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 ●疑史(第55回) 甘粕正彦の山県元帥暗殺計画
 ●疑史(第55回) 甘粕正彦の山県元帥暗殺計画
             評論家 落合莞爾 (『月刊日本』4月号)。  


 本稿は前々月まで、5回にわたり上原勇作について述べた。これで終わりではなく、話はまだまだ続くが、ここで一度中断し、上原に最も近かった人物に視点を移すことで上原像の奥行を深める必要を感じる。その人物とは甘粕正彦である。甘粕は「国体絶対の天皇崇拝者で無政府主義者を憎み、渋谷・麹町憲兵分隊長の時たまたま起こった関東大震災を奇貨とし、職権を悪用して大杉栄・伊藤野枝ほか一名を惨殺した。懲役10年の宣告を受けたが3年で恩赦出獄、満洲に渡って関東軍・満洲国の黒幕となり、満映理事長として暗躍し、終戦に際して服毒自殺をした」とされているが、これはいわば二次元の正面図に過ぎない。

 巷間幾つかの甘粕伝記があるが、いずれも正面図の骨の上に些事の表皮を張り付けたものばかりである。真船豊の『赤いランプ』が描く、自分が殺した大杉らの亡霊に悩まされて満洲の荒野を彷徨する甘粕像に至っては噴飯の極みで、伝奇と呼ぶしかない。こんな甘粕伝奇をこさえた左傾文人たちの思考は、帝国陸軍への私的な嫌悪感からか、被害者の大杉を偶像的英雄と見做し、敵役の甘粕を国家主義者の定型に嵌めた安直なもので、これをしも左翼公式主義史観ないし通俗史観という。ところが、渡満後の甘柏が発揮した力量と、機微に通じたその人間性を説明し辛い処から、甘粕を主義者暗殺の過去を克服すべく新天地建設に勤しんだ複雑な性格と謳うわけで、甘粕生涯の前半と後半の矛盾を主題とする軽文学ならばいざ知らず、史的探究としては畢竟低劣極まるものでしかない。

 上原勇作の個人付特務の吉薗周蔵の手記には、それらとは全く違う、いわば内側から見た甘粕が描かれている。甘粕の表面的な概要については巷間の伝奇に委せるとして、以下では周蔵手記の記載を編年的に観ながら、甘粕の実像を探ってみる。

 『周蔵手記』では、甘粕は大正九年一月三十日条に初登場する。報告のために陸軍参謀総長・上原勇作の私邸を訪れた吉薗周蔵は、上原が満鉄に送り込んだ特務・鎌田弥助に久しぶりで会う。鎌田は「一度満洲にケシの指導を頼みたい」と言った後、同席の人物に周蔵を指して、「この人のこと覚えていて下さい。ウィーンの時は武田ナニガシだったが、今は煙草屋・小山ケンーとても言うのかな」と言い、続けて小声で、「例の吉薗は・・」と口にしたので、周蔵は陸軍特務の誰かが自分の名前を使って活動していると覚る。憲兵司令部副官・甘粕と名乗ったその人物は、挨拶代わりに「今日が初めてじゃないですよ。以前さる所でお見かけしましたよ」と切り出したので、周蔵は言いようのない不安に襲われた。上原の命令で純質阿片の増産に苦心している周蔵は、年によりケシの作柄が安定しないことから、不作の年に備える目的で、上原には内緒で阿片の備蓄を始めた。昨年は殊に豊作だったので錫張りの茶箱にかなり貯蔵したが、それを疚しく感じていたから、「上原閣下がわざわざ憲兵を紹介させたのは、秘密備蓄に勘づいたからか?」「甘粕がどこかで会ったというのは、どこか?」などと妄想が膨らみ、その夜から落ち着けなくなった。

