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●『出口王仁三郎 入蒙秘話』
 ●『出口王仁三郎 入蒙秘話』 出口和明 みいづ舎 平成17年刊 

 P47~(*適宜要約)。

 ・・・
 では清吉の死は(戦死ではなく)病死だろうか。ここに綾部町役場に残された出□清吉に関する記録がある。

 出生 明治5年6月6日
 入営 明治25年12月21日
 所属 近衛歩兵第一連隊第二中隊
 階級 歩兵一等卒
 負傷入院地 台湾病院
 死没 台湾病院にて 明治28年7月7日
 葬儀 明治28年8月27日
 扶助料及特別下賜金 下賜あり。扶助料は年30円、大正7年の出口直帰幽まで支給を受く
 住所 京都府何鹿郡大字本宮村東四つ辻二の二

 これによると、清吉は戦地で負傷して台湾病院に入院、七夕祭の7月7日に死んでいる。(ことになっている。)単なる病死ではないのだ。そしていぶかしいのは、死亡日の食い違いである。戸籍では8月18日死亡であり、出口家祖霊名簿では8月16日の死亡になっている。まったく清吉の死は謎だらけではないか。(前記のように、町役場の記録では、葬儀は8月27日になっているが、その時点では直は清吉の死を知らされていないから、葬儀を行なうはずはない。また戦死の通知があった後も、☆直は神の言を信じて清吉生存を信じていたから、葬儀をするとは思われない。恐らく出口家とは関係なく、軍隊によってなされたのであろう。)

 ☆直が生存を信じたのも当然だった。直が神にうかがうと、きまったように「清吉は死んではおらんぞよ」という答えがはね返ってくるからである。

 ○「清吉は死んでおらぬぞよ。神が借りておるぞよ。清吉殿とお直殿がこの世のはじまりの世界の鏡」(明治30年正月7日)

 ○「他ではいはれぬが、出口清吉は死んでおらんぞよ。人民に申してもまことにいたさねど、清吉は死なしてはないぞよ。今度お役に立てねばならんから、死んでおらんぞよ」(明治32年旧8月10日)

 ○「出口清吉を日の出神と神界からは命名いただきて、今度の大望について出口清吉と三千世界の手柄いたさして、日の出神と現われて、親子二人を地にいたして、昔からの因縁を説いて聞かしたならば、変性男子と女子の因縁が解かるぞよ。・・・略・・・出口直、出口清吉、上田鬼三郎、出口澄、もな因縁ある身魂であるぞよ。」(明治33年7月25日)

 著者・出口和明は、「何故清吉の生死がの重要なのか」というと「清吉の御霊」と「日の出神」との連環が筆先で告げられているからである、という。

 事実、この「筆先」は後に教団内に様々な【風雨】を巻き起こすこととなる。

 【風雨】の最大のものは、昭和6~7年(1931~2)にかけて、日出麿(大本三代教主・出口直日の夫(婿)、旧姓は高見元男)を担いだ「王仁三郎追放運動」ともいうべきもので、運動主体は二代教主・出口澄-出口直日-日出麿であった。(*澄は戦後この運動について自己批判することになる。)

 それはともかく、清吉死亡の通知が届いた当時の大本は、「世間から気違い集団のように見られていた。」 役員・信者たちの期待は「死んではおらぬ」はずの<清吉=日の出神>が「今にも外国から大手柄を立てて帰って来る、そのときこそ、輝かしい日の出神の守護の世になる」という期待だった。

 *************


 『出口王仁三郎 入蒙秘話』の当該章に戻る。


 ★二、北清事変と王文泰 p89~


 では、なぜ王仁三郎は王文泰と名乗り、わざわざ名刺まで作って入蒙したか。単に偶然ではないことは明らかだ。なぜなら、王仁三郎の歌集『青嵐』にこういう歌があるからだ。

 日本人王文泰の仮名にて皇軍のため偉勲をたてたり
 王文泰は日清戦争のそのみぎり台湾島に出征せしといふ
 かくれたる北清事変の殊勲者は王文泰と新聞にしるせり
 王文泰の英名聞きて我はただ異様な神機にうたれたりける

 北清事変の時、王文泰が活躍したということが新聞にも載り、その記事を見て王仁三郎は異様な神機にうたれたのだ。出口澄も『おさながたり』で「王文泰という人は北清事変の時に日本の新聞にも載った人で、先生もその時の新聞で王文泰のことを読まれたときハッと感じておられたそうです」と語っている。

