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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28) ◆落合莞爾
  大本教開祖の次男・出口清吉こそ不世出の軍事探偵・王文泰  

             
 ★なぜ近衛入隊が叶ったか 出口一族の秘事を探る


 愛親覚羅氏と皇室を繋げた功労者は軍事探偵・王文泰であった。本名出口清吉といい、大本教の開祖・出口ナヲの次男として明治5年旧6月6日に丹波綾部で生まれた。ナヲの曾孫(出口王仁三郎の孫)出口和明の著書『いり豆の花』によれば、明治25年旧元旦に霊夢を見たナヲが、その数日後に帰神し、教団はこれを以て大本の開教とする。後に清吉の妹・スミの入婿として出口王仁三郎を名乗る上田鬼三郎は、明治4年旧7月12日生まれだから、義弟ながら清吉より1歳上である。

 気性さっぱりした美丈夫の清吉は、25年夏に20歳に達して徴兵検査を受け、12月1日を以て近衛師団に入営することとなった。近衛師団の魁は4年2月に薩・長・土三藩の藩士から募集した御親兵で、5年近衛兵と改称し天皇及び皇居の守衛に任じた。全員士族の近衛兵は、6年の徴兵令で鎮台が設置されると、徴用された鎮台兵(壮兵)の軍事訓練にも当たった。24年陸軍大臣・高島鞆之助が鎮台を師団に改編した時、近衛兵は近衛師団と改称、平事は天皇・皇居の警護を旨とし、戦時には教線に参加することとなり、初代師団長に陸軍大将・小松宮彰仁親王を補した。一般師団は所在の管区から徴兵したが、近衛師団は全国の徴兵から選抜した兵を以て充てた。家柄良く身体強健、学業優秀、素行良好を条件に徴兵検査で選抜された近衛入営者は、各郡からわずか1、2名で家門の名誉とされた。25年に何鹿郡から入隊したのは清吉のほか1人であった。

 出口和明前掲著は、ナヲの残した御筆先の内容を関係文献・周辺伝承で裏打ちして、開教の事情に関し精緻な考証を重ねたものだが、その中で清吉について、小学校にも行かず紙漉きをしていたのに近衛兵に選ばれた不審を追究していない。そもそも25年は元旦に実母・ナヲが神懸かりして警察命令で座敷牢に幽閉され、直前に実姉・大槻ヨネも発狂、さらに実姉・福島ヒサも一昨年に発狂した。綾部で知らぬ者はない問題の一家の子弟を天皇に近侍する近衛兵にわざわざ選ぶなぞ、通常ではあり得ない。出口家が極貧ばかりか精神的にも悲惨な状態にあったとの説明が事実なら、清吉の近衛入営と明らかに矛盾する。蓋し、その裏には出口和明さえ知らない出口一家の秘事があった。因みに、王仁三郎の祖父・上田吉松に関しても、『周蔵手記』が伝える実像は、教団側の説明とはかなり異なり、むしろかけ離れている。

          
 ★大江山衆=鬼の系譜  神出鬼没の上田吉松 

             
 出口王仁三郎の旧名を、世上では上田喜三郎とするが、これは後日の改名である。もともとは鬼三郎で、本人も鬼三郎と記名した事がある(出口和明前掲著)。第一喜三郎ならば王仁三郎と読み替えることはできない。「鬼」には重要な意味があり、王仁三郎の実兄で、上田吉松と津軽藩主の娘の間に生まれた槇玄範(三代目)も、幼名を鬼一郎と称した。アマベ氏の建てたいわゆる丹波古王国の後裔という月海黄樹は、その著『秀吉の正体』で、アマベ族が没落後自ら「鬼」と称したと唱えるが、丹波や茨木の鬼のことは、中世文学にもたびたび登場しており、首肯しうる。近来仄聞する大江山衆とはアマベ氏の末裔のことであろう。

