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●『岩屋天狗と千年王国』(1) 前書き
●まえがき(上巻 p1~4)  

 「ヤジロウ」、この語の響きに読者は何を感じとられるであろうか。
 本書は去る昭和五十九年四月一日に世を去った一世の奇人、窪田志一翁が記した「ヤジロウ」の存在と、その抹殺をめぐる数奇な物語を集大成したものである。
 もちろん、著者はこれを“物語”ではなく、確固たる歴史的事実として主張したのであるが、現行の史学の体系とは余りにも異質であり、本書に述べられていることを素朴実在論的な意味における歴史上の”事実”として額面どおりに受け止めることは、大方の読者にとっては、はなはだ困難であることは想像に難くない。
 しかし、著者の所説が、しばしば出民、海民などにまつわるアザー・ワールドリーな民俗伝承とリンクしている点は注目される必要があろう。鬼や天狗の伝承が鉱山師、鍛冶師などの信仰と関連していることは、谷川健一、若尾五雄などの研究を通して知悉されているが、本書における「ヤジロウ」もまた、伊豆半島では鍛冶祖神の性格を帯びて出現している。また、水死者の怨言が化するという船幽霊、海坊主などの伝承と「ヤジロウ」の最期の姿は容易にそのイメージが重合しうるのである。
 さらに、井上鋭夫によると、原始真宗教団は鉱山労働者をオルガナイザーとしており、その機動力が一向一揆の中核となったとされている。井上は、親鸞が太子信仰と弥勒信仰を阿弥陀仏信仰の下に習合せしめたとするが、「タイシ」あるいは「ミロク」と言われる信仰対象は山の民の間にしばしば見られるものである。「ヤジロウ」が、聖徳太子や弥勒菩薩の名で伝承される一方で、その信奉者たちが一向一揆を組織したとする著者の所説はその点でも興味深いのである。
 そして本書において、折口信夫によっても示唆されながら、歴史学上、不分明のものとされている倭寇の活動と琉球王統交替の関連というテーマが展開されていることは、ある意味では現行の史学において対象にされえない領域に、特異な視点からアプローチしたものとして特筆すべきであろう。
 また、著者の諸説の基底を成す構造が、曰本における千年王国思想としての常世信仰ともオーバー・ラップしていると思われる点も興味深い。
 本書の背景には、「ときじくのかぐの木の実」としての柚子があり、薩菩聖、クシバ聖、真穂梁夢などの奇妙な異邦人たちの姿も現出する。そして、その周囲では一種の千年王国運動として再解釈された倭寇の活躍、南朝の興亡、カトリックと鉄砲の伝来、一向一揆、西南戦争などの歴史的事件が展開しているのである。

 これは日本史の彼方に設定されたユートピアの風景であり、時空を凝縮した「ヤジロウ・マンダラ」の投影に他ならない。
 しかし一方で、その曼荼羅の第一院に位置すべき神的観念の象徴たる「ヤジロウ」は、絶対年代を規定された人格的存在であり、その異様な姿を捕縛されて投海されたというキッチュな情景すら展開される。

 その点では、本書の表現は、鬼面人を驚かす体の単なる怪奇譚、あるいは伝奇ロマンの一変種と見られても仕方のない性格のものと言えないこともない。
 だが、この《ヤジロウ・コンスピラシー》とでもいうべき錯綜したストーリに奇妙なリアリティーが感じられるのは編者だけの思い込みであろうか。著者の所説には一般の歴史学的手法では把握しきれないであろう我々の民族の奥深い部分に眠っていた記憶や情念の一断面が反映しているように編者には思われるのである。それが、一人の特異な人物の精神に感応し、干渉し、そして表現された結果が、本書に収録された諸論稿と言えるのではあるまいか。

 いずれにしろ本書は、一面においては特異な史書であり、また、ある一面においては地霊の黙示を告げる預言書でもある。そのような様々な解釈を許す点においても本書は、異彩を放っているのである。本書をどのように解読するかは、読者の自由である。

 もとより窪田翁が、その所説の根拠として示した『異端記』『かたいぐち記』などの易断史料の実在性や、「真方衆」なる集団の歴史的性格に関しては未だすべてが闇に包まれているといっても過言ではなく、我々も十分な検討を成しうる状況にはない。
 しかしながら、それらが歴史的に位置付けられるべき座標はたとえ不明確であっても本書の価値は、いささかも減ずるものではないであろう。本書に語られているものは実証的史学の範疇を超越した神的投影の飛翔だからである。

 本書を今は亡き著者の霊に捧げ、潮の匂いと千年王国のロマンを諸賢の机上にもたらしたく願うものである。

 昭和六十二年二月十六日
 岩屋梓梁顕彰会 


 ●まえがき <了> 

 ●目次 へ続く。                     
 

 
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