 2か月後の3月29日、中野小淀(中野区中央)に周蔵が開く精神カウンセラー救命院に甘粕中尉が訪ねてきた。周蔵が動揺を見せたせいか甘粕は、「個人として伺ったのであり、上原閣下(からの紹介を)はじめ、軍人としては見ないで欲しい」と言いだした。たまたま顔を出した藤根大庭の計らいで空気が柔らかくなり、酒を出して三人で一杯やり始めた。落ち着いて甘柏を観察した周蔵は、「憲兵ト思フカラ 恐シイトイフダケデ、人柄温厚ニテ温イ好人物デアル。自分ガ閣下直属デアルコトデ、珍シイト思イ 関心ヲ持ッタノト、偶然二薩摩県人会二招カレタ時、権兵衛閣下ト 県人会デ話シテヰル様子ヲ見タノデ、ダフ云フ人カト思ッテヰタ」と記した通り、素顔の甘粕は憲兵的な陰険さのない温和な好人物で、言葉づかいも丁寧であった。甘粕が『周蔵手記』に登場する二回目のこの日が、周蔵にとって甘粕が「上原閣下カラ与ヘラレタ中途半端ナ上司」となる最初となった。

  甘粕正彦は明治24年2月生まれ(★1891年1月26日生まれ)で、周蔵より3歳年長である。陸士24期卒で大正元年12月歩兵少尉に任官、大正4年9月陸軍戸山学校へ入学、同12月歩兵中尉、落馬事故により5年夏から6年暮にかけて温泉療養、7年7月憲兵科へ転科して憲兵中尉、同年8月に朝鮮憲兵隊付となり、楊州分署長として8年3月の<万歳事件>(1919・3・1)を収拾して注目され、同年10月には憲兵司令官・児島惣次郎中将の副官に抜擢された。周蔵との初会はこの時期である。その後は9年8月に東京憲兵分隊長(とあるが?)、10年6月憲兵大尉に進級して市川憲兵分隊長、11年1月に渋谷憲兵分隊長。この間、元年秋から10年春にかけて憲兵練習所に入所、8人中2位で卒業した。因みに、首席は陸士25期の石田乙五郎で後に陸軍中将となり憲兵のトップに立ったが、A級戦犯となった。

 甘粕の言う「さる所」とは2年半前の薩摩県人会であった。日向・大隅を含む島津藩領の出身者が集まる会で、『周蔵手記』によれば大正6年10月27日西郷従徳邸にて行われた際、周蔵は海軍の招待で出席した。その席で、叔母・ギンヅルの京の薩摩屋敷以来の知人の山本権兵衛が周蔵の手を取って語っていた現場を、甘粕に見られていたのである。甘粕は偶然招かれたと言ったが、実は上原の手引きであろう。前月23日、上原邸で泰平組合の後始末の会合を開いていたのを、報告に訪れた周蔵を偶然目にした。ジーメンス事件で山本権兵衛内閣を潰した黒幕の上原は、政敵山本の反撃を警戒し、落馬事故で温泉治療中の筈の甘粕に命じて、秘かに山本の様子を調査させていたのである。

 上原が甘柏を派遣した目的が阿片備蓄の摘発でないと判り、藤根が退去すると、甘粕は初めて来意を述べた。「訳あって人を一人暫く匿って欲しい。伊達順之助なる人物にて、匿うと言っても隠れ住むなどが出来る人物ではない。只、何時でも逃げ込めるような所が欲しい」と頼まれ、了解した周蔵は、当分は完全に隠れて居なければならないと聞いて、奥多摩小菅村の農作業小屋を説明した。「ここには自分と親爺殿しかいない」と言うと甘粕は喜び、「また、市内であれば牛込弁天町にもアジトがある」というと更に喜び、「早速、夜中にでも伊達を伴って来る」と言い出したので、周蔵は「仕方ナク、佐伯ト、徳田サンノコト話ス。自分ガ尾行サレタコトガアッタ」と説明した。

 周蔵のアジトの一つ救命院には、大谷光瑞から支援を頼まれた美校生・佐伯祐三や富豪薩摩治郎八が紹介してきた無政府主義者・徳田球一たちが勝手に出入りしていた。ことに佐伯は、周蔵を秘かに監視していて先日も尾行されたことを説明すると、甘粕は「それなら明日、直接弁天町に行く」と言いだした。周蔵は先回りして救命院の事務員・池田巻に「伊達の食事を頼めるか」と尋ねたら、巻は「小菅村モ弁天町モ了解」で、「モシ弁天町ガ心配デアルナラ、越谷二信用デキル人ヰルカラ頼メルガ、思フ二 万一ノ時ハ(周蔵自宅の)幡ケ谷ガ良イ」とまで言ってくれたので、周蔵は自分か特務であることを初めて打ち明け、「秘密が多いが守れるか」と聞くと、「守レマスト云ハル。ハッキリト云ハル。一カ八カト思フ」という成り行きになった。

