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●『いり豆の花』 出口和明(やすあき)
 ●『いり豆の花』 出口和明(やすあき) 八幡書店 1995年7月 
 

 第七篇 金光時代 第二章 艮の金神うそぬかした

 ★嘘ぬかした p442 


 「忠兵衛の家におる折に、人が清吉は死んだげなと申すなり、天朝からは何の沙汰も無きことなり、ことに近衛にいておりて死んだ話はあれど役場からも何の話もなきことなり、こちらから西町・大槻鹿蔵(*直の長女米の夫)が骨おりて手紙をやりたりいろいろとしよりたら、死んだと申して、骨を取りに来いと申して、福知山の陸軍へ取りに来いと申して沙汰がありて、あおやすの婆が桐村清兵衛の家まで参りて、その折は出口も怒りて、『こら、艮の金神、嘘ぬかした』と申して、『もう、言うことは聞いてやらん』と申したなれど、そこには子細のあることざ。そうは申しても、同じようにご用聞いてくれて、物事出来がいたしたぞよ」(明治35・旧9・28)

 「清吉は死んでおらんぞよ。神が借りておるぞよ。清吉殿とお直殿がこの世のはじまりの世界の鏡」(明治30・旧正・5)

 まだ西村忠兵衛の家にいる頃、「清吉はんが死んだげな」という出所不明の噂が流れた。だが直が腹の中の神に伺うと、「死んでおらぬぞよ」というきっぱりした答えが返ってくる。直は安心していた。

 大槻鹿蔵は清吉を愛しており、何回も手紙で問い合わせたりして、噂の真偽を知ろうとした。出口澄の『おさながたり』は述べる。
「今盛屋の大槻鹿蔵は悪党でありましたが、清吉兄さんを子供のように可愛いがっていたので、清吉兄さんと一緒に征った人が帰ってきても清吉兄さんが帰って来んのに業を煮やして、綾部の町役場へ『どうしてくれるんだい』と言って怒鳴りこんでいきました。役場から軍隊へ問い合せると、清吉兄さんの入っていた隊の者に戦死者は1人もないとの回答がきました。しかしそれから半年立ち1年立っても(ママ)、清吉兄さんは帰ってこられませんでした」

 だが突然、役場から、次男・出口清吉が戦死したから福知山歩兵二十連隊へ骨を取りにこいという通知があった。

 引用の筆先の「あおやすの婆」とは誰か不詳だが、『教祖伝』によると、遺骨はいったん直の兄・桐村清兵衛の家に安置され、後に埋葬された。現在は天王平の墓地に遷されている。

 遺骨と対面して、「こら、艮の金神、嘘ぬかした。もう言うことは聞いてやらん」と、慎しい直にはあるまじき荒っぽい言葉で怒りを表現する。いかに清吉の戦死が衝撃であったかが知れる。だが神は、国から弔慰金まで下賜されながら、「清吉は死んでおらんぞよ」と言う。

 筆先の表現の特徴は、すべて平仮名と数字だけで、句読点のないことだ。句読点は文意を正確に判断するためには意外に重要である。

 「ものさしはかります」の看板にしても、「物差計ります」と読みたくなるが、実は「物差、秤、桝」の計量器の看板だったりする。

 江戸中期の脚本作家・近松門左衛門が数珠屋に「なぜ句読点なんか打つんですか」と質問された。近松は笑って取り合わなかったが、その後、「ふたへにまげてくびにかけるじゅずをつくれ」と紙に書いて、数珠屋に註文した。数珠屋はおかしいなと思いながらも、注文通り、二重に曲げて首にかける長い数珠を作って持って行った。すると近松は、「それは注文の品と違う」という。数珠屋は「いえ、御注文通りです。ほら、ちゃんとここに書いてあります」と注文書を見せると、近松は「わしの註文したのは、二重に曲げ、手首にかける数珠じゃ」と答えたという。

 筆先の「しんでおらん」にしても、「死んでおらん」と読めば、死んでいないのだから生きていることになる。だが「死んで、おらん」なら、「死んで、もういない」。

 句読点のあるなしで、全く正反対の意味になる。あるいは、肉体は死んでいるが、魂は生き生きとして働いているという、折衷的な解釈もできよう。

 だが直や役員信者たちは、神の言葉を長い間「死んでおらん」とのみ理解し、清吉はいつ帰ってくるかと、待ち望んだ。 


 ★御霊の因縁 p443


 「出口清吉は結構に艮の金神さま、龍宮の乙姫さまにお世話になって、結構なことさしてもろうておりまする。清吉殿は艮の金神が日の出神と名がつけたる子よ。正一位稲荷月日明神と申すぞよ」(明32・旧8・10)
 「出口清吉を日の出神と神界から命令頂きて、今度の大望について出口清吉と三千世界の手柄いたさして、日の出神と現われて、親子2人を地にいたして、昔からの因縁を説いて聞かしたならば、変性男子と女子の囚縁が解るぞよ。この因縁は珍しき因縁ざぞよ。説いて聞かしたならば、みな改心できるぞよ。出口直、出口清吉、出口澄、みな因縁ある身魂であるぞよ。今度世の元になる因縁の身魂が天で改めいたして、一とこへ集めてあるのざぞよ」(明33・旧7・25)

