カウンター 読書日記 ●『岩屋天狗と千年王国』(3) 【上巻】第一章
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●『岩屋天狗と千年王国』(3) 【上巻】第一章
 【上巻】

●第一章 明治維新の裏面に暗躍した謀略集団真方衆  


 ■史料の根拠


 「西郷征韓論がなかったなんて、そんな馬鹿なことがあるかっ」
 「易断政府って何だ? そんな政府があったなんて聞いたこともない」
と、大方の皆さんは反問されるだろうから、まず、そのことが誌されている『かたいぐち記』と『異端記』なる史料の根拠を説明しておきたい。

 ★錦の切れ端、真方衆
 
 私(窪田)の家系は、故郷の鹿児島県伊集院では、窪田部落なる山塞様の台地に幡踞してきて、代々「真方衆」(まがたんし)とか「錦の切れ端」などと呼ばれ、戦前までは(*編註1)、その剽悍さは「真方衆が吼ゆっ」とか「窪田ん衆が血ん荒らさ」などと畏敬されて、一族の富権者豪族意識は、おのずから、他の人々から一種違った目で見られてきた。
 *編註1:私家版『西郷征韓論は歴史の虚構』では、「明治末までは」とある。

 系図によれば、真方衆は、吉野南朝派大伴系肝付兼重の分流で、日向真方院(現在の宮崎県小林市、本拠は真方城)領主だった北原茂兼が、叔父・北原兼珍の圧服をうけて昌寿寺に逼塞しているのを見かねた守護・島津忠昌と、その家宰・橋口兼道(弥次郎こと僧・岩屋梓梁の父)の請いにより、延徳三年(1491)、曹洞宗妙円寺住職(初め覚文、後に第九代住職・茂岩慶繁)として一族真方衆を率いて伊集院に移り住んだときに始まる。

 窪田の性は、島津勢力圈のど真ん中たる伊集院の地において、肝付系北原の姓を名乗ることを許されなかったため、母の窪田氏(真方院窪田村領主)を称したからである。

 伊集院にあったこの窪田一族は、やがて、弥次郎と伊集院家に付いて島津に反抗したため、大部分は四散するに至ったのであるが、現在の真方衆・窪田家は、織豊時代の末期、京畿方面で活躍した後奈良天皇の血を享けた曽孫、易断衆御大将・窪田隼人正兼相(幼名・岩見重太郎、従来史は窪田を薄田と歪曲した)が大坂夏の陣(1615)で戦死後、その子・兼祐(後に兼重)を、徳川と島津が協議して伊集院へ移して伊集院窪田家を再興させたときに始まる。

 この系は、当時「後ん窪田」といわれたそうであるが、京畿時代以来、易断党の全国隠密網を把握していたため、島津によって、その高等隠密集団として、主として政治謀略に携わってきた。
 
 ★発端は稲羽姫の織田信長刺殺
 
 真方衆は、徳川三百年間、代々「窪田幕府になるはずだった」という執念に燃えてきたが、その心理的契機となったものは、本能寺における真方衆稲羽姫による織田信長刺殺であった。

 天正十年(1582)五月二十七日夜、参籠を口実として、京都愛宕権現に参集した易断衆残党首脳会談(註)における神盟誓約に基づいて、正親町天皇の皇子・誠仁親王の密旨をうけた真方衆御大将・窪田稲羽姫が、六月一日夜、本能寺で行なわれた、茶器披露を口実とした茶会において、身を賭して信長を刺殺して以来、真方衆は、三百年にわたり、徳川幕府覆滅とその偽造史の実態糾明という凄まじい執念に燃えてきた。

 永禄六年(1563)の三河の易断一揆(現在、三河の一向一揆として歪称されている)以後、家康の家臣団として活躍してきた遠駿三武士団に代って、本多、大久保、酒井、榊原、井伊、山口ら薩摩系三河易断党武士団が、雌伏二十年後の天正十年以後家康の幕僚家臣団として実権を握るに至った原因は、実に、信長を本能寺に討った愛宕権現謀議実現の功績を買われたからなのである。

 慶長五年(1600)、関ケ原役で天下を取った家康がまだ健在な慶長十年、十万の大軍を京へ送って、第二代将軍として秀忠を就位させたのは、実に、愛宕権現誓約を家康が裏切ったことに対する全国易断党衆の反抗を慴伏せしめることに狙いがあったのである。

 家康が、誰を第二代将軍につけるかについて多くの重臣に謀った結果、本多正信の意見によって秀忠に決した理由は、秀忠が、家康と薩摩系易断衆西郷於愛(後の西郷局)との間に生まれた子だったからである。岩屋梓梁と易断政府の存在を抹殺することを意図していた家康としてはヽ島津と薩摩易断党系武将団の意見を無視することはできなかったのである。

