カウンター 読書日記 ●『いり豆の花』 出口和明
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●『いり豆の花』 出口和明

 以下、『いり豆の花』 出口和明(やすあき) 八幡書店 1995年7月 より引用。 
 * p○○ は同上書による。

 第一篇 丹波小史 第三章 だまして岩戸を開いた。

 ★外宮の由来 p36

 雄略天皇21年冬10月、斎王ヤマトヒメ命は、夢でアマテラス大神に教えさとされた。
「われ、すでに五十鈴川の大宮に鎮まっているが、一人では楽しくない。御饌も安く食べられぬ。丹波の国・与佐の小見比沼(おみひぬ)の魚井之原(まいのはら)にますタニハノミチヌシ王の子孫のヤヲトメの斎きまつるトヨウケ大神をお連れせよ」

 ところが雄略天皇も同じ霊夢を見ていた。天皇は驚き、伊勢の山田原に新宮をいとなみ、翌22年秋9月、トヨウケ大神を丹波の魚井之原から迎えて新殿に鎮座した。この宮を外宮といい、内宮とあわせて大神宮、または伊勢神宮という。

 これは『豊受大神御鎮座本紀』ら神道五部書に伝える外宮の由来である。『丹後旧事記』は、タニハミチヌシ命の館は比沼の真奈井の近く府の岡という所にあったと記す。内宮の御杖代であるヤマトヒメ命はミチヌシ命の長女・ヒバスヒメ命(垂仁天皇の皇后)の皇女として、母方の里から外宮を迎えたことになる。

 ★出口家始祖

 『大本教組伝・開祖の巻』(以下『教祖伝』は「丹波道主命の後裔・綾津彦命は綾部の郷・神部の地(本宮山といわれる)を卜(ぼく)して永住し、トヨウケ大神を祭っていた。のち神勅によって神霊を丹波郡丹波村の比沼の真奈井に遷し、子孫が代々奉仕していた。

 ところが雄略天皇22年9月、再び神勅によってトヨウケ大神の神霊を比沼の真奈井から伊勢の山田へ遷すことになり、その時に神霊を奉持して伊勢へ移住したのが出口家の分家であり、渡会(わたらい)家の始祖となった。その子孫には神道家・国学者として著名な出口(渡会)延佳(のぶよし)が出ている。出口家の本家は綾部の地に子孫繁栄し、多く【抱き茗荷】を家紋とした。現在の綾部市味方にある斎(いつき)神社(祭神・経津主(ふつぬし)命・創建由緒不詳)は出口一族の氏神として往昔奉祀されていた」と伝える。しかし詳細な記録や系図は中世火事によって煙滅したというから、出口家の伝承に拠ったものであろう。

 出口はイツクチであり、イツキの転訛と考えれば、出口姓と斎神社とは深い関連がありそうだ。斎とは、潔斎して神に仕えること、またはその人をさす。さらに斎王の略であり、即位の初めにト定され、天皇に代わって伊勢神官や賀茂神社に奉仕した至高の巫女である未婚の内親王や女王を指す。

 ★奇しき神縁 p37

 出口直の末女・澄と結婚して出□家の養子になる王仁三郎の生家は、上田家であった。上田家の遠祖は藤原鎌足とされ、さらにさかのぼれば天児屋根命(あめのこやねのにこと)となる。

 上田家は丹波国桑田郡曾我部村大字穴太(あなふ)小字宮垣内(みやがいち)(現・亀岡市曽我部町穴太)にある。伝承では、この大字・小字の地名の由来を、トヨウケ大神の伊勢遷座に関連づけている。

 王仁三郎の「故郷乃弐拾八年」によると、遷座の途次、神輿は曾我部郷に御駐輦になった。この地がお旅所に選ばれたのはアメノコヤネ命の縁故によるとあるから、すでにアメノコヤネ命の子孫が住みついていたのであろうか。そして厳粛に祭典が執行されたが、そのとき神に供えた荒稲の種がけやきの老木の腐り穴へ散り落ちた。やがてそこから芽を出し、見事な瑞穂を得た。里庄はそれを神の大御心とし、種を四方に植え広めた。けやきの穴から穂が出たため、この里を穴穂というようになり、穴生・穴尾と転じて、今の穴太となった。