 伊達順之助の山県暗殺未遂事件は巷間の甘粕伝奇にはないが、右翼側の伝承にはある。宮中某重大事件を起こした山県の横暴を憤る男爵・伊達宗敦を父、反山県派の先鋒伯爵・大木遠吉を義兄に持つ順之助は、山県の暗殺を思い立ち、小田原の別荘に通う山県の乗る東海道線を六郷鉄橋で爆破しようと考えたが、周囲が直情径行派ばかりで具体的な計画を立てられず、仙台生まれで飲み仲間の甘粕に相談を持ちかけ、甘粕に宥められたが実行寸前まで行った一件で、都築七郎『伊達順之助』と胡桃沢耕史『闘神』が述べる内容は具体的で、作り話の筈はない。佐野真一・角田房子の甘粕伝奇がこの右翼伝承を無視したのは、史料本位の通俗史観の例である。尤も大正8年の暗殺計画に、同年10月まで朝鮮憲兵隊にいた甘粕が関与したとは時期的に考えにくいうえ、治安維持を本分とする憲兵に元老暗殺を持ちかける道筋は荒誕の極みで、耳にしたくもない気持ちは分かる。

 先年、順之助の子息の伊達宗義拓大名誉教授に直接伺ったところ、一家の伝承でも暗殺計画は事実だが、警察は華族子弟の血気話として重大視しなかったとのことで、つまり司法大臣・大木遠吉の甥が主犯のため妄想犯として政治的に処理され、警察が資料に残さなかったらしい。およそ史的考察のためには、史料として残ったことより、残らなかった事象にむしろ探究価値がある。著書の類の評価も、「何を書いたか」より「何を書かなかったか」に着目すべきである。この観点からすると、佐野は暫く措くとして、角田房子が『甘粕大尉』を著した目的は、甘粕の実像隠蔽と史実歪曲にあったと見てよい。角田が甘粕の弟あたりに依頼されたものと思われる。

  伊達に関して『周蔵手記』は、右翼伝承とは全く異なる面を詳述することで、一件の実在を証明した。逆にこの記述があることで『周蔵手記』の信憑性も高まる訳である。暗殺計画の背景について、右翼伝承は国体思想による単純な反山県感情と見ており、伊達家伝承は順之助の血気に帰すが、真相はおそらく上原が目の上の瘤の山県の失脚を狙って企んだもので、右翼伝承では宥め役とされる甘粕が実際には隠れた火付け役だった可能性が高い。甘粕の関与についても、朝鮮憲兵隊に在籍していながら秘かに上京していたとしても不思議はない。謀略に満ちた甘粕の人生は、落馬事故の頃からすでに始まっていたのである。

 上原が、パフォーマンスにせよ山県暗殺計画を命じたのは、相手の甘粕が安心できたからで、実は両人は実質的に岳父と女婿の関係にあった。上原の隠れた支援があればこそ、軍人としての甘粕のアリバイは万全であった。上原はフランス留学時にアルザス系女性と知り合い、混血娘を儲けた。女性の実家ポンピド一家が在仏ワンワールドの領袖であったのはむしろ当然であろう。娘の年齢は、24年生まれの甘粕よりも3歳ほど下らしいが、上原は22年と29年に欧州に出張しており、後者とすれば30年生まれとなるが、何も欧州で出来たとは限らない。ともかくその娘が日本で甘粕の愛人となりフランス語を教え、大正6年秋から7年7月にかけて、二人して秘かにフランス留学をした。その時期は憲兵転科までの空白の期間で、療養中の温泉場を抜け出したとしても、家族や部下は敢えて疑うことがなかった。娘の母の名はジルベールと聞いたと思うが、その兄はメソヂスト派の牧師で彭坡得の支那名で来日し、神田区三崎町の中華メソヂスト教会の牧師になったと、大正11年の警視庁外事課の資料にある。ポンピドー牧師の活動拠点の青山教会に潜入したのが伊藤野枝で、ポンピドーを洗っていた。

  ●疑史(第55回)   <了>。
                      
 

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