉
 「冷静に観察すれば、西郷の行動には互に矛盾していることが多く、従って時によって変化もする。ただ一貫していたのは幕府を敵視してそれに反抗することであり、そうして、それを実現するためにはどんなことでもするを憚らなかったことである。虚言を吐いても術策を弄しても少しも意に介しなかった。この点では浪人輩の行動と同じである。要するに、明治時代の彼は依然たる維新前の彼ではなかった」として「西郷を慶応の功臣、明治の賊臣」と決めつけた。
 ○圭室諦成
 「打算的な薩摩藩は新しい担い手として西郷を起用した。然し、もともと視野のせまい彼のこと、このような新しい事態に処すべき理念を持ち合せていなかった」
 「西郷が、征韓論争の時、出兵せず、単に遣韓大使になることを主張したのは、単に表面上の名分を正しくしようと考えたに過ぎない」
 「西郷は、うかつにも、山県有朋の口車にのせられて徴兵令発布に賛成してしまった。徴兵令を阻止しえなかった西郷にたいする鹿児島士族の不平はごうごう、西郷はまったく窮地に陥った。かくして彼は鹿児島士族につきあげられて、征韓論に狂奔せざるを得ぬ立場におい込まれたのである」
 「一身をなげうって火つけ役を買い、日韓戦争のきっかけを作ろうという西郷の決意は悲壮である。しかしそれは大政治家のとるべき態度ではない」
「西南の役は、なんの必然性もない一種のクーデターである。秩禄公債条例を布いて武士階級の給与制度を改めて明治政府に対し、不満の薩摩下級武士からつきあげられて、西郷内閣の樹立をはかるべく、西南戦争を行ったのである」
 ○滝川政次郎
 「西郷は、乱世には有用な男だが、治世には有毒な存在であった」
 ○田中惣五郎
 「西郷は、いわば生一本の自然児的存在であった。この自然児的立場は、彼をして、資本主義的な新時代への理解をにぶらせ、二十八歳まで農民的な役付であったことゝからんで西郷を停滞させた。この農民的停滞はまたみずからの藩に固着する考え方を生み、全国的であるよりも、薩摩藩的であることに安住しがちであり、又、薩摩自体にそうした条件があった。彼の反動性は、このおくれたる立場に純粋に固着することから生れた」
 「西南役の際の西郷の心境は、多年の鬱屈と、漸次に近づく薩摩的特権の放棄に対する不快とが、此の子弟一万の動揺を前にして一時に爆発したのである」
 ○
井上 清
 「私人としてはきわめて高潔の人格的、敬天愛人の大西郷も、ついに人民の立場に立ちえなかったが故に、征韓論にはしり、無名の大乱をおこして人民を苦しめるものにならざるを得なかった」
「西郷の積極的な役割は江戸開城で終っている。晩年はお筆先みたいなことしか言っていない」


 ★西郷を欽慕する悲愁


 以上のような西郷批判のほか、国会図書館にある西郷関係書を披見された毛利敏彦氏の調査によると、明治以降、昭和四十六年までの西郷関係伝記二一七点、乃木希典一三四点、伊藤博文八三点、勝海舟五八点てあったそうであるが、野中敬吾氏(西郷関係書蒐集家)集輯西郷関係文献解題目録稿千四百点中の主要書を粗読してみても、西郷生涯の隠された行動と思想、心情を正しく誌して、人をして、確然と理解させ納得さるうる書はないと私は断言できる。

 だから私たちは、西郷を、不可解な謎の人物としながら、しかもなお欽慕、悲愁している次のような人々の見解を改めて省みる必要があるのである。

 ○紀田順一郎
 「ほぼ百年を閲して、いまなお評価の審ならぬ西郷のような人物は稀である。今日、西郷評価はなおゆれている、というより、国民が一つの歴史をもっていないという意味で、彼に対する評価が分断されているのである」
 ○橋川文三
 「西郷はもっぱらその後の日本の大陸侵略思想をインスパイアした最大の源流であり、同時にまた右翼的ファナチシズムの模範であった」
 「西郷は日本近代化史上に於ける最も問題的な人物の一人である」
 「強烈な人間的魅力と徳性の象徴としての西郷を讃美する一方、封建反動と軍事膨張主義のシンボルとして彼を見る考方が西南役当時からある。こうした二つの見方があるということは、いうまでもなく、近代日本人の精神史における非常に大きな亀裂の所在を示している。そして、その亀裂がうすめられるためには、或は内村鑑三のいうように、今後なお百年をまたなければならないかもしれない。ただ一言だけ指摘しておくならば、その後、韓国をあのように併合し、さらに中国にあのような侵略を行なったものは、西郷ではなく、まさに、西郷が否定しようとした日本国家にほかならなかったという簡単な事実である」
 ○
毛利敏彦
 「西郷の生涯はまだ十分解明されているとはとうてい言い難い。なによりも、西郷その人の思想と行動を、既成観念を脱して正確に理解することが必要である。そのためには、まず、西郷自身の文章を、その書かれた意図と情況とを念頭におきつゝ虚心に検討することから着手すべきであ ろう。虚像ではなく、真の西郷研究は、死後百年にして始まったというべきではなかろうか」として「明治六年十月の参議政争は、征韓可否に関する所謂征韓論争ではなかったのである」と論断されている。

 では、西郷隆盛とはいかなる人物だったのだろうか。筆者は本書で、西郷とその家筋に関する驚倒すべき重大な秘密を説くことによって、読者の皆さんに、本当の西郷像を理解していただくつもりであるが、内村鑑三、司馬遼太郎、池波正太郎、松浦玲、徳富蘇峰氏の「西郷の心中には、我々が知らない、知り得なかった心情的な何かがあったと思はれる」という見解は、その最も肯綮を突き得る可能性を秘めたものとして無視することはできないのである。

 ○
内村鑑三 「西郷は、その心のなかに、自分と全宇宙より更に偉大なる【者】を見出し、その【者】と秘密の会話を交はしつゝあったと余は信ずる」
 ○司馬遼太郎
 「西郷とは何物なのであろう。垣根を過ぎゆく西郷の影をすこしでも見たいと思っているが、いまかれの片影を見て察するとすれば、かれには、どうにもならぬ神聖なものがあったらしいということである」
 ○
池波正太郎
 「西郷の人生をふり返ってみると、いよいよ、彼の腹中に存在し、彼自身が洩れあかすことのなかった巨大、複雑な数多の〈秘事〉の深淵をのぞき見るおもいがした。この〈秘事〉が判然するなら、維新動乱と明治新政府発足に至る〈歴史〉には、思いもかけなかった〈事実〉が浮び上がってくるのであろうが・・・。然し、西郷は、これを語り残すことなく世を去った」
 ○
松浦 玲
 「腐敗堕落した大久保であった・・・。西南戦争は、いろんな要素が混在していていちがいには定義しがたいけれども、そういう大久保専制に対する正面からの糾弾という一面を(西郷が)もったことはまぎれもない。しかし、その最後の闘いも西郷流であった。あらゆる術策を弄してでも勝とうとは思っていない。百年の後に【正道】が受けつがれればよいと、はるかな将来に望みを託したのであろう。果して百年目、西郷評価の気運は濃いが、それは今の政治のどこにつながっていくのであろう」
 


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