 上田家の祖先はこの瑞祥を末世に伝えるため、上田家の屋敷のあった宮垣内に荘厳な社殿を造営し、アマテラス大神・トヨウケ大神を奉祀して神明社と称し、親しく奉仕した。上田家の屋敷のある宮垣内の名称は、神明社建造の時から発したといわれる。

 文録年間(一五九二~九六)、神明社は宮垣内から川原条(現・亀岡市曽我部穴太・小幡神社の東側辺)に遷座されてから後神明(ごうしんめい)社と改称され、いつのまにか後(ごう)神社と里人が唱え出し、今では郷神社と呼ばれ、穴太の産土である小幡神社の附属となっている。

 いずれも今日では考証できずにいるが、それが事実とするならば、すでに二千五百年も昔、出口・上田両家の出会いがトヨウケ大神を仲立ちに行われ、不思議な神縁を結んでいたことになる。

 なお伊勢の外宮にトヨウケ大神を遷座したことは国体に関する重要な出来事であるのに、なぜか正史である『日本書紀』には一行の記述もない。

 *****************

 ★帰化人の血 p43

 第四十三代・元明天皇は、和銅三(710)年に都を平城京に移した。翌四年、「丹波史千足ら八人が外印を偽造し、ひそかに人に位を与えたために、信濃に流された」と『続日本紀』は伝える。『新撰姓氏録』には「丹波史、後漢霊帝八世孫、孝目王之後世」とあるから、彼は帰化人の裔であろう。丹波康頼はその子孫といわれる。

 四世紀ごろから八世紀ごろにかけて、朝鮮人(百済・高句麗・新羅・任那)や中国人が多く日本に渡来した。彼らが伝えた技術は飛鳥・白鳳・天平と大陸的仏教的特色の強い文化を築き上げる。それが完全に咀嚼され、消化されて、やがては日本的な平安文化を生み出してゆくのであるが、丹波各地にも多くの渡来人が定住して影響を与えた。
 
 「十六年の秋七月、詔 して、桑に宣き国県に桑を殖ゑしむ。
  また秦の民を散ち遷して、庸調(ちからつき)を献らしむ。」(「雄略紀」)

 しばしば桑田郡の名の起源に引き出される一文であるが、ここでも秦氏が桑を植え、養蚕し、絹布を献じたことであろう。前文に続いて『日本書紀』は述べる。

「冬十月に、詔して、漢部(あやべ)を聚(つど)へて、その伴造者(とものみやつこ)を定む。姓を賜ひて直(あたひ)と日ふ」

 河鹿郡・【綾部】も元は【漢部】と古いたが、綾織を職とする漢部が居住したからだという。漢部は大化改新の前、中国から渡来した漢氏(あやうじ)の部民(べのたみ)の総称である。船井郡園部(薗部とも書く)の地名も、古代の部民のひとつ「そのべ」が由来だが、苑部の氏の上は苑部首(そのべおびと)といい、百済の知豆神(ちづのかみ)の裔とされる。

 このように、土着の血と外来の血がわき上がる濃い丹波霧の中でとけ合って、丹波族の勃興を見たのである。それは、出雲文化の土壌に大和文化や大陸文化が融合し、さらに時代の洗礼をへて丹波文化が形成されたことでもあった。水を涸らして丹波国を作る伝説にしても、オホヤマクイ神は秦氏の祖神であり、オホクニヌシ神は出雲の神であるから、まさに暗示的といえる。

 ★国分寺造営 

 第四十五代・聖武天皇は、天平十三(741)年、仏教の功徳による国土安穏・災厄除去を求めて、国ごとに国分僧寺・国分尼寺を造営する勅令を発した。

 丹波国分寺跡は、異論はあるが一応は桑田郡千歳村字国分の高台ということになっており、亀岡平野を展望できる景勝の地である。現在は小さな本堂だけの無住寺だが、境内には昔の堂塔の礎石が存在して当時の規模の大きさをしのばせている。

 寺伝によると、明智光秀が丹波平定のときに焼失したまま長く荒廃していたが、宝暦年間に護勇比丘(1788没)が再興して今日に及ぶ。本堂に安置される本堂薬師如来坐像(木造)は重要文化財、寺跡は国指定史跡となっている。なお国分尼寺は、近年の発掘調査から、五百メートル西の御上人林廃寺跡と推定されている。