 〔註〕愛宕山易断残党首脳会談
  稲羽姫の指令によって、明智光秀、斎藤利三、本多正信、酒井忠尚、大久保忠隣、大久保長安、本多正勝、鳥居元忠、水野忠重、里村紹巴、茶屋清延、穴山梅雪らが愛宕権現に会して、斎藤利三が指揮する易断衆二千が本能寺を包囲している間に、茶会の席で信長に謁した稲羽姫が飛燕一閃して信長を刺す。翌早朝、京へ進撃した明智軍は、徳川軍が三河から上洛するまでに京洛を制覇する。明智、徳川軍は相協力して豊臣軍を破る(その地点をいろいろ想定した)。将軍位についた家康は、可及的速やかに、第二代将軍位を稲羽姫の子・窪田正兼相に譲る、といった政戦略を神盟誓約した。
 
 ★西郷が感銘した真方衆の謀略
 
 徳川幕府覆滅とその偽造史料明に奔命してきた真方衆は、天保十年(1839)の大塩平八郎の乱に関連して、西郷吉之助少年が新田八幡山(可愛(えの)山陵、現川内市内)の北半を焼失するという大事件を起こして以来、将来、西郷少年を岩屋梓梁と易断政府の存在を顕彰することができる大器たる人物とみて特別な訓薫をしてきたが、このとき以来の真方衆の教戒によって、西郷が感銘した幕末における真方衆謀略には次のごときがあった。

 ○将軍家治世子の家基暗殺事件-現在田沼意次が暗殺させたと疑われている事件。
 ○光格天皇擁立事件-光格天皇は典仁親王第六子・兼仁、生母・橘氏岩室磐代は真方衆窪田独鈷斎の子。
 ○近思録崩れ事件-薩摩藩内における歴史編纂に関連した思想政策抗争。
 ○宮一揆-文化年代、江戸で起きた騒乱。宮騒ぎ、易断一揆ともいわれた。
 ○大塩平八郎の乱-易断衆大筒師・窪田小太郎の策謀による大塩平八郎の決起。
 ○西郷隆盛決起事件-西郷をして、朝鮮使節たらんことを決意せしめ、また、西南戦争勃発の因を策謀した事件。
 
 ★島津も徳川も手がつけられなかった勁悍真方衆の行蔵
 
 このような大事件を謀略しながら、なぜ、島津は真方衆を廃滅しなかったのだろうか。それは実に真方衆が「易断政府とそれを樹立した岩屋梓梁(弥次郎)抹殺」という徳川幕府の重大な秘密を握っているため、真方衆は、島津にとっては、いつまでも、徳川を脅迫することに利用することができる切り札的な存在だったからなのである。

 幕府が薩摩藩に対して腫れ物にさわるような気遣いをしてきたことは、家康が、生前「やがて徳川を倒す元凶は薩摩に姶まらん」と憂愁し、死体は西面することを遺言したと伝えられ、また、勝海舟が「幕府は薩摩藩に対してはつねに格別の配慮をしてきた」と言明し、徳富蘇峰が「徳川氏は島津氏を腫れ物扱いにして却て其の自治に一任した姿があった」「徳川と島津は、謂はば両方から怨を匿して友として居った」と誌していることなどからもわかるのである。

 島津が、真方衆が往古以来集めている古文書や記録などを隠匿していることを知っていながら、あえてそれを追及しなかったのは、追及すれば、真方衆が離反して隠密組織を解体して所在不明となるからであった。

 真方衆が融通無碍、間遠自在に活躍する全国的隠密組織は、島津にとっても手の及ばない、いわば法外の存在だったのである。
  
 ★歴史から抹殺された易断政府と岩屋梓梁の存在
  
 岩屋梓梁こと弥次郎は、明応六年(1497)正月、薩摩国伊集院神殿に生まれ、俗称・橋口弥次郎左衛門兼清、憎名を岩屋梓梁といったが、背高十尺、容貌魁偉、頭上右鬂(びん)に三寸ほどの高さの肉腫(角)がおっ立っていたため、当時の民衆から「岩屋大天狗」「鼻天狗」「岩殿(いわどん)」「ヤジローどん」「金精様」「金屋様」「たたらぼっち様」など多くの呼称で畏敬された。

 岩屋梓梁は永正四年(1507)以来、十数回渡鮮して多くの書をなして弥勒天徳教(後の天道教)を説き、仏教の再興、韓語(ハングル)の創出、易占(ムーダン、タンゴル、ジンバン)の普及など、想像を絶する多元的な文化興隆を図り、天文十三年(1544)には自分と朝鮮王女・玉珥(ギョクジ・ニ?)との間に生まれた清茂を王(仁宗)に擁立するなど多くの事績を遺した。