 大江山衆の一部は、丹波国柴田郡曽我部村大字穴太を拠点として、上田姓を称した。上田は信州小県郡真田荘の地名で、丹波上田家とはむろん深い関係にあるが、地名が前か家名(姓)が前かは未詳である。丹波での養蚕を手掛かりに、京に進出して銅産業を興した上田家は、『周蔵手記』の別紙記載(大正6年または7年)によれば、代々オランダ取引を行い血筋にもオランダが混じり、オランダ絵を描いた画家・円山応挙すなわち上田主水もその一族であった。国産絹糸が間に合わず、絹織物に大陸白糸を用いた江戸初期、上田家は白糸の大口輸入者だった筈で、白糸の輸入は室町時代の南蛮(ポルトガル)取引から始まったのであろう。

 当時の明国は、倭寇対策のために海禁政策を採り、日本との直接交易を禁じた。因って日明貿易は、ポルトガルと李氏朝鮮国による中継貿易か、密輸によるしかなかった。ポルトガル人は鉄砲・火薬と明国産白糸を持込み、日本から銀・銅地金など特産品を輸出した。入超の日本側の貿易差額を補ったのは男女の奴隷で、鹿児島や島原半島に拠点があったことは地元に伝承されている。従来の学校日本史は、明治政府の皇国史観に迎合する余り、この事実を認めるに吝かで偏狭な自己満足性が強いが、更にこれに迎合しているのが通俗史観である。

 応挙から五代目が上田吉松で、孫の王仁三郎は吉松を博打好きの貧農と説明するが、もとより真実ではない。亀岡市穴太の地は、現在も上田姓の豪農が軒を構える裕福な地である。吉松の家職は皇室の忍者であった。オランダ渡りのケシを用いた御祓(祈祷)で言霊を呼び(憑依)、乗り移り(帰神)の神事をしながら全国を回遊していた吉松を、『周蔵手記』は、妻・ウノの勧めによるものとするが、上田一族にはもともと霊媒の素質があったのだ。『周蔵手記』によれば、吉松は所伝のごとく明治初年に死んではおらず、生前葬式を出して死亡を装い、陸奥国下北郡小目名の薬研温泉に移り、下北郡長・氏家省一郎の戸籍を買って成り代わった。下北に移った後も、しばしば穴太の実家に立ち戻り、幼少の鬼三郎の前にその姿を顕したことは、出口王仁三郎の回顧談からも窺える。皇室のための情報を集める傍ら、各地に数多くの子孫を残した吉松は、下北半島では、津軽藩士の娘に生ませた鬼一郎を漢方医・槇氏の家系に入れて三代目槇玄範とし、斗南藩士の窮状を救った。故郷の丹波では、鬼三郎が祖母の中村氏ウノに導かれて言霊学などの修業を積み、いずれも大本開教の基盤を成した。

 王仁三郎が祖父の実像を修飾したのは、大本開教の縁起として必要だからであろう。出□和明が掘り起こした開教前後の状況は概ね否定する必要はないが、例の王仁三郎と出口家族の虎天堰での奇跡的な邂逅のごときは古来どの宗教も唱える開教縁起であって、史実と見ては誤る。大本開教の関係者は大半が大江山衆で、綾部の出口家も同系であるから、吉松とナヲの間に以前から連絡があっても不思議はないが、具体的なことは未詳である。

 ここに興味深い逸話がある。明治23年旧7月18日、娘の福島ヒサが発狂したとの報せを受けたナヲは、翌朝綾部を発ってヒサの住むハ木嶋に向かう。道中で47、8歳ほどの上品な男が追いついてきて道連れになり、ナヲは家族のことをいろいろ相談する。一々答えたその人物は、名前も言わずに別れて、広い道を降りて行き、突然その姿を消した。ナヲは以後、何度もそこを通るが、その広い道を見つけることが出来ないでいた。後日これを聞いた王仁二郎は、その旅人こそ本田親徳で、折から丹波元伊勢に参詣し、比沼真奈井神社に神跡調査のために出張した時のことであると『大本教の活歴史』で解説した(出口和明前掲書)。薩摩藩士・本田親徳(1822~1889)は神道霊学中興の祖とされ、王仁三郎にも多大な影響を与えたが、22年4月9日に他界した筈の本田が、1年後に八木嶋の路上でナヲに会い、幻の広道に消えたとなると、もはや人間界の話ではない。王仁三郎がどう説明したか知らぬが、この逸話は、ナヲが自ら意識しないままに、古神道系の人物と接触していたことを暗示するものとも思える。あるいは、その旅人こそ(年齢は違うが)上田吉松その人であった可能性さえなくもない。