 「明治36年の4月の28日に岩戸開きと相定まりて、結構に変性男子と女子との和合がでけて、金勝要(きんかつかね)大神は澄子に守護いたすなり、龍宮さまが日の出神に御守護遊ばすなり、四魂そろうての守護いたさねば、今度の世の立替には、上下そろわんとでけはいたさんぞよ」(明治36・旧4・30)

 では清吉の生死がなぜ重要かといえば、筆先に、清吉の御霊の因縁が日の出神と告げられているからである。

 日の出神とは、立替に必要な四魂のうちの二魂で、とりわけ龍宮の乙姫と引き添うて外国で大働きするという、信者の夢かき立てる神である。『霊界物語』によれば、伊邪那岐尊の御子大道別(おおみちわけ)の没後、国祖は大道別の四魂のうち、荒魂・奇魂(くしみたま)に日の出神、和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)に琴平別神と名づけ、陸上は日の出神、海上は琴平別として神界の経綸に奉仕するが、国祖出現に当たってば聖地に出現して地盤的太柱になるという。日の出神とはいわば職名であり、大道別の一つの働きをさす。

 出口清吉が日の出神というのは、一時期、その役割を分担したことを指し、日の出神の本体ではない。だが当時の信者たちは、そのようなことは知らない。

 日の出神の本体、すなわち大道別の現界的働きをする出口王仁三郎が綾部入りして金光教団から独立し、金明霊学会(大本教団の母体)を設立して以後も、大本は世間から気違い集団のように見られていた。その集団に参加している役員、信者たちは、出口清吉が日の出神としての働きを示し、やがて外国から大手柄を立てて帰ってくる、その時こそ輝かしい日の出の守護の世になるという期待を抱いていた。

 清吉はまさしく救世の大英雄、夢の存在であったが、その消息はようとしてつかめず、虚しく時が過ぎていく。 


 ★清吉死の謎 p444 


 清吉は本当に戦死したのか。

 日清戦争は明治27年8月1日勃発、28年4月17日下関で日清講和条約が調印され、日本の勝利で終る。この結果、日本の植民地として台湾領有が決まる。日本は樺山海軍大将を台湾総督に任命、軍事抵抗を予想し北白川宮親王の率いる近衛師団を台湾に派遣、その一兵として清吉も加わる。

 5月25日台湾の中国系本島人は台湾独立共和国建設を宣言し、それに応じて各地に反乱が起る。5月29日近衛師団は台湾に上陸、抵抗らしい抵抗もなく10日目には台北に無血入城するが、その後は蜂起した島民の鎮圧に忙殺される。10月19日抗日軍は降伏し、近衛兵は台南に入城、その直後、近衛師団長・北白川宮は悪性マラリアのため台南で薨去する。11月中旬には樺山台湾総督から「台湾は全く平定に帰す」と政府に報告があり、遠征軍は続々と引揚げを開始するが、清吉は帰って来ない。その後も台湾島民の執拗な抗日運動は続き、大本営解散は29年4月に持ち越される。

 出口家戸籍に記された清吉の死亡年月日は明治28年8月18日である。しかしこの時点では、台湾に本格的な戦争は行なわれていない。日本軍が台湾を鎮圧するために投入した兵力は二個師団半、人数にして5万人である。その中で戦死者はわずか164人、日本軍が苦しんだのは実際の戦争ではなく、マラリアと食料不足である。北白川宮も台南で悪性マラリアのため薨去したように、悪疫による死者は4600人、病気による内地送還者は2万人以上である。

 では清吉の死は戦死ではなく、戦病死なのか。綾部町役場に残された出□清吉に関する記録を見よう。

 出生 明治5年6月6日
 入営 明治25年12月21日
 所属 近衛歩兵第一連隊第二中隊
 階級 歩兵一等卒
 負傷入院地 台湾病院
 死没 台湾病院にて 明治28年7月7日
 葬儀 明治28年8月27日
 扶助料及特別下賜金 下賜あり。扶助料は年30円、大正7年の出口直帰幽まで支給を受く
 住所 京都府何鹿郡大字本宮村東四つ辻二の二

 これによると、清吉は戦地で負傷し台湾病院に入院、七夕祭の7月7日に死んだことになっている。単なる病死ではない。更にいぶかしいのは、死亡日の食い違いである。戸籍では8月18日、出口家祖霊名簿では8月16日の死亡とあり、町役場の記録では、葬儀は8月27日になっているが、その時点では直は清吉の死を知らされていないから、葬儀を行なうはずはない。また戦死の通知があった後も、直は神の言を信じて清吉生存を信じていたから、葬儀をするとは思われない。恐らく出口家とは関係なく、軍隊によってなされたのであろう。

 清吉の生死の問題やそれにまつわる神秘的な問題、日の出神の問題などは拙著
☆『出口王仁三郎・入蒙秘話・出口清吉と王文泰』(いづとみづ社刊)に詳述しているので、参照されたい。

 ☆註:この著は現在、みいづ舎刊(昭和60年第1版-平成17年第2版)で読むことが出来る。これも、後ほど当該部分を紹介します。


  続く。                   
 

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