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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28) ◆落合莞爾
  大本教開祖の次男・出口清吉こそ不世出の軍事探偵・王文泰  


 ★極端に少ない記述 清吉幼時の不思議  

 明治6年生まれの清吉もやがて学齢期になる。出口和明『いり豆の花』がいう出口家の記事は、ナヲの4人の娘については幼時から精細を極め、長男・竹蔵のこともやや詳しく記すが、次男・清吉と三男・伝吉についての記述は甚だ少ない。尤も伝吉は、13年に4歳で姉夫婦・大槻家の養子となる(入籍は後)から、無理もないとも言えよう。ところが清吉については、

① 7歳以来、饅頭の行商をして家計を助けた。
② 15歳になり、口減らしのために、紙漉き業・寅吉のもとへ見習いに住み込ませた。
③ 20年、長兄・竹蔵の居た鳥羽の酒屋で働くため寅吉の許を去り、
  12月25日に金2円をナヲに届けた。
④ 竹蔵が蒸発したので鳥羽の酒屋を去り、綾部に戻って寅吉の下で紙漉きをした。
⑤ 闘犬が好きで、常に野良犬の5、6匹を連れており、喧嘩も強かった。
⑥ 22年頃、寅吉が博打で負けて夜逃げしたのを機に、義兄・大槻鹿蔵が自宅に引き取り、紙漉き(かみすき)をさせた。

 ・・・との記載しかなく、姉妹について些細な逸話まで延々と述べているのと比べて、比較にならぬほど簡略である。

 25年11月24日、入営のために綾部を発った時が見納めというから、以後は帰省しなかった清吉の、入営から1年半後の27年8月1日に日清戦争が起きた。近衛師団は当初は戦線に赴かず、師団長・小松宮が28年1月26日付で参謀総長に転じた後を北白川宮が継ぎ、国内で待機していた。戦況は日本優勢に展開し、3月20日から下関において講和会議が行われ、4月17日には台湾割譲、遼東半島租借を内容とする日清講和粂約(下関条約)が調印された。5月10日に海軍軍令部長・樺山資紀が大将に進級、台湾総督兼台湾軍司令官に補された。台湾では現地民による軍事的反抗が予想され、その平定のため、大連港で船内待機していた近衛師団が、東郷平八郎指揮する浪速に護衛されて5月21日に出港、直ちに基隆を占領し、6月14日師団長・北白川宮が台北城に無血入城した。7月に入り近衛師団は各地に転戦して要所を占領するが、台湾共和国独立を宣言した現地民の抵抗は激しく、樺山総督は8月20日、副総督に高島鞆之助を迎え、南進軍司令官に補した。樺山総督が10月26日台南城に入城し、台湾平定は一応成ったが、28日には近衛師団長・北白川宮がマラリアのため戦病死するに至る。11月6日南進軍の編成を解いた樺山総督は、11月18日大本営に台湾平定を報告したが、その後も土匪の反抗は静まらず、12月28日に宣蘭で武装蜂起、12月31日には台北周辺ども武装蜂起があった。 


 ★台湾で失踪、戦病死を装い 王文泰 として密かに再生 


 出口和明の前掲書によれば、旧暦9月の頃から、何処からともなく清吉戦死の噂が流れた。陸軍からは何の知らせもないので、清吉を可愛がっていた義兄・大槻鹿蔵が綾部町役場に掛け合い、役場から陸軍に問合せたところ、清吉の隊からは1人の戦死者も出ていないとの回答があった。台湾征討軍は続々凱旋するが、いつまで待っても清吉は帰ってこない。その後陸軍から、清吉が28年7月7日に台湾病院で病死したとの報せがあり、29年12月26日付で「明治27・8年ノ役死没シタルニ依リ特別ヲ以テ金150円」、また31年3月7日付で「明治27・8年戦役ノ功ニ依リ受賞スヘキ所死没セシニ付キ特旨ヲ以テ金120円」を下賜され、さらに大正7年のナヲの他界まで、遺族扶助料として年間30円が与えられた。

 近衛師団の一等卒として台湾征討に加わった清吉は、台湾病院から秘かに失踪し戦病死扱いにされたと推察するが、詳細探求は本稿の目的ではない。むろん不名誉な脱走ではなく、軍事探偵になるため戦病死を装ったのである。清吉が選ばれた理由は勤務評定ではない。そもそも近衛兵採用じたい、大江山衆として国事に携わるためであった。大山巌の後の陸軍大臣は、28年3月から山県有朋、5月に西郷従道に代わりさらに大山巌に交代し、29年9月に至って高島が再び就任した。山県時代の2カ月を除くと、軍政首脳はワンワールド薩摩派が占めていたので、清吉の軍事探偵転向は、ワンワールド薩摩派が関与したと見るべきである。

 明治33年の「北清事変」は、白蓮教の秘密結社・義和団を拠り所にした民衆の暴力的な排外運動であったが、清室でも西太后が支援、遂には清国の列強への宣戦布告となった。義和団鎮圧のため出兵した列強8ヵ国の中でも日露両国は最大の兵員を派遣した。日本は福島安正少将を司令官として臨時派遣隊を出し、次いで山口素臣率いる第五師団を派遣するが、この時日本の軍事スパイとして活躍した者がいた。

 出□和明前掲書によれば、明治33年8月13日付の『日出新聞』に、従軍記者の話として、「三十歳前後の元気の良い一人のチャン(清国人)が巧みに日本語を遣ってしきりに話をしており、周囲に名前を聞くと軍事探偵・王文泰と言うので、面会した。十数年来南清から北清と跋渉し、服装言語のごときも丸で支那人としか見られず、歩き様まで支那人その儘である。本名は言えぬが、土佐人ということである。太沽砲台から白河沿岸及び天津城の偵察により、連合軍に大きな利益となった。軍事探偵としては、王文泰に劣らないのがもう一人いる」とある。

 その王文泰こそ出口清吉であった。記事には「土佐人」とあるが、土佐に忍者習練所があり、資質の優れた大江山衆の少年を呼んで練成したらしい。本稿で以前、上田吉松が越後国、柏崎荒浜の倭人の女・渡辺ヰネに生ませた双子の一人、辺見こと牧口某が幼時に土佐で鍛えられたと述べたが、この習練所のことである。三角寛が説く山窩伝承では、山窩の棟梁アヤタチ丹波が一族の教育を総覧し、各地のセブリの青年を丹波に呼んで一人前の山窩に鍛練するとある。その丹波アヤタチ大学と土佐の奉公衆習練所の関係は未詳だが、当然深い関係にある。下北半島の薬研温泉で、槇玄範が上田一族の子弟を練成していた現場を見たと『周蔵手記』に記すが、同じ性格のものであろう。清吉幼少時の状況が朧気なのは、その間に土佐習練所に留学していたからであろう。姉たちは幼時から子守に出され、妹・スミだけが清吉の記憶を残すが、王仁三郎の妻になった後は、幼時の見聞については□を噤む必要を感じたものであろう。 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28)  <了>


 
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