 
 ★堤哲長を介して結びついた 吉薗ギンヅルと渡辺ウメノ

 
 大本開教に関わりながら教団資料に見えない重要人物は、渡辺ウメノである。穴太上田家の女と京の町医者・渡辺氏の間に生まれたウメノは、公家・堤維長家の女中に上がった時、世継ぎの哲長の娘を生んで宿下がりし、後にいとこの吉松の妾となった。大本の開教を企画したのは、出口ナヲではなく吉松とウメノで、吉松の孫・鬼三郎をナヲの女婿にして将来の教主にする筋書を作ったものと思われる。吉松・ウメノとナヲの関係が世に知られないのは、大本教団側が隠したというより、教団内でもナヲと王仁三郎しか知らない極秘事として扱ったからであろう。

 ナヲは福知山の士族・桐村五郎三郎の娘として生まれた。桐村家はもと丹波国船井郡桐ノ庄の領主であったが、明智光秀の家臣となり、本能寺の変で没落した。ナヲは母方の出□家の養女となり、四方豊助が入夫して出口家を継ぎ、通名・政五郎を名乗ったが、四方家と出口家は何代も絡み合う同族であった。両家の本貫の地綾部は、もとは漢部と書いたが、「漢」は大陸ではなく朝鮮半島南端の任那の一部-伽耶の安羅(アラ・アナ)を意味する。つまり、南韓渡来人の拠点を指したもので、同じ語源の穴太(アナフ)とは通じるものがある。
 開教当初の大本の有力信者は、綾部鷹栖村(綾部市鷹栖町)に住み、「鷹栖の平蔵」と呼ばれた四方平蔵である。高須・鷹栖の地名は全国に十数箇所にあり、理由は未詳だが、ポルトガル人・オランダ人と何かの縁があるらしい。ポルトガル伝来の鉄砲製造法を習得した紀州根来の芝辻理右衛門が、大筒鋳造の功で家康から賜わった土地も堺の高須(堺市高須町)で、当然ここは南蛮貿易にゆかりがある。タカスと呼ばれる奴隷商人が、各地で在来民と通婚して混血児を作る戦略によって、在来族の財産を略取しながら勢力を扶植してきた一例は、ポルトガルと広東人の混血で今もマカオを支配するマカイエンサ族であるが、上田吉松の行状を具に見ると、確かにマカイエンサ的要素が濃い。アマベ族が、南蛮交易を通じてしだいにマカイエンサ化されたのが、幕末以後の大江山衆であると想像される。して見ると、日本各地に点在する高須・鷹栖の地も、混血族と全く関係がないとは思えない。

 薩摩屋敷の女中頭・吉薗ギンヅルを新妾にした公家・堤哲長は、旧妾・渡辺ウメノから伝授された医術をギンヅルに教え、二人で幕末の混乱を乗り切った。渡辺ウメノと吉薗ギンヅルに哲長の正妻・山本氏清容院を加えた三人は気が合い、何でも相談し合う仲間となった。哲長の死後、浅山丸・一粒金丹の製造で財力をつけたギンヅルは、陸軍薩摩閥の寵児・高島鞆之助を事業・政治上のパートナーに選び、一緒に甥の上原勇作を育て上げる。高島は24年5月から25年8月にかけて陸相を勤めた。大本教に加入しなかったギンヅルも、ウメノの頼みとあらば、高島中将を動かすことなぞ訳もなく、家系に問題のある出口ナヲの次男・清吉を近衛兵に採用するくらいは容易であった。尤も清吉の近衛入営はナヲや吉松が強いて望んだものではなく、大江山衆に対する高所からの命令であったように思う。出口家も大江山衆であるからには、一族の俊秀・清吉を軍事探偵に徴用されても否応はなかった。

  稿を改めて<続く>。
                      
 
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