 ●第四篇 寡婦時代 第二章 御三体の大神の御守護

 ★清吉兄さん p256 

 この頃の出口澄のあこがれの人は、寅吉の下で働いている清吉兄であった。清吉・久・澄の三人は「新宮の政五郎さんとこの暴れん坊」と噂されたが、とりわけ清吉と澄は権兵衛で鳴らしていた。

 清吉は目鼻立ち涼しく、男前で、気っ風がよかった,当時流行の闘犬が好きだったが、いつも五、六匹の犬を連れ歩いていたので、「新宮の犬の庄屋どん」と町の人たちから呼ばれた。犬を飼っていたわけではなかったから、野良犬や街の犬たちが自然に慕い寄ってきたものであろう。

負けず嫌いでよく喧嘩もした。「清吉どんが裏町で男たちにいじめられてるでよ」と告げてくれる人がいて、直は裏町へ駆けつけた。すると背に負うた澄ごと、清吉が柿の木に縛りつけられている。五、六人の男たちが床几を持ち出して坐り、「これ、あやまらんかい」とどなる。清吉少年は歯をくいしばって「なに、あやまろうやい」と力んでいる。直は清吉の縄目をふりほどいて家に連れ戻したが、清吉は「お澄をおぶっていたので気になって負けたが、いっぺんあいつらをやっつけてやる」とくやしがった。

 やんちゃはしても愛嬌があったので憎まれることはなかったが、無鉄砲で、よく相手を傷つけたらしい。澄が町を歩いていると「お前は政五郎の子やろ、清吉どんがわしにこんな傷つけたわい」と腕や足をまくって見せる人、肩肌をぬぐ人があったという。いっしょには住めなくなっても、同じ綾部の町内で紙漉きの修業中の清吉兄がいることは、澄にはどれほどか心強かったろう。 ・・・後略。

 ●第六篇 筆先濫觴 第二章 すえで都といたすぞよ

 ★近衛兵入隊 p373

 明治25年11月下旬、出口家に、直の次男・清吉(21歳)が近衛兵として徴兵される通知が届いた。

 近衛兵は、各師団ごとに、甲種合格しかも品行方正というきびしい資格をくぐり抜けた者の中から選ばれる。何鹿郡全体で、近衛兵の現役は、今度入隊する出口清吉・荻野富吉を加えても、僅か3名しかいない。清吉の近衛兵入隊は、綾部町の誉れであった。

 『何鹿郡役所日誌』の11月23日の項に「本年入営すべき新兵中、近衛兵入営に付、11時郡長より訓示あり、本部奨武会よりて酒肴料を贈る」と記載されている。清吉も招かれて、さぞ晴れがましい思いを味わったであろう。入隊者に対する役所や一般人の反響には幾多の変遷があったが、右の記録から、近衛兵に対するこの時の郡役所側の鄭重な待遇が推測できる。

 久の手記で見ると、この前後、清吉は八木まで行き、福島夫婦に別れを告げている。正確な日は不明だが、福島家はちょうど秋の収穫期で、猫の手も借りたいほど多忙であった。しかも久は10ヵ月の身重のため、充分には働けぬ。「忙しいから1泊して手伝ってほしい」と久に頼まれた清吉は、見かねて2泊し、稲刈りを助けている。王子まで足をのばしたかどうかは不明である。

 入隊する清吉のために、直はせめて好きな物を食わしてやりたいと願った。希望を聞くと、清吉は「そうやなあ、掘りたてのさつま芋が食いたいなあ」と答えた。直が苦労して手に入れたさつま芋を、男盛りの清吉がふうふう吹きながら、「うまいうまい」と言って食うのであった。

 長男・竹蔵は家出していまだに行方が知れず、三男・伝吉は大槻家へ養子にやり、清吉だけが出口家に残る只一人の男子である。その力と頼む息子をお国に奪られる直のせつなさは、いかばかりであったろう。

 「出口清吉近衛兵入営に関する通達」
― 11月24日兵庫県氷上郡柏原町旅籠業播磨屋方に集合、25日柏原町出発、三田を経て翌26日神戸着、27日近衛兵受領委員に引渡し28日神戸出発、横浜まで海路、それより汽車で東京に至る。

 清吉の東京近衛兵師団入隊は、(明治25年)12月1日であった。

 続く。
                      
 
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/650-74567ec1



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。