 北清事変とは・・・略・・・。


 ★三、京都日出新聞


 さて、話は『大地の母』(旧毎日新聞社版)執筆当時に戻る。
昭和46(1971)年1月28日、『大地の母』の文献調査を担当していたYが京都府立総合資料館に行くと、大本教学研鑽所のKとAにぱったり出合った。彼らは朝から王文泰の記泰が掲載されている新聞の調査に来ていたが、いくら探しても発見できず、むなしく引揚げるところだった。

 彼らと別れた直後、Yが何げなく取り上げた新聞が『京都日出新聞』である。特別の目的もなくぱらぱらとめくっていると、突然「王文泰」の三文字がYの目に飛び込んできた。再び読み直して間違いないことを確認すると、急に涙がこみ上げ、体が震えて止まらなくなった。

 Yは帰って来て、私に熱っぽい口調で報告した。
 「私が震えたのは、発見したというだけの歓びじゃない。私の心の中に、出口聖師に対する疑いが頭をもたげてどうしようもなかったんです。王文泰の記事については、私も今までさんざん調べました。『大本七十年史』でも調べたでしょうし、げんに今日だって大本研鑽所で調べて発見できなかった。北清事変のあった明治33年に聖師の読みうる新聞は限られているはずです。これだけ手をつくしてそれでも発見できぬとなると、新聞記事の存在そのもの、さらには王文泰や蘿龍の存在そのものまで疑わしい。

 もしかすると、聖師は嘘つきではないかと、聖師の人格まで否定したくなっていました。だから新聞記事を発見した時に体が震えたのは、ああ、聖師はやっぱり本当のことをおっしゃっていたという喜びでした。そして聖師がかつて読まれた同じ記事を71年後に自分が読んでいるかと思うと、涙が出て、涙が出て」

 この記事は『日出新聞』明治33年8月13日(日曜日)付二面である。『日出新聞』とは古い伝統を持つ京都の有力地元新聞で、昭和17年に『京都日日新聞』と合併して『京都新聞』となっている。当然、王仁三郎は『日出新聞』に目を通したことであろう。

 地元新聞だから、誰もが真先に『日出新聞』を調査したはずだ。にもかかわらず発見できなかったのは、その記事、特に見出しの扱いに問題があったと思われる。つまり、王文泰と仮名する日本人が北清事変で偉勲をたてたといえば、誰しも派手な扱いを想像するのが当たり前だが、実際は地味すぎるぐらいの扱いだ。前頁に掲載の写真(略す)を見ると、中段の左から2行目に『軍事探偵王文泰』と小さくあるだけだ。見出しも本文と同じ5号活字で、発見できたのは全くの偶然と言っていいだろう。

 次に記事の全文を転載しておこう。


 ★四、王文泰の記事


 「去る十日太沽(ターチー)より入港の朝顔丸にて帰朝せし従軍者・某語って曰く。
 軍事探偵王文泰のことは既に内地に伝はっても居ましょうが、丁度天津城陥洛後の事でした。私が居留地の或処に行きましたら、三十才前後の元気のよい一人のチャンが巧みに日本語を遣って切り(しきり)に話をしていました。
 其の話し振りの上手なことは内国人でも叶わぬ程ですから、彼人(あれ)は何だと某処等の人に尋ねたところが、彼人こそ軍事探偵王文泰よと答えた。某処で私は直ぐ名刺を取り次いで貰って面会して話をしましたが、至って快濶な人で、十数年来南清から北清と四百余州を
股にかけて跋渉したもので、清国内地の状況や言語には余程精通し、服装言語の如きも丸で支那人としか見られないので、歩き様に至るまで支那人其儘であるから、誰が見ても支那人に違いはない。

 其筈です。支那人すらも他国の人だとは見分けをしないといふことです。辨髪や清装したのは内地人に多くありますが、歩き様から體のこなしにいたるまで支那人其儘を真似するものは有りません。

 本名は云えぬが
何でも土佐人といふ事で、其の他の事は憚る処があるので、唯だ王文泰とは世を忍ぶ仮の名であるといふことだけに御承知を願って置きます。

 此人は以前余程の無頼漢であったそうですが、斯る人であったから支那内地の跋渉も出来たのでしょう。太沽砲台から白河沿岸及天津城の偵察を遂げて、連合軍に少なからざる利益を与へたのは此非戦闘員の王文泰です。軍事探偵には
斯の王文泰に譲らない人がもう一人居りますが、今頃は二人とも進発して居るさうです。