 岩屋梓梁は、朝鮮を支配した余勢を駆って、薩摩人の武力と朝鮮人の文化、経済力を駆使して、永正年代末期(1520年代)、時の室町幕府を衰頽せしめ、大永年代(1520年代)、『日本紀』(『日本書紀』)の編纂、『古事記』の自記、その他多くの古典を書いて易断政治の思想的根拠を固め、北はアイヌ族から南は琉球の果てに至るまで、神仏習合、祭政一致の易断教団政府を樹立し、また、武田信玄、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康ら多くの英傑を子として残した。

 天文十七年、弥次郎は、西方浄土を求めて、中国、天山山脈、タクラマカン砂漠、中東経由で地中海に達し、印度のゴアから切支丹宣教師フランシスコ・ザビエルを天文十八年八月十五日鹿児島に案内してきたが、二人は同二十年秋、山口において、仏教と切支丹の宗教論争をして、終局的には、弥次郎が説く地動説の前にザビエルは敗退して印度へ帰ってしまったのである。

 ところが、ザビエルが宗論において敗退したことに復讐すべき執念をもって、永禄六年(1563)に来日した宣教師ルイス・フロイスらは織田信長をそそのかし、多くの武器、弾薬(硝石)、商船艦隊を提供して、それまで六十年続いてきた大阪石姫(いわひめ)山に籠もる易断政府(現在、石山本願寺の一向一揆として歪曲されている)を討滅せしめ、あまつさえ、信長、秀吉、家康らに「蕃異人・岩屋梓梁が日本で天下を取った(易断政府)ということは日本国永遠の汚辱だ」 「日本歴史は波斯人(アラブ人)が書いたものだ」 「天皇に反逆した岩屋天狗は歴史から抹殺すべきだ」などと高言追及して、ついに武将たちをして、岩屋梓梁と易断政府の存在を歴史から抹殺せしめるに至ったのである。とくに、秀吉と家康は、自らが取った天下の政権を子々孫々に永久に保持するためには、自分が、反逆者蕃異人の子であるという血の汚辱を歴史から隠蔽する必要があるとしたからである。

 岩屋梓梁と易断政府の存在を歴史から抹殺するという政治工作の発端は、天正十五年(1587)六月十九日、秀吉が博多において発令した「宣教師追放」と「岩屋梓梁抹殺令」に始まり、以後、易断政府に参画して政治を執行してきた神官、僧侶、惣、座、学問芸能などの支配者群の人々を、
全国の特殊地域に「易断党」と称して隔離、幽閉して痛めつけ、その歴史、記録、伝承をはじめ、人々の心からその存在を消滅せしめんとしてきたのである。

 明治維新時に、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌、山本権兵衛ら多くの英傑を生んだ鹿児島の鍛冶屋郷(現加冶屋町)もそういう特殊地域の一つで、鍛冶屋郷中士は、易断政府時代に、弥次郎を慕って全国から集まった易断精鋭分子の子孫だったのである。

 しかし、全国に散在した大多数の易新党衆は、当時ユタ、ユッタと卑称された。今も、奄美、琉球の南西諸島に実在しているユタ(巫女、その関係者の実数は約二千名とされている)はその名残であり、東北地方のイタコもユタを歪称(訛称)したものである。薩摩西郷家のユタノン、ユタモンなる家筋もその語源は「易断者」であり、琉球士族のユカッチュなる呼称もその語源は「易断衆」なのである。
 
 ★『かたいぐち記』と『異端記』
 
 『かたいぐち記』は島津藩主直属の格式下にあった真方衆が、徳川三百年間、その全国隠密網を動員した調査と島津藩学者が谷山清泉寺(現鹿児島市南郊)において密かに行なってきた参学会(参禅を口実とした岩屋梓梁研究発表会)から盗聴してきたものを代々の真方衆が記録してきたもので、「かたいぐち」とは、鹿児島方言の「代りばんこ」という意味か「語口」という意のいずれかであると思われるが、筆者の推定では前者の意と思う。
  
 『かたいぐち記』は単に真方衆の記録だけではなく、往古以来、伊集院家、妙円寺に格納されてきた、筆者も理解できないような断簡零墨などの古資料を含んでいる。

『異端記』は、岩屋梓梁がはじめて薩摩(伊集院鶯宿)に京式茶道を伝えさせた伊丹家に伝わった記録で、異端の意は「伊丹」からもじったものであるが、むしろ、島津に対する異端の意を誌したもので、『かたいぐち記』とともに、明治初期まで記録は続き、最終記録者は筆者の祖父(母方)伊丹松雄(元陸軍中将)となっている。

 以下、「易断史料」または単に「史料」とあるのは『かたいぐち記』と『異端記』をさし、「従来史」とあるのは、従来の日本史一般を総称して誌したものであることをご了承願いたい。
  
  ●『岩屋天狗と千年王国』(4)へ  続く。
  
 
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