 処が今回の軍事探偵は外国人では出来ないので、是非とも日本人に依らなければならぬゆゑ、列国軍は此点に於て困難を感ずるのであるから、王文泰に対しては列国共大いに報ゆる処があって宜からう云々」


 ★五、王文泰は清吉か


 この記事で見る限り、王文泰が清吉であるという確証はない。「年の頃30前後」とあるが、清吉が生きていれば29才だから、この点は符号する。「快濶な人」というのも清吉の性格であり、支那を舞台の大活躍も暴れん坊の清吉にふさわしいと思える。また、支那人そっくりに化けているのも、艮の金神の真似をして直を驚かした清吉のことだから、それぐらいの芝居けはあったろう。

 反対に「十数年来南清から北清と四百余州を股にかけて跋渉した」というのは、もし清吉なら数年のはずで、別人を指摘しているかのようだ。だがこの記事は従軍者・某からのまた聞きで、記者本人が直接聞いたわけではないから、伝え間違いや誇張もあるだろう。だから、この記事を全面的に信ずるわけにもいかない。むしろ王文泰はスパイだから、わざと虚偽の告白をしたと考える方が自然であり、土佐の生まれというのも、おそらく身元を隠すための嘘の言葉と思われる。

 いずれにしても、王仁三郎はこれだけの記事を見て、「異様な神機に打たれ」王文泰こそ出口清吉なりと看破し、20数年後の入蒙にあたって、わざわざ王文泰と名のり、名刺まで作って満蒙百里の荒野を訪ねるのだ。すごい霊感というほかはない。

 それにしても、日の出神とされる清吉の手がかりになる記事が『京都日出新聞』に掲載されたというのも、何やら暗示的である。


 ★六、清吉の遺骨の謎


 馬賊・王文泰の前身が軍事探偵であったということは、この記事の発見によって初めて明らかになり、私は、今までの謎が一挙に解けた思いがした。

 戦時中日本の軍人が捕虜になると、軍隊は留守家族に戦死の通告をしたという。帝国軍人たるものは、捕囚の辱めを受けるべきでないということだろう。必要とあれば軍隊は平気で人を戸籍から抹消する時代である。清吉は軍隊によって、無理に死んだことにさせられたのではなかったか。

 清吉は暴れん坊で機転のきく人だったから、軍事探偵にはもってこいだ。清吉を第一線の軍事探偵として中国人に仕上げるために、軍隊はまず身元を消し去る必要があった。清吉が死んだということにしておかねば、因縁をつける鹿蔵ということで「因鹿」と綽名される大槻鹿蔵のことだから、当局にやいのやいのとしつこく迫ったことだろう。

 澄の『おさながたり』には、次のように述べられている。
 「清吉兄さんはそれから台湾に征って戦死したことになっています。そのころの近衛兵は赤い帽子をかぶっていたそうで、その当時、支那兵から赤帽隊と呼ばれていたものだそうです。清吉兄さんは金神様のお働きであると聞いておりましたが、戦争中にいろいろ不思議なことが現われましたそうです。また日の出の御守護といわれておりましたことも、思いあたるような働きを示したということをきいております。

 戦争がすみましても清吉兄さんは婦ってきませんでした。教祖様は神様にお伺いされ何か深く考えこんでいられました。
  (中略)
 筆先では「死んでいない」と神様が申され、その解釈についていろいろのことを聞かされましたが、その時の兄の戦友にききますと、戦死したという人はなく、ある人は隊から抜け出して支那の方面へ行ったとも言い、ある人は、兄が海に身を投げたのを見たと言って色々様々で、今もって兄が戦死したかどうかは不明のままであります。しばらくして戦死の公報が家に届きましたが、遺骨もなく、たった一冊の手帳が送られてきまして、これで戦死したということになっていたのです」

 清吉は、「戦争中にいろいろ不思議なことが現われましたそうです」とあるから近衛師団でも目立った存在だったであろう。軍事探偵の候補として白羽の矢が立ったことは、十分に推測できる。

 この中で「遺骨もなく」とあるが、先に引用の筆先には「この方から西町大槻鹿蔵が骨折りて手紙をやりたり、色々としよりたら、『死んだ』と申して、『骨を取りにこい』と申して、『福知山の陸軍へ取りにこい』と申してありて、・・・」とあるから、澄は遺骨が返された事実を知らなかったのであろう。当時、澄はわずか数え13才の少女だし、当時は私市へ奉公中で綾部には居ない、知らなかったとしても無理はない。

  続く